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アメフトの事故で四肢麻痺になった僕に、兄がくれた人生の転機

人生の転機は、突然やってきます。

2007年9月。僕はアメフトの事故で首を骨折し、首から下がまったく動かなくなりました。いわゆる、四肢麻痺ってやつです。

入院中、毎晩のように同じ夢を見ていました。

不思議なことに、夢の中の僕は、ボールを持ってフィールドを走っていました。

でも目が覚めると、現実に引き戻される。
首から下はまったく動かない。天井を見つめたまま、涙が頬を伝っていく。四肢麻痺の僕には、その涙を自分の手で拭うことすらできませんでした。

(もう、僕の人生は終わった)

あの頃は、本気でそう思っていました。
でも、終わりではなかった。

正直に言うと、悲しみは今も完全に消えたわけではありません。
失ったものの大きさを思い出し、胸が痛む日もあります。

それでも人は、悲しみを抱えたまま生きていける。
そして、その悲しみとともに、新しい人生を描いていくことができる。

僕は、そのことを知りました。

前を向けない日があってもいい。
走れなくてもいい。
立ち止まって、うずくまって、また少しだけ進んでみる。

それでも人生は、思いがけない場所へつながっていくことがあります。

人生は終わったと思っていた僕が、今は幸せな日々を送っています。

もちろん、ここまでの道のりは決して平坦ではなかった。何度も立ち止まり、何度も迷い、それでも少しずつ歩いてきました。

その先に、今の僕があります。

この場をお借りして、僕の人生を大きく変えた転機の物語を綴ってみようと思います。

一瞬で首から下が動かなくなった

「バッーン!」

雷が落ちたような衝撃の数秒後。仰向けに倒れた僕の視界に入ってきたのは、夏の日の綺麗な青空だった。試合中だったため次のプレーがある。チームメイトが僕を呼んでいる。

「ちん、何してんねん! 早くこっち来いよ!」

早く仲間のもとへ戻ろうとするが、自分の体にある異変が起きていた。

(あれ?首から下が、まったく動かない…)

2007年9月1日。僕はアメリカンフットボールの試合中の事故で首を骨折した。

フィールドに倒れた僕は、歓声や叱責を耳にしながら、すぐに担架でベンチへ運ばれ、チームのトレーナーから処置を受けた。処置といってもそばにいてもらうだけ。それだけ症状は重かった。

数分後、救急車のサイレンが徐々に近づいてくる。駆けつけた救急隊員からいくつかの質問をされた。

「腕、動かしてみて」
「いや…動かせません」
「じゃあ、膝は曲げられる?」
「曲がりません」
「じゃあ今、これ、何してるか分かる?」
「すいません。ちょっと分かんないです」

このとき救急隊員のお兄さんは、僕の太ももをギューッと思いっきりつねっていた。でも僕は、その痛みはおろか、触られていることすら分からなかった。

(あれ?足って、どう動かしてたっけ?)

こんな意味の分からない疑問が頭に浮かんだ。あの時、僕の体は首から下が完全になくなっていた。いや、実際に消えたわけではないが、感覚がまったくなかったため、首から下が繋がっているかどうかが分からなかった。

相手選手とぶつかった瞬間、僕は首の骨を折り、首から下の動きと感覚をすべて失っていた。

そしてマネージャーの先輩の付き添いのもと、僕は最寄りの救急病院へ搬送された。

この時は、数年後にヘッドコーチとして、自分がこのフィールドにもう一度戻ってくるとは夢にも思っていなかった。

晩ごはんホイホイから始まったアメフト人生

少しだけ、時間を巻き戻したい。
そもそもなぜ僕が、あのフィールドにいたのか。

山口県下関市で育った僕は、2007年4月に奈良県の天理大学体育学部に進学した。大学では野球ではなく、何か新しいスポーツに取り組みたいと思っていた。

入学の翌日、クラブ紹介の会場で、ゴリマッチョの男性二人に肩をトントンと叩かれた。アメフトのユニフォームを着た先輩たちは、勧誘の熱い言葉、ではなく、こう言った。

「一緒に晩ごはん食べに行かへん?」

ご存知の通り、下宿を始めたばかりの18歳の食生活は、常に危機に瀕している。「今夜はタダ飯か!」この誘いは、おやつをちら見せした時のトイプードルと同じぐらい効果抜群だった。僕は米一膳で、ホイホイついて行った。

