【祈りを喰む人魚】第1章 滲む輪郭、湖畔の影
「また眼鏡を外して行くの?」
玄関で靴紐を結んでいた少年は、振り返らずに「うん」とだけ答えた。
台所からは、夕食の片付けをする音が聞こえている。
皿が重なる音。
流れる水の音。
母の小さなため息。
どれも聞き慣れた音だった。
「暗いんだから気をつけるのよ。」
「大丈夫。」
そう返しながら、少年はポケットの中の眼鏡ケースを軽く握る。
本当は大丈夫ではない。
足元だって見えにくくなるし、段差を踏み外しそうになることもある。
それでも外して行く。
もう何日も。
何週間も。
もしかしたら、もっと前から。
扉を開くと、夜の空気が流れ込んできた。
昼間の熱を忘れた風が、そっと頬を撫でていく。
少年は家を出ると、いつものように眼鏡を外した。
世界が、ふわりと滲む。
街灯は金色の綿毛になった。
家々の明かりは遠い星みたいに揺れている。
木々は夜へ溶け、
空と森の境界も曖昧になる。
少年は小さく息を吐いた。
その息は白くもならず、夜へ静かに消えていく。
「……このくらいが、ちょうどいい。」
誰に聞かせるでもなく呟く。
眼鏡を掛ければ見えてしまう。
教室の隅で交わされる視線も。
黒板の文字も。
返ってこなかったメッセージも。
自分だけが取り残されているような感覚も。
全部。
はっきりと。
だから、外す。
ぼやけた世界は優しい。
輪郭を失った景色は、何も責めてこない。
少年は森へ続く小道を歩き出した。
足元の草が夜露を抱いて揺れる。
そのたび、月明かりを映した雫がこぼれ、小さな星みたいに瞬いた。
どこかで鈴虫が鳴く。
すると返事をするように、少し離れた場所でもう一匹が鳴いた。
夜は静かだった。
けれど沈黙ではなかった。
辺りを見渡すと、木々は葉を揺らし、
虫たちは歌い、
風は森を歩いている。
その中を少年も歩いていた。
一人で。
けれど、一人ではないみたいに。
やがて木々が途切れる。
湖だった。
月明かりを受けた水面は、まるで夜空の欠片をそのまま落としてきたように静かに広がっている。
風が吹くたび、銀色の光が細かく砕けた。
少年はいつもの石へ腰を下ろした。
湖のほとりにある平たい石。
最初にここへ来た夜も、この石へ座った気がする。
それから毎晩。
気付けば当たり前のようにここへ座っていた。
誰かと待ち合わせをしているわけでもない。
何かを見に来ているわけでもない。
ただ、ここにいると呼吸がしやすかった。
少年は膝を抱えた。
湖を見る。
黒い水。
底は見えない。
月だけが揺れている。
その揺れる月を見ていると、心の奥のざわめきも少しずつ静かになっていく気がした。
風が吹く。
湖面にさざ波が走る。
砕けた月が岸辺まで流れてきた。
あと一歩。
あと一歩だけ前へ出れば、水の中だ。
少年はそんなことを考える。
考えるだけだ。
いつも。
本当に飛び込む勇気なんてない。
死にたいわけじゃない。
けれど、生きるのも少し疲れた。
そんな中途半端な場所に立っている。
岸辺と湖の境目みたいに。
進むことも戻ることもできないまま、
少年は苦く笑った。
「情けないな。」
風が答える代わりに、草を揺らした。
さらさら、と。
まるで誰かが頭を撫でるみたいに。
少年は寝転がる。
背中にひんやりとした石の感触が伝わった。
見上げた空には月がある。
ぼやけている。
けれど綺麗だと感じるのは、うっすらと月に被さる雲のせいだろうか。
輪郭なんてなくても。
名前なんてなくても。
綺麗なものは綺麗なのだと思う。
そのとき。
スススス…ちゃぷん。
小さな音がした。
少年は目を瞬かせる。
魚だろうか。
湖ではよく聞く音だった。
けれど。
ちゃぷん。
ハッと反射的に音のする方に体が向いた。
今度は少し近くからだ。
水面が揺れる。
月が崩れる。
銀色の光が波紋になって広がった。
少年は身を起こし、目を凝らす。
しかし何も見えない。
ぼやけた夜。
ぼやけた湖。
ぼやけた月。
その向こうで、何かが動いた気がした。
風が吹く。
長い髪が揺れるような影。
白い花が揺れたような影。
見えた気がした。
だけど分からない。
そして。
「ふふっ。」
笑い声がした。
風に紛れるほど小さな音だった。
けれど確かに聞こえた。
鈴をひとつ転がしたみたいな声。
その音に驚いたのか、水辺にいた小鳥がぱたぱたと羽ばたいて飛び立つ。
波紋がひとつ。
またひとつ。
月の欠片を揺らした。
そして。
風をくすぐるような声は、湖の方から聞こえた。
「……君、毎晩ここに来てるよね。」
少年は思わず立ち上がった。
草を踏む音が、静かな夜へ溶ける。
「……誰?」
返事の代わりに、水面がころりと揺れた。
砕けた月が、何枚もの銀貨みたいに波の上を滑っていく。
「驚かせちゃった?」
また笑う。
今度は少しだけ近くで。
鈴を二つ重ねて転がしたような、澄んだ声だった。
少年は目を細める。
この時は本当に眼鏡をかけることすら忘れていた。
ぼやけた景色の中に、小さな影が立っている。
月明かりを背にしているせいで顔は見えない。
ただ、長い髪だけが風と遊ぶように揺れていた。
