[要出典]
深夜2時を回った。
私はこめかみを指で押し、乾いた瞬きを繰り返しながら、光量の落ちたモニターを睨んでいる。
法学部の講義「現代社会と法論理」のレポート。テーマは『立証責任と悪魔の証明』。提出期限は今日の朝9時だ。
正直に言えば、まともに文献を漁る時間は残されていなかった。私は禁じ手と知りつつ、ブラウザに「悪魔の証明 Wikipedia」と打ち込み、エンターキーを叩いた。
表示された内容をざっと読み、語尾を変え、構成を少し弄ってレポートの形に整える。それだけの作業のはずだった。
画面には、見慣れた無機質なフォントで、その概念が説明されている。
悪魔の証明
悪魔の証明(あくまのしょうめい、ラテン語:probatio diabolica、英語:devil's proof)とは、証明することが不可能か非常に困難な事象を悪魔に例えたものをいう。中世ヨーロッパのローマ法の下での法学者らが、土地や物品等の所有権が誰に帰属するのか過去に遡って証明することの困難さを、比喩的に表現した言葉が由来である[1][2]。
(中略)
一般に「ある事象が存在しないこと(不在の証明)」は、全知全能の悪魔でなければ証明できないとされるため、こう呼ばれる。例えば、「この部屋に透明人間がいない」ことを完全に証明することは、科学的・論理的に極めて困難である。
ふん、と鼻を鳴らす。 典型的な説明だ。これをコピペして、「透明人間」を「未発見の生物」あたりに書き換えればそれなりの字数になるだろう。
マウスホイールを回し、ページをスクロールさせる。「歴史的背景」「ローマ法における扱い」「消極的事実の証明」。 淡々とした記述が続く中、不意にスクロールする手が止まった。
「現代における解釈」という項目の末尾に、妙な一文がぶら下がっていたからだ。
観測者が単独であり、かつ閉鎖空間に位置する場合、背後の空間における存在証明は「確定的な未確定」という特殊なパラドックスを生じる。 [要出典]
違和感があった。 前後の文脈と噛み合っていないし、「確定的な未確定」などという学術用語は聞いたことがない。誰かの悪戯書きだろうか。Wikipediaではよくあることだ。
私は気晴らしついでに、その行を削除してやろうと思った。ページ上部の「編集」タブをクリックする。ソースコードが表示される。私は該当の箇所を探すために、Ctrl+Fで「ただし、観測者が」と検索をかけた。
『一致する情報は見つかりませんでした』
検索窓の横に、冷たいゼロが表示される。おかしい。目視でソースコードを追う。「歴史的背景」の次は「関連項目」だ。さっき見たはずの、「現代における解釈」という項目自体が存在しない。
ブラウザの「戻る」ボタンを押す。プレビュー画面に戻る。
ただし、観測者が単独であり、かつ閉鎖空間に位置する場合、背後の空間における存在証明は「確定的な未確定」という特殊なパラドックスを生じる。 [要出典]
ある。 確かにそこにある。ソースには存在しない記述が、ブラウザ上にだけ表示されている。バグか? キャッシュのエラーか? 私はF5キーを連打した。画面が一瞬白くなり、再描画される。
記述は消えない。それどころか、末尾の [要出典] という小さな青い文字が、明滅しているように見えた。まるで呼吸のようだ、と不快な連想が頭をよぎる。
カーソルを [要出典] の上に合わせる。通常なら、「この記述には信頼できる情報源が必要です」というツールチップが出るはずだ。
ポップアップした白い枠の中に、黒い明朝体でこう書かれていた。
出典が不足しています。 現在、この記述を裏付ける「実例」がリクエストされています。 あなたがソースになりますか? [はい] / [いいえ]
心臓が嫌な音を立てた。ブラウザのポップアップではない。OSの警告でもない。Wikipediaのインターフェースの一部として、その「問い」は表示されていた。悪質なスクリプトだ。どこかのリンクを踏んでウイルスでも拾ったのかもしれない。
私は無視してブラウザを閉じようとした。右上の「×」をクリックする。反応しない。タスクマネージャーを開こうとする。開かない。
キーボード操作を受け付けないまま、画面の中央で [要出典] の文字だけが、じわりじわりと赤く変色していく。
カチッ。
部屋の隅で音がした。ラップ音ではない。もっと物理的な、湿った音。
舌打ちのような、あるいは濡れた肉が床に落ちたような音。
私の部屋はワンルームだ。机は壁に向かって置かれている。つまり、私の背後にはベッドがあり、その奥に玄関へ続くドアがある。音は、私のすぐ後ろ、ベッドのあたりから聞こえた。
振り返ろうとして、首が強張った。
画面の文章が、勝手に書き換わっていく。キーボードには触れていないのに、文字がひとりでに打ち込まれていく。
観測者は、背後の気配に気づいている。 しかし、観測者は「振り返る」という行為を行わない限り、背後の存在を視覚的に認知できない。 認知しなければ、それは「存在しない」と同義であると、観測者は自分に言い聞かせている [要出典]
背筋に、氷水を流し込まれたような悪寒が走る。
見られている。このテキストは、今、リアルタイムで書かれている。
誰が? 後ろにいる「何か」が?