翌日も先輩からメールが来た。

「今夜も晩ごはん行かへん?」

パブロフの犬もびっくりするぐらい完全に餌付けされた僕。
もちろん行った。それが、1週間続いた。

さすがに申し訳なくなってきた頃「一回、練習を見に来ない?」と言われ、ご馳走になった手前、しゃあなしで見に行った。

(正直、チャラチャラ練習してんだろうな。)

ところがどっこい。
グラウンドに着いて驚いた。

あれだけ面白おかしく喋っていたお兄さんたちが、目の色を変えて、真剣に競技に打ち込んでいた。別人だった。二重人格を疑うレベルで別人だった。

この人たちと、このチームで、4年間を過ごしたい。

そう思ったことがきっかけで、僕はアメフトを始めた。
最初に惹かれたのは、競技そのものではなく、そこにいる人たちだった。

ただ、もともとスポーツが大好きだったこともあり、アメフトという競技にもすぐにのめり込んでいった。
練習を重ねるうちに、少しずつできることが増えていく。
仲間と汗を流しながら、自分がチームの一員になっていく感覚があった。

そして1年生の秋。
僕はスタメンとして、公式戦デビューすることになった。

それが、2007年9月1日。

試合の後半が始まって、わずか5分後。
僕の人生を大きく変える、冒頭の場面が訪れる。

コードレッドと戸田恵梨香似の看護師さん

「コードレッド、コードレッド、救急車が到着します」

聞きなれないアナウンスで目が覚めた。窓の外から光が射しこみ「ここはどこ?」と状況が読み込めない中、首の後部に激しい痛みを感じた。

(そうか…昨日、手術を受けたんだ)

時計の針は10時。首はネックカラーで固定され、頭部をまったく動かせない。
手術を終えた僕は、集中治療室(ICU)にいた。

真っ白な部屋には、様々な医療機器。口元のセンサーに息を吹きかけると、看護師さんが2、3名すぐに駆けつけてくれる。息を吹きかけるだけで人が駆けつけてくれるなんて、人生で一番モテた瞬間だったかもしれない。

ICUは、まさに救急医療ドラマで見るような治療室だった。

山Pのようなお医者さんはいなかったけど、看護師さんがちょっと戸田恵梨香に似ていて、麻酔科医は元フジテレビアナウンサーの内田恭子さんに似ていたことはしっかり記憶している。瀕死の状態にもかかわらず、19歳男子の下心はしっかり保っていた。

あとで知ったことだが、この救急病棟には月100名もの患者が搬送され、無事に出られるのはおよそ半数だけらしい。実際にこの翌日、隣の部屋の患者さんが命を落とし、家族の泣き叫ぶ声を僕は壁越しに聞いた。

(手術は、成功したんだろうか?)

いちばん知りたい疑問が浮かんだタイミングで、執刀医の先生が現れた。

「中村くん、手術は成功しました。抜糸は約2週間後になります。」

この一言を聞いたとき、僕はめちゃくちゃホッとした。

(あーよかったぁ。成功したんだ。また立って歩ける。またアメフトができる。次の試合は2週間後か。早く体を治さないとな。)

本気でそう思っていた。
このとき、手足はまったく動かなかったが、心は希望に満ち溢れていた。

ただ現実は残酷だった。

手術から1日が経ち、3日が経ち、1週間が経過しても体の状態は、まったく良くならなかった。それどころか、首の後部を15cm切開した影響で、連日、38度以上の熱にうなされた。

体中の皮膚はボロボロに剥がれ落ち、呼吸筋の一部が麻痺していたため痰を吐き出すことができず、細長いカテーテルを口や鼻から入れて吸引してもらった。

真夜中になると痛みで目が覚め、不安と恐怖に押しつぶされそうになる。ついには、1時間以上続けて眠ることができなくなった。この頃、モルヒネより一段階弱い痛み止めの注射を午前と午後に1本ずつ打っていた。