「ごめんね。」
少女はくすりと笑う。
その笑い声につられたのか、水辺で眠っていた蛍が一匹、ふわりと夜へ舞い上がった。
ゆっくりと円を描くように飛び、二人の間を一度だけ横切っていく。
「そんなに驚くと思わなかった。」
少年は胸を撫で下ろした。
「びっくりするよ。急に話しかけられたら。」
「そう?」
少女は首を傾げる。
その仕草だけは、不思議とはっきり見えた気がした。
「君、毎日来るから。知ってる人だと思ってた。」
思わず笑ってしまう。
「それは知らない人だよ。」
「そうなの?」
「うん。」
少女は「そっかぁ」と呟く。
その声は風へ溶け、湖は何事もなかったように静かだった。
しばらく沈黙が続く。
気まずくはない。
虫が鳴く。
木々が揺れる。
夜が二人の間を埋めてくれていた。
少女が先に口を開く。
「ねぇ。」
「うん?」
「どうして毎晩ここへ来るの?」
少年は答えに詰まった。
どうしてだろう。
誰にも話したことがない。
自分でも分からない。
少し考えてから笑う。
「……秘密。」
「えー。」
少女は肩を落とす。
その拍子に、風へ乗った髪がふわりと舞った。
「教えてくれないの?」
「恥ずかしいから。」
「そっか。」
少女はそれ以上聞かなかった。
聞かない優しさがあることを、少年は初めて知った。
代わりに少女が少年の手元にあるものを指差して尋ねる。
「その手に持ってるのは?」
少年は眼鏡を見る。
「これ?」
「うん。」
「眼鏡。」
「めがね。」
初めて聞く言葉みたいに、少女はゆっくり繰り返した。
「見せてもらってもいい?」
少年は少し迷う。でも、不思議と嫌ではなかった。
「いいよ。」
眼鏡を差し出す。
少女は両手で受け取った。
壊れやすい花を持つみたいに。
「へぇ~、軽いね。使ってみてもいい?」
「もちろん。」
少女は眼鏡を持ち上げる。
その瞬間だけ。
ほんの少しだけ動きが止まった。
迷ったようにも見えた。
けれどすぐに笑う。
「こう?」
耳へ掛ける。
たまに少年が眼鏡をかけている所を見ていたので見よう見まねしてみたのだ。
レンズ越しに世界を見る。
「あ……。」
少女は目をぱちぱちと瞬かせた。
「え?」
また瞬きをする。
「わぁ……。」
嬉しそうな声。
けれど次の瞬間には眉が寄る。
「あれ?」
顔を左右へ動かす。
湖を見る。
森を見る。
月を見る。
「見えない。」
少年は思わず吹き出した。
「え?」
「全部ぼやぼや。」
少女は眼鏡を押さえたり外したり忙しい。
そのたび長い髪が肩からさらりと零れ、水辺の花が風に揺れるみたいだった。
「これ、壊れてる?」
「壊れてないよ。」
「そういうものなの?」
「うん。」
少女は眼鏡を外す。ほっとしたように息を吐いた。
「戻った。」
そして眼鏡を見つめる。
まるで初めて見る貝殻でも眺めるみたいに。
「ねぇ。」
「ん?」
少女は少しだけ困ったように笑う。
「これ。辛くない?」
少年はきょとんとした。
「辛い?」
「うん。」
少女は眼鏡を両手で包み込む。
「こんなに見えなくなるのに。苦しくないの?」
少年は小さく笑う。
「逆なんだ。」
「逆?」
「これを掛けると。」
眼鏡を受け取る。
レンズには月が二つ映っていた。
「よく見える。」
「だから。」
「現実が、全部よく見える。」
少女は黙って聞いている。
少年は続けた。
「先生の顔も。」
「友達の顔も。」
「嫌なことも。」
「全部。」
「うん。たしかに苦しいってことかもしれない。」
風が吹く。
木の葉がさらさらと揺れ、その音だけが二人の間を通り過ぎていく。
「だから。たまに思うんだ。これを掛けなければ。何も見なくて済むのかなって。」
少女は何も言わない。
ただ、その言葉を水面へ落とさないように、大切に抱えているようだった。
やがて、小さく尋ねる。
「それって。悲しいこと?」
少年は首を横に振る。
「悲しいとは少し違う。」
少し考える。
胸へ手を当てる。鼓動が、ゆっくり掌へ伝わってくる。
「……胸がね。」
少女もつられて、自分の胸へ手を添えた。
「ぎゅって苦しくなるんだ。石が入ってるみたいに重くて。」
少年は少し下を向き、視界の端に見える少女の反応を気にしながら言った。
「息を吸っても、ちゃんと吸えなくなる。」
少女は瞬きもせず少年を見つめていた。
月明かりが瞳へ映る。
湖よりも静かな瞳だった。
「胸が……。」
小さく繰り返す。
「苦しい。」
その言葉を確かめるように。
忘れないように。胸の奥へしまい込むように。
風が吹く。
二人の間を通り過ぎた風は、湖面へ小さな波紋を残していった。
しばらく、誰も話さなかった。
やがて少年は立ち上がる。
「もう帰るね。」
「うん。また来る?」
その問いに、少年は少しだけ笑った。
「……たぶん。」
少女も笑う。ふわり、と。
夜に咲く花がほころぶみたいに。
「じゃあ。」
「また明日。」
その約束が、
二人の運命を結び始めたことを、
まだ誰も知らなかった。
「祈りを喰む人魚」全話まとめ

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