見出し画像

卑弥呼のほかにも「女王」がいた?|糸島・平原遺跡に40面の鏡が!|邪馬台国、その先へ[第3回]

✅ プレゼント企画もご用意しています!😄
最後まで読んでくださいね! 🎉


――50年前の講義と、一人の女性王墓をつなぐ

卑弥呼の時代、「女王」は一人だけだったのでしょうか。
福岡県糸島市の墓から、40面もの鏡が見つかりました。
しかも、そこに葬られた人物は女性だった可能性があります。


伊都国。
西暦200年前後。

前回、三角縁神獣鏡を追いました。
「魏志倭人伝に記された、「銅鏡百枚」。
それは本当に三角縁神獣鏡だったのか。

その問いを追っていくと、鏡は単なる祭器ではなく、邪馬台国からヤマト王権へ続く政治ネットワークを考える資料にも見えてきました。

しかし九州には、それとはまったく違う「鏡の世界」があります。

福岡県糸島市。
平原遺跡。

ここから出土したのは、40面もの銅鏡。

しかも、その中には直径46.5センチという、日本最大の大型内行花文鏡が5面含まれています。

そして、墓に葬られた人物は、女性だった可能性が指摘されています。

さらにこの場所は、「魏志倭人伝」に登場する、伊都国が存在したと考えられている地域です。

女王。
40面の鏡。
伊都国。

そして、卑弥呼とほぼ同じ時代。
ここまで条件が重なると、一つの疑問が生まれます。

卑弥呼の時代、「女王」は本当に一人だけだったのでしょうか。



50年前の古代史講義で聞いた「女王国」

ここで少し、個人的な話をしてみたいと思います。
私は約50年前、慶應義塾大で村山光一名誉教授(1924〜2014)の「古代史特殊」の講義を受けました。

村山氏は日本古代史学者で、徹底した史料批判と冷徹な実証主義に基づき、班田制など律令国家の土地・官人制度を研究。講義では鋭い論理で学生を魅了しました。
(著書「政治と宗教の古代史」など。)

当時の講義録を今も残しています。
そこで扱われていた邪馬台国論の中に、

榎一雄説。
そして、その問題をさらに考えさせる、
牧健二説がありました。

半世紀前の大学の講義です。
当然、その後50年間で考古学は大きく進歩しました。

吉野ヶ里はまだ今のようには知られていない。
平原遺跡の年代観や鏡の研究も、その後さらに進んだ。
纒向遺跡の研究も進展した。

だから50年前の学説を、そのまま現在の「答え」として使うことはできません。

しかし――

今、平原遺跡の巨大鏡を改めて見ると、当時の講義で聞いた、

「女王国とは何だったのか」
という問いが、もう一度生きてくるのです。


榎一雄が注目した「伊都国」

まず、榎一雄(東京大名誉教授・1913〜1989)。

榎は『魏志倭人伝』の行程記事について、
伊都国までは、方角 → 距離 → 国名という順序で書かれているのに対し、

伊都国以後では、
方角 → 国名 → 距離
へ記述の仕方が変わることに注目しました。

そこから、
伊都国より先の奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国については、
伊都国を起点に放射線状に記述したのではないかと考えます。

いわゆる、

「放射線説」です。


([国立国会図書館][1])

この説自体には現在まで賛否があります。

しかし、一つ重要なことがあります。
榎説では、伊都国が非常に重要な地理的・外交的基点になるということです。

それは「魏志倭人伝」そのものの記述とも響きます。

伊都国は、魏や帯方郡から倭国へ来た使者が滞在する場所として記されています。

つまり、大陸から見た倭国の玄関。
情報が集まる場所。
外交の拠点。
その伊都国から、40面もの鏡を持つ王墓が出た。

この事実は、やはり軽くありません。


牧健二が問い直した「女王国=邪馬台国」

そして、牧健二(京都大名誉教授・1892〜1989)。
牧が投げかけた問題は、さらに根本的です。

私たちは通常、「女王国」と聞くと、
そのまま、邪馬台国を思い浮かべます。

ところが牧は、この二つを分けて考えました。

牧は1970年の論文で、「女王国」を、
卑弥呼を女王としていただく倭国連邦と解釈します。

そして邪馬台国は、その女王国全体ではなく、
「魏志倭人伝」にいう、「女王之所都」

――つまり、
女王が都を置いた国だったと考えました。([KURENAI][2])

この読み方をすると、邪馬台国のイメージが大きく変わります。


邪馬台国は「一つの巨大国家」ではなかった?