そんな日々を過ごす中で、あの瞬間が訪れた。

神戸の街並み

希望の賞味期限

あの年は、残暑がとても厳しかった。9月に入っても35度を超える日が続き、駅から病院まで歩いてお見舞いに来てくれる人は、みんな汗だくになっていた。あの日も窓の外には、真夏の青空が広がっていた。

事故から11日後の午前10時30分。

主治医の先生が、僕のベッドサイドへやって来た。
いつもは優しそうな表情をしている先生の顔が、少しこわばっている。
何か、よくないことが迫りつつある気がした。挨拶を交わした後、先生は重い口を開いて、こう言った。

「中村くん、これから言うことをよく聞いて下さい…。」

「キミはもう二度と歩くことはできません。これからは寝たきりの生活になる可能性もあります。」

何を言っているのか、よく分からなかった。
だって、手術は成功したと聞いていた。

あとから知ったのだが、事故時に損傷した脊髄という神経は、当時の医療では、一度傷が入るともう二度と元には戻らないとされていた。僕の受けた手術は、体の麻痺を改善するものではなく、単に折れた首の骨を治すだけの手術だった。だから体は、元に戻らなかった。

(寝たきり?この人は何を言っているんだ?)

そう思った矢先だった。

事前にある程度の説明を受けていた母は、ベッドサイドで泣き崩れるように涙を流していた。その姿を見て、僕はことの重大さを理解した。

理解した、はずだった。

正直に言うと、当時の僕はまだ楽観的だった。

いや、そうは言っても大丈夫でしょう。
リハビリをすれば、なんとかなるんでしょう。

そんなふうに、どこかで思っていた。
今思えば、不思議なくらい前向きに振る舞っていた。

のちに心理学者になった僕は、あの根拠のない明るさに名前があることを知る。

「否認」

大きすぎる喪失を一度に受け止めてしまえば、心が壊れてしまう。
だから心は、現実を否定することで自分を守ろうとする。

それは、無意識に働く防衛反応だった。

あの頃の楽観は、強さでも鈍さでもなかった。
あまりにも大きな現実の前で、僕の心が必死に自分を保とうとした結果として現れた、精一杯の対処だったのだと思う。

しかし、その楽観さは、入院から20日後に崩れ落ちる。

入院中の様子

冬の道端に落ちている枝切れのような足

手術後から20日後、僕は入院してから初めてお風呂に入った。
もちろん、自分ひとりでは起き上がることすらできない。入浴は看護師4人の介助で特殊なベッドに移してもらって行われた。

このベッドはボタンひとつで、平面の状態から30〜40cmほど凹み、その凹みにお湯が溜まる仕組みになっている。人間ひとりをお湯に浸けるためだけにここまでの技術。日本の製造業は、すごい。

ジャバジャバーー。

お湯が入ってくる音が聞こえる。
でも不思議だった。
お湯のあたたかさが、まったく分からない。

いや、もっと言うと、お湯に浸かっているという感覚そのものがなかった。首から下の感覚がないというのは、痛い、冷たい、熱い、こそばいという感覚が全部なくなるということだった。

僕の中には、健常者として生きてきた19年分の記憶があった。

その記憶の中には、お風呂に浸かったときの何とも言えない気持ちよさも残っていた。

湯船に体を沈めた瞬間に、ふっと力が抜けていくあの感覚。
お湯の温かさがじんわりと体に広がっていく、あの心地よさ。

でも、目の前の現実は違った。

そこにあるはずのお湯の温かさを、僕は感じることができなかった。
記憶の中にある感覚と今の体が受け取れない現実。

そのあまりにも大きなギャップによって、僕はようやく認識した。
自分の体が、もう以前とは違うのだということを。

そして、致命的な決定打が来る。
看護師さんが首元を洗うために、僕の首に巻きついていたネックカラーを外した。その瞬間、目を疑うような光景が視界に入ってきた。

そこには、まるで木の枝のように細くなった足があった。

(これは…誰の足?)