いや、落ち着け。これは「悪魔の証明」だ。不在の証明は不可能だ。だから、私が振り返って「誰もいない」ことを確認しても、それは「その瞬間にいなかった」ことの証明にしかならない。逆に言えば、振り返らなければ「いる」ことも確定しない。
しかし、もし振り返って、そこに「いた」としたら?
観測者が恐怖により硬直している時間は、証明の猶予期間と呼ばれる。 この期間中、対象となる存在は、観測者の首筋まで距離を詰めることが可能となる [要出典]
首筋に、生ぬるい風が当たった。エアコンの風ではない。
腐った花のような、甘ったるい腐敗臭を含んだ呼気だ。
「う、あ……」
声が漏れた。 逃げなければならない。この部屋から、この論理の迷路から。
だが、体が金縛りにあったように動かない。動くのは眼球だけだ。
モニターのグレア液晶。黒い背景のWikipediaのダークモード。
そこに、私の青ざめた顔が映っている。そして、私の肩越しに、ぼんやりとした白い塊が映り込んでいる。
それは、人の顔の形をしていた。ただし、目があるべき場所に口があり、口があるべき場所に目があるような、パーツの配置がデタラメな顔。
それが、私の耳元で何かを囁こうとしている。
モニターの中のテキストが、加速する。
観測者が存在を認識したことにより、不在の証明は破綻し、存在の実証が完了する。 ソースの確定作業を開始します。
赤く点滅していた [要出典] のタグが、カシャリ、という音とともに固定された。 タグの文字が変わる。
「ああああああああああ!」
私は絶叫し、椅子を蹴って振り返った。勢いでヘッドセットが外れ、床に叩きつけられる。
……何も、いない。
ベッドの上も、ドアの前も。 ただの静まり返ったワンルームだ。クローゼットの扉も閉まっている。私の荒い息遣いだけが、狭い部屋に響いていた。
「は……はは」
乾いた笑いが漏れる。
なんだ、やっぱり幻覚か。レポートの締め切りに追われて、脳がバグを起こしていたらしい。あの不気味な映り込みも、ただの光の加減だ。
私は深く息を吐き、床に落ちたヘッドセットを拾い上げた。その時、違和感を覚えた。 ヘッドセットのプラスチックの感触が、妙に薄い。
というか、手に触れている感覚が「遠い」。
画面には、いつものWikipediaのページが表示されている。変な記述も、赤いタグも消えている。やはり夢を見ていたのか。私は脱力し、ブラウザを閉じようとマウスに手を伸ばした。
その時、ページの最下部、「脚注」の欄が更新された。 スクロールしていないのに、勝手に一番下が映し出される。
脚注
1. ^ 202X年12月04日 03:33(JST)、千葉県✕✕市のアパートにおいて発生した、男子大学生の神隠し事例。当該学生は、背後の不在を確認した直後、物理的実体を喪失した [出典あり]
「……は?」
背筋が凍る。 03:33。モニターの右下の時計と同じ数字だ。 千葉県✕✕市。ここだ。 男子大学生。私だ。
「ふざけるな。俺はここにいる!!」
私は声を上げた。
だが、自分の耳に自分の声が届かない。 喉が震える感覚もない。
私はキーボードを叩いた。『俺はここにいる』と打ち込んで、このふざけた記事を書き換えてやる。
ガシャガシャガシャ。キーを叩く音はする。だが、画面上の検索バーには、一文字も入力されない。
代わりに、画面上部に赤い帯が表示された。
[保護されたページ] 権限エラー:あなたにはこのページの編集権限がありません。 理由:被写体(オブジェクト)は、自身に関する記述を編集できません。
「被写体……?」
その瞬間、理解してしまった。
なぜ、キーボードが打てないのか。
なぜ、ヘッドセットの感触が薄かったのか。
私は、自分の手を見た。照明に照らされた私の手は、半透明の青色をしていた。 皮膚の質感ではない。
それは、ハイパーリンクの青色だった。
モニターの中のマウスカーソルが動く。
カーソルは、脚注の [1] という数字に向かって滑っていく。
それと同時に、私の身体が強烈な力で「圧縮」され始めた。
痛みはない。
ただ、三次元の立体が、二次元のテキストへと折り畳まれていく、冒涜的な圧迫感。
あ、待ってくれ。 クリックしないでくれ。
カーソルが [1] の上に重なった。 私の視界が、指のアイコンに覆い尽くされる。
出典を確認しますか? [はい]
カチッ。
ログファイル:202X-12-04_system_log.txt ステータス:更新完了
変更履歴:
・「悪魔の証明」の項目に、信頼できる情報源を追加しました。
・[要出典]タグを削除しました。
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