例えば、現代風に単純化して考えてみます。

複数の「クニ」がある。
それぞれに王がいる。

しかし、それらのクニが政治的な連合をつくり、共通の代表者として一人の女王を選ぶ。
その人物が、卑弥呼。
そして、卑弥呼が実際に都を置いた加盟国が邪馬台国。

牧健二説では、おおむねそのような政治構造が想定されます。
もちろん、これは現在の定説ではありません。
「女王国」と「邪馬台国」を同一視する解釈もあり、牧説には批判もあります。

しかし、『魏志倭人伝』には、非常に気になる文章があります。
倭国で争乱が続いたあと、「乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼」

一人の女子を、「共立」して王とした。
卑弥呼です。

では、誰が「共立」したのでしょう。
この「共」という字を見ると、一つの集落が一人の王を立てたというより、複数の政治勢力によって選ばれた女王という姿が浮かびます。


伊都国にも「王」がいた

さらに、『魏志倭人伝』には伊都国について、

「世有王」と記されています。
代々、王がいた。
しかも伊都国は、女王国に統属していた。

ここが非常に重要です。
卑弥呼が女王である一方、伊都国にも王が存在した。

つまり、「卑弥呼という女王」と「伊都国の王」は、同時に存在できるのです。

そう考えると、3世紀の倭国は、現代の「一つの国に一人の最高権力者」というイメージとはかなり違って見えてきます。

複数のクニがある。
それぞれに王や首長がいる。
そして、それらを束ねる女王がいる。

もしそうした政治構造だったのなら、平原1号墓から浮かび上がる、「伊都国の女王」という可能性も、必ずしも奇妙ではなくなります。


1965年、偶然現れた伊都国王墓

平原遺跡が発見されたのは、1965年。
ミカンの木を植えるために土地を掘ったところ、割れた銅鏡が見つかりました。

調査したのが、原田大六。
現在、この墓は、平原1号墓と呼ばれています。

糸島市は、この墓を弥生時代終末期、西暦200年前後の伊都国王墓と考えています。
これは重要な年代です。
卑弥呼が活躍したと考えられる2世紀末から3世紀前半と、非常に近いからです。

つまり、「平原王墓は卑弥呼より何百年も前」ではありません。
ほぼ同じ歴史的世界の中にある。

ここから、この墓の見え方が変わってきます。


40面もの鏡

平原1号墓から出土した鏡は、現在の整理で、40面分。

その内訳には、
大型内行花文鏡 5面
方格規矩鏡 32面
螭龍文鏡 1面
小型内行花文鏡 2面
などがあります。

中でも圧倒的なのが、大型内行花文鏡。
直径、約46.5センチ。
前回取り上げた三角縁神獣鏡がおおむね21~23センチですから、ほぼ倍の大きさです。

磨き上げられた青銅鏡なら、太陽の光を強烈に反射したでしょう。

では――。
なぜ、こんな巨大な鏡が必要だったのでしょう。


中国にも同じ巨大鏡がない

内行花文鏡という形式そのものは、中国にもあります。
朝鮮半島にもあります。
日本列島にもあります。

その系譜は中国・漢代の鏡文化へつながっており、内行花文鏡そのものは東アジアに広がった鏡文化の中にあります。

ところが、平原1号墓の、直径46.5センチ級の大型内行花文鏡となると、事情が違います。

今回確認した公的資料・研究資料の範囲では、中国や朝鮮半島、日本国内の他遺跡から、平原1号墓と同型の46センチ級巨大鏡は確認できませんでした。

文化庁も平原鏡群について、「隔絶した大きさと数量」を特徴として挙げています。
つまり、中国由来の鏡文化を背景にしながらも、平原の巨大鏡は極めて独自性が強いのです。