事故以前、幼い頃からスポーツに打ち込んできた僕の太ももは、60センチ以上あった。鍛えられた脚は、自分にとって誇りでもあった。

でも、目の前にあるのは、自分の足とは思えないほど細くなった足だった。

頭が現実に追いつかなかった。

しかし、木の枝のように細くなったその足が、自分の足なのだと少しずつ理解するにつれて、胸の奥から悲しみがこみ上げてきた。

もう、抑えることはできなかった。

その瞬間、僕の心の中で何かがプツッと切れた。

泣いた。
子どものように泣いた。

もう二度と、フィールドを走ることはできないのか。
ボールを追いかけることはできないのか。
もう一度、自分の足で立つことはできないのか。

そんな問いが、何度も頭の中を巡った。

そのとき僕は、主治医の先生が告げた言葉の意味を、そして自分が置かれている状況を、本当の意味で実感した。

そうか。僕は、障害を負ったんだ。

絶望という二文字とともに、僕の心には大きな穴が開いた。

そこから先は、地獄のような日々だった。
心の状態が不安定になっていくにつれて、体調も悪くなっていった。

やがて僕は、MRSAという院内感染にかかった。
呼吸がうまくできなくなり、隔離された部屋で過ごすことになった。

なんで自分が、こんな目に遭わないといけないんだ。
僕が何か悪いことをしたのか。

何度も、何度も、神様を恨んだ。
数え切れないほど恨んだ。
それくらい、心も体も限界だった。

そして、ついには「このまま楽になりたい」と思うところまで追い詰められ、命を絶とうとしたこともあった。
でも、体が思うように動かなかったため、結局なにもできなかった。

生きることが苦しいのに、その苦しみから逃げることさえできない。
その事実が、さらに僕を打ちのめした。

これが、僕の人生で最もどん底だった瞬間だ。

リラックマが擬人化したような兄という人

そんな僕が前向きになれたきっかけは、4歳年上の兄の一言だった。

兄を一言で表すなら、とても穏やかな人。
どれくらい穏やかかというと、ゆるキャラが着ぐるみを脱ぎ忘れたまま、うっかり現実世界で生活しているのではないかと思うくらい。たぶんリラックマも会った瞬間、「あ、先輩ですね」と一歩下がると思う。

僕は物心がついたときから、いつも兄の後ろ姿を追いかけていた。

一般的に男兄弟というものは、喧嘩ばかりのイメージがあるかもしれない。しかし僕と兄は、小さいときからほとんど喧嘩をしたことがない。なんなら僕は兄が怒っている姿を今まで一度も見たことがない。

一方で僕は、典型的な次男坊だった。

欲しいものは欲しい、嫌なものは嫌。自分の思い通りにならないと、世界が終わったかのような顔をする。今思えば、家族内で小さな王様として君臨していたのだと思う。

それでも兄は、そんな僕をいつも優しく受け入れてくれていた。普通なら「いい加減にしろ」と言われてもおかしくない場面でさえ、兄は怒るどころか、まるで近所のハトにエサをあげるような穏やかさで僕を見守ってくれていた。

兄は高校卒業後、就職のため地元を離れ、愛知県で寮暮らしをしていた。会えるのは盆と正月だけ。その帰省中も兄は毎晩飲み会で家を空けていたから、顔を合わせることはほとんどなかった。そんな関係が数年続き、久しぶりに再会した場所が、神戸の病院の集中治療室だった。

首から下が動かなくなった弟に、兄はどんな顔をして会いに来るのだろう?

どんな言葉をかければいいのか。どんな表情で病室に入ってくるのか。
なぜか患者である僕のほうが、兄のことを心配していた。

そんな僕の心配をよそに、兄は病室にヒョイっと現れた。
そして、利き手を軽く上げて第一声。

「よっ!」

(いや、軽すぎないか。笑)

こっちは人生最大級の事態なのに、兄だけコンビニで偶然会ったテンションだった。でも、その軽さに救われた。

兄は、僕が怪我をする前と何ひとつ変わらない態度で接してくれた。
おそらく当時の僕の姿を見て、表情も態度も変えなかったのは、兄だけだったと思う。

ちなみに兄の家から病院までは、新幹線を使って2時間以上はかかる。

年頃の男子が、仕事が休みになるたびに、決して近くはないその距離を毎週通う。いつも身の回りの世話をしてくれていた母も、兄がいるときはゆっくり休むことができた。兄は僕だけでなく、家族みんなにとって大きな存在だった。

