世界を面白がる人 〜ナイフ一本で生きる、紙とペンで考える〜
先日、阿武町で行われたイベントに参加した。

そこで、ある人と出会った。
その人は、ABUキャンプフィールドで「減災キャンプ」というコンセプトに関わっている方だった。
正直、最初はキャンプの話として聞いていた。
でも、話を聞いているうちに、気づけば教育のことを考えていた。
キャンプの話を聞いていたはずなのに、教育の話になっていく。
そういう出会いは、なんだか面白い。
ナイフ一本で生きる
最近のキャンプは、道具をたくさんそろえて楽しむものになっている。
便利な道具を持っていく。
快適な空間をつくる。
少し豪華なご飯をつくる。
もちろん、それはそれで楽しい。
でも、その方の話は少し違っていた。
たくさんの道具を持っていくキャンプではなく、もっと少ない道具で楽しむ。
究極的には、ナイフ一本でも生きていけるような力を身につける。
そんな話だった。
その瞬間、ものすごく面白いと思った。
道具があるから楽しめる。
便利なものがあるから安心できる。
お金を払えば、楽しさを買うこともできる。
今はそういう時代だと思う。
でも、本当に豊かな状態って、それだけなのだろうか。
道具があるから楽しいのか
もちろん、道具は大事だ。
便利なものも大事だ。
環境が整っていることも大事だ。
でも、それだけに頼ってしまうと、自分の内側にある力が育ちにくくなる。
自分で考える力。
その場にあるものを使う力。
足りないものを工夫で補う力。
限られた条件の中で面白がる力。
そういう力があって、そこに道具が加わるから、楽しさはより深くなるのだと思う。
道具があるから楽しいのではなく、
自分の中に扱う力があるから、道具も生きる。
その話を聞きながら、これは教育にもすごく似ていると思った。
教育におけるナイフとは何か
今の教育には、たくさんの道具がある。
AIドリルがある。
教材がある。
先生の支援がある。
保護者の関わりがある。
学習アプリもある。
わかりやすい解説動画もある。
子どもを主語にした時、周りからの支援や介入は、昔よりもずっと手厚くなっているのかもしれない。
それは悪いことではない。
むしろ、必要な子に必要な支援が届くことは、とても大切だと思う。
でも、一方で考えたくなる。
キャンプにおけるナイフ一本のようなものは、教育で言うと何なのだろう。
・いろいろな道具がなくても、これさえあれば、自分で考え始められる。
・これさえあれば、目の前の状況を整理できる。
・これさえあれば、わからないところから一歩動ける。
自分にとって、それはたぶん、
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紙とペン
なのだと思う。
紙とペンは、考えるためのナイフかもしれない
「ペンは剣よりも強し」
The pen is mightier than the sword.
ナイフと剣を連想させてしまうが、
この記事でいうナイフは、ペンと同等
「ペンとサバイバルナイフは剣よりも強し」
The pen and survival knife is mightier than the sword.
大きな言葉だと思う。
でも、教育の場面で考えるなら、自分はこう言いたくなる。
キャンプにおけるナイフ。
教育における紙とペン。
一見まったく違うようで、根っこは近い気がする。
ナイフがあれば、目の前にある木や草や火と関われる。
切る。
削る。
割る。
整える。
工夫する。
その場にあるものを、自分が使える形に変えていくことができる。
紙とペンも、同じなのかもしれない。
紙とペンがあれば、頭の中にあるものと関われる。
書き出す。
分ける。
並べる。
つなぐ。
整理する。
自分の中にあるものを、自分が扱える形に変えていくことができる。
紙とペンは、ただ記録するための道具ではない。
自分の内側にある情報と、外側にある世界の情報をつなぐための道具なのだと思う。
紙とペンさえあれば、なんとか考え始められる
考えるという行為は、頭の中だけで完結するものではない。
むしろ、頭の中にあるものを一度外に出すことで、初めて見えることがある。
書いてみると、思っていたよりもわかっていないことに気づく。
書いてみると、思っていたよりもつながっていることに気づく。
書いてみると、自分がどこで止まっているのかが見えてくる。
だから、教育で育てたい力のひとつは、
紙とペンさえあれば、なんとか考え始められる力
なのかもしれない。
それは、何もないところで一人で頑張れという話ではない。
助けを求めてもいい。
道具を使ってもいい。
人に聞いてもいい。
環境に頼ってもいい。
ただ、その前提として、自分の中に「一歩動ける力」があること。
わからないに出会った時に、ただ止まるのではなく、
何がわからないのかを書いてみる。
使えそうな情報を集めてみる。
比べてみる。
整理してみる。
原因を探してみる。
紙とペンを使って、自分の状態を少しずつ見えるようにする。
それができるようになると、支援の受け方も変わる。
ただ「わかりません」と言うだけではなく、
「ここまではわかりました」
「ここからがつながりません」
「この情報とこの情報の関係が見えません」
と伝えられるようになる。
すると、人に聞くことも、ただ答えをもらう行為ではなくなる。
自分で考えるために、人や環境を使う行為になる。
阿武町という余白
これは、阿武町という場所ともすごく相性がいいと思った。
都会には、ものもサービスもたくさんある。
何かをしたいと思った時、すでに用意されている選択肢が多い。
一方で、阿武町には、都会と同じような便利さはないかもしれない。
でも、だからこそ、あるものをどう使うかを考えられる。
海がある。
山がある。
人がいる。
空き地がある。
まだ形になっていない余白がある。
その限られたものをどう組み合わせるか。
そこに、阿武町で暮らす面白さがあるのかもしれない。
今回出会った方は、キャンプを通して、その面白がり方を見ている人なのだと思った。
自分は教育を通して、その面白がり方を見ている。
入口は違う。
キャンプと教育。
アウトドアと学習。
ナイフと紙とペン。
でも、見ている方向は少し似ている気がした。
世界を面白がる人
「世界を面白がる人」というのは、特別な才能を持った人のことではないのかもしれない。
・目の前にあるものを、ただ消費するのではなく、どう使えるかを考える人。
・足りないものを嘆くだけではなく、足りなさの中に工夫の余地を見つける人。
・便利さに頼るだけではなく、自分の中にある力を少しずつ育てていく人。
そういう人なのだと思う。
キャンプの話を聞いていたはずなのに、気づけば教育の話になっていた。
でも、たぶんそれが面白い。
世界を面白がる人と出会うと、自分の見ている世界も少し変わる。
キャンプが教育に見えた。
ナイフが紙とペンに見えた。
阿武町の余白が、可能性に見えた。
これからも、こういう人との出会いを残していきたい。
教育、キャンプ、料理、地域、仕事、暮らし。
入口は何でもいい。
その人が、世界をどう見ているのか。
何を面白がっているのか。
どうやって、目の前のものと関わっているのか。
そこに、自分はすごく興味がある。
だからこのnoteでは、これからも「世界を面白がる人」を、自分なりに観察して、言葉にしていきたい。