倭で作られた可能性

さらに、この大型内行花文鏡を、倭製の仿製鏡とみる説があります。

つまり、中国鏡そのものを輸入したのではなく、中国の鏡文化を取り入れ、倭国内で独自に巨大化して作った可能性です。
もしそうなら、これは非常に重要です。

約1800年前の倭に、これほど巨大な青銅鏡を作る技術が存在した可能性がある。
しかも、一面ではありません。
同型の巨大鏡が複数面作られている。
偶然、大きな鏡ができたとは考えにくい。

そこには、「巨大な鏡を作る」という明確な意思があったはずです。

誰のために。
何のために。
答えは、まだありません。


「広がる鏡」と「集まる鏡」

ここで、前回の三角縁神獣鏡と比べてみます。

三角縁神獣鏡は、古墳時代になると広い地域へ分布します。
九州。
近畿。
東海。
さらに東日本。
同じ系統の鏡が、離れた地域の有力者の墓から出土します。
そこから、ヤマト王権と各地の首長との政治的ネットワークが議論されます。
いわば、「広がっていく鏡」。

ところが、平原1号墓は違います。
40面もの鏡が、一つの王墓へ集中する。
しかも、そのうち5面は超大型鏡です。

こちらは、「一人の王へ集まった鏡」。
この違いは非常に興味深いと思います。

三角縁神獣鏡が、各地の有力者を結ぶ広域的な政治関係を考えさせる鏡だとすれば、平原の鏡群は、一人の王のもとへ集中した政治的・祭祀的権威を示していたのかもしれません。


では、なぜ40面も墓へ入れたのか?

ここで、前回から続く疑問が戻ってきます。

40面です。
もし、これほど大量の鏡が伊都国王の権威を示すものだったなら、次の王へ継承した方がよかったのではないか。

代々の王が受け継げば、王家の権威を示す宝物になります。
ところが、実際には墓へ入れられた。
なぜでしょう。

前回、私は鏡を「王冠」よりも、その人物の政治的・祭祀的な履歴を示すものとして考えてみました。

その視点から平原1号墓を見ると、40面の意味も少し違って見えます。
鏡は「伊都国王家」の共有財産だったのではなく、そこに葬られた人物自身の権威と結びついていたのではないか。

その人物が亡くなれば、その人物が持っていた鏡の役割も終わる。
だから墓へ納める。

そして次の王は、自分自身の権威を新たに獲得する。
もしそうなら、平原1号墓の40面は単なる「財産」ではありません。

一人の王が生涯を通じて築いた政治・外交・祭祀の集積だった可能性があります。

もちろん、すべての鏡が同時に入手されたとは限りません。
長く使われた鏡。
受け継がれた鏡。
贈られた鏡。
新しく作られた鏡。
さまざまな来歴を持つ鏡が、最後に一つの墓へ集められた可能性も考える必要があります。

そうすると、問いは、「この王は鏡を40面持っていた」では終わりません。

なぜ最後に、これほど多くの鏡をこの人物とともに葬る必要があったのか。
そこにこそ、平原1号墓の大きな謎があります。


北部九州には、すでに「王と鏡」の文化があった

そして、ここが非常に重要です。

平原1号墓だけを孤立して見ることはできません。
北部九州では、それ以前から、有力者の墓に中国鏡を多数副葬する例がありました。

糸島周辺でも、
三雲南小路遺跡。
井原鑓溝遺跡。
そして、平原遺跡。
と、「王墓級の墓と鏡」を結びつける長い流れを見ることができます。

つまり、3世紀後半から4世紀に近畿を中心として、大量の鏡が前方後円墳へ副葬される時代より前に、
北部九州には、有力者の権威と鏡を結びつけ、その鏡を墓へ納める伝統が存在していた
ことになります。