「俺、仕事辞めるわ」

リハビリ病院へ転院して数週間が経過したある日。
兄と僕は、病院のデイルームでいつものように一緒にドーナツを食べていた。

すると突然、兄がこう言った。

「俺、今の仕事辞めるわ」
「はぁっ!?」

デイルームに、僕の間抜けな声が響いた。
驚いた。この人は、何を言っているんだ。

続けて、兄はこう言った。

「ハルが大好きなアメフトで障害を負った。その苦しみを俺がすべて理解するのは無理だと思う。無理だけども、少しでも力になりたいから、俺は仕事をやめて、理学療法士になって、リハビリの先生になる。少しでもいいから、力になりたいんよね」

さっきとは、違う意味で驚いた。
小さいときからワガママで迷惑ばかりかけていた僕のことを兄がこう考えてくれていたとは思ってもいなかった。

もし兄弟や家族がいれば、想像してみてほしい。
23歳の青年が弟のために、安定した仕事と生活をすべて手放して、もう一度学校に通い直し、国家資格を取ると言った。簡単に言えることではない。

そしてもう一つ、今でも胸に残っている言葉がある。

「すべて理解することは、無理やけど」

兄は「分かるよ」とは言わなかった。安易に共感しなかった。理解できないことを認めた上で、それでも力になる方法を探して言ってくれた。

その言葉に僕は救われた。
そして、自分がある勘違いをしていたことに気がついた。

僕はこの事故で全部失ったと思っていた。
だって体は動かないし、大好きなアメフトもできない。明るい将来なんて、もう自分にはやってこない。そう思い込んでいた。

でも変わらないものもあった。

それは兄をはじめとする家族との絆。
帰りを待ってくれているチームメイトの存在。
事故前と変わらないように接してくれる地元の友人。

大切な人との繋がりは、何も変わっていなかった。
それどころか、どん底にいる僕を支えてくれる人がこんなにもたくさんいることに気がついた。

気づいた瞬間、思った。このままじゃダメだって。

確かに当時の僕には何もできなかった。
でも、大事なのは、今できないことに目を向け続けることではなく、ここから少しでも良くなるために今できる努力をすることだった。

じゃあ、今の自分がすべきことは何だろう。

そうだ。リハビリだ。

兄の一言をきっかけに、僕は「できないこと」ではなく「今できること」に目を向けられるようになった。そして、目の前のリハビリを少しずつ頑張れるようになった。

そして事故から2年半後となる2010年4月。
車椅子で日常生活を送れるようになった僕は、母校である天理大学に復学した。

約1000日ぶりの通学路

復学初日のことを今でもよく覚えている。
当時はまだ自分で車椅子をうまく漕げなかったので、友達に迎えに来てもらい一緒に大学へ向かった。

4月の風はまだ少しひんやりとしていて、車輪がアスファルトの継ぎ目を越えるたびに体が小さく揺れた。

約1000日ぶりの通学路だった。
通学路には桜が綺麗に咲いていた。薄紅色の花びらの向こうで春の光が透けて、まぶしくて思わず目を細めた。

キャンパスに到着。
入り口には、当時4年生になっていた同級生たちが出迎えてくれていた。

「ちん、おかえり」
「また一緒に、大学通おうな」

「ただいま」と返すまでに、少しだけ時間がかかった。

(ようやく、戻って来たんだなぁ)

みんなに祝福され、心の中でそう思った。同時に、事故当日から経験してきた激しい道のりが頭に浮かんだ。この日を迎えるまでの道のりは決して楽ではなく、むしろ、辛いことのほうが多かった。

もちろん復学時も車椅子で生活していたので、不便なことはたくさんあった。でも病院のベッドで動けず、天井を見つめるだけの日々に比べると、友人と一緒に笑えるこのひと時が、幸せだった。純粋にこの時間がこのまま続いてほしいと願った。