これは邪馬台国論争を考えるうえでも、重要だと思います。

ただし、ここから、「だから邪馬台国は九州だった」と結論することはできません。

むしろ面白いのは、その先です。
弥生時代の北部九州で見られた「王と鏡」の関係が、3世紀後半から4世紀になると、
巨大な前方後円墳。
大量の鏡。
武器。
装身具。
そして各地で共有される同系統の鏡。
という、別の政治システムの中に現れてくる。

これは、古くから存在した鏡文化が広がったのでしょうか。
それとも、鏡という権威を示す威信財を、新しく台頭したヤマト王権が別の政治システムへ組み替えたのでしょうか。

ここには、「邪馬台国はどこだったのか」とは別の、
「弥生の王権から古墳時代の王権へ、何が引き継がれ、何が変わったのか」という大きな問題があります。


そして、墓の主は「女性」だった可能性

さらに平原1号墓からは、耳璫など、女性との関連が指摘されてきた装身具が出土しています。

武器が少ないことなども含め、墓の主については、女性だった可能性が指摘されています。
ただし、人骨は残っていません。
したがって、科学的に女性と確定したわけではありません。
ここは慎重に考える必要があります。

しかし、もし女性だったとすれば――。

西暦200年前後。
伊都国。
王墓。
40面の鏡。
巨大な鏡。

そして、
女性。

ここから、「伊都国の女王」という可能性が浮かび上がってきます。


「平原の女王=卑弥呼」ではない

ここで当然、卑弥呼が頭に浮かびます。

年代は近い。
女性。
鏡。
王墓。

しかし、平原1号墓の被葬者=卑弥呼とすることはできません。
平原1号墓は、伊都国王墓と考えられているからです。

「魏志倭人伝」では、伊都国と邪馬台国は別の国として記されています。

したがって、「伊都国王墓なら卑弥呼の墓ではない」という整理は、一応成立します。

しかし――。
ここで、50年前の講義で聞いた牧健二説が、再び効いてきます。


卑弥呼は「伊都国の王」より上にいたのか

もし牧説のように、「女王国」が複数の国からなる政治連合だったとします。

邪馬台国は、その中で女王が都を置いた国。
伊都国には、独自の王がいた。
奴国にも、別の王や首長がいた可能性がある。
その他の国々にも、それぞれの政治的指導者がいた。

そして倭国の争乱を収めるため、そうした諸勢力が、「共立」した女王が、卑弥呼。

そう考えれば、「卑弥呼」と「伊都国の女王」が同時に存在することに矛盾はありません。
むしろ、ここから3世紀の倭国の姿が、かなり立体的になってきます。


「女王国」には、複数の王がいたのではないか

現代の国家イメージで考えると、「一つの国に一人の王」という発想になりがちです。

しかし3世紀の倭国には、多くの「クニ」がありました。
それぞれに首長や王がいる。
クニ同士が外交や交易を行う。
時には争う。

そして政治的な必要から、複数の勢力が一人の女王を共立する。
それが卑弥呼だったとすれば、卑弥呼は、「唯一の王」ではなく、「王たちの上に共立された女王」だった可能性があります。

これは、「卑弥呼=邪馬台国という一国だけの王」という単純な図とは、かなり違います。


「鬼道」と「まつりごと」

さらに『魏志倭人伝』は、卑弥呼について、「事鬼道、能惑衆」と記します。いわゆる「鬼道」です。
その実態が何だったのかは、現在も議論があります。

しかし少なくとも、『魏志倭人伝』が卑弥呼の支配を語る際に、「鬼道」という宗教的・祭祀的な要素を特記していることは重要です。

現代では、政治。
宗教。
祭祀。
行政。
を別々のものとして考えます。
しかし、古代社会でも本当に明確に分かれていたのでしょうか。

王であることと、祭祀を担うことが重なっていた社会を考える視点は必要です。
そうすると、40面もの鏡を副葬された平原1号墓の人物についても、単なる政治的首長だったのか。

祭祀を担う人物でもあったのか。
という新しい問いが生まれてきます。


魏は、なぜ卑弥呼に鏡を100枚も贈