その日、僕は旧友と一緒に90分の授業を1コマだけ受けた。
それから食堂でご飯を食べて、家に帰った。

この日の経験を通じて、僕はひとつ気づいたことがある。

当たり前だと思っていた日々は、決して当たり前ではなかった。

自分の好きなことに打ち込めること。
友だちと他愛もない時間を過ごすこと。
家族と一緒に食卓を囲むこと。

もっと言えば、自分の足で立って歩けること。
目が見えること。息ができること。

多くの人にとって、それは当たり前のことかもしれない。
少なくとも事故以前の僕は、そう思っていた。

でも、体の自由を奪われ、何もかもが思い通りにならない苦しい時間が、僕に教えてくれた。

幸せとは、何かを手に入れることで得られるものではなく、何気ない日常の素晴らしさに気づくことなんだと。

桜吹雪が舞う中、当時の同級生と懐かしみながら、こんなことを思った。

幸せのドア

見えない、聞こえない、話せない。
三重苦を抱えたヘレン・ケラーは、こんな言葉を残している。

「ひとつの幸せのドアが閉じるとき、もうひとつのドアが開く。しかし、わたしたちは閉じたドアばかりに目を奪われ、開いたドアに気づかない」

障害を通じて、いい意味でも悪い意味でも、いろんなことが変わった。

今でも「障害を負ってよかった」とは、まったく思っていない。

障害を乗り越えたわけでもない。実際に今も車椅子で生活しているし、戻れるなら、事故以前の人生に戻りたいと思うこともある。
どれだけ前を向けるようになっても、あの日の悲しみが、きれいに消えてなくなるわけではない。

ただ、悲しみの色は、少しずつ変わっていった。

事故の直後、悲しみはギラギラとこちらを攻めてくるものだった。夜になると襲いかかってきて、僕を眠らせなかった。でも18年という時間の中で、その悲しみは、少しずつ色を落としていった。

今ではもう、古い写真みたいにセピア色をしている。

消えたわけではない。今も僕の中にちゃんとある。
でもセピア色になった悲しみは、もう僕を攻めてはこない。
僕はその悲しみをそっと胸に抱えたまま、新しい幸せを築いていくことができる。

悲しみと幸せは、どちらか一方ではなかった。
両方を抱えていていいものだと思う。

だから「今の人生すべてがマイナスか」と聞かれると「No!!」と言い切れる。

あの日の事故があったからこそ、たくさんの素敵な出会いと巡り合い、大切なモノが見えるようになり、些細なことでも感謝し、幸せを感じる自分がいる。

今でも、立ち直れないほど落ち込むことはある。
それでも僕の周りには、大切な家族がいて、信頼できる仲間がいて、大好きな仕事に関わることができている。これほど幸せなことはない。

そして、死に直面するような経験を通して今という時間の大切さを学んだ。

時間は、誰しも無限にあるわけではない。もしかしたら今日、人生が終わるかもしれない。でも、それは誰にも分からない。

だからこそ、今この一瞬一瞬に心をこめて、感謝を忘れず生きていく。そんな時間を積み重ね、人生の最後の日に「いろいろあったけど楽しかったな」と笑って終えることが、僕の目標。

そんな人生を送っていきたい。

それでは最後に、これを読んでくださったすべての人の明るい未来を願い、僕の生き方を示すこの一文で締めさせてください。

僕は車椅子に乗っている。ただ、それだけのこと。

あとがき

ここまで読んでくださって、ありがとうございました。

事故から18年。
今、僕のそばには大切な妻と二人の天使がいます。いや、もしかしたら、天使ではなく怪獣かもしれません。だって天使は、朝6時に人の顔を叩いて起こさないから。

振り返ってみると、この18年に書ききれない物語がありました。

クリスマスの夜、玄関に現れた7人の汗だくトナカイたち。
プレー経験5ヶ月で就任した車椅子のヘッドコーチ。
花見で出会った女性に「ケーキを食べさせて」と頼んだ人生最大の作戦。
アメリカ心理学会の研究発表後に食べた死ぬほどまずかったサンドイッチ。
そして、講演会の壇上に兄と二人で並んだ日のこと。

すべてのエピソードが、デイルームで兄が言った「俺、仕事辞めるわ」から始まった道の上にあります。

そう考えると、なかなか壮大な物語ですね。

最後に、一本の動画を置いておきます。

2025年に次男が生まれたときの記録です。首を折った19歳の僕に見せたら、絶対に信じない映像だと思います。ここまで読んだエピソードを想像しながら、ぜひご視聴ください。


もしあなたが今、暗闇の中にいるなら。
焦らなくて大丈夫です。
悲しいときは、悲しんでいい。
その先に、幸せのドアがたくさん待っています。

#創作大賞2026 #エッセイ部門

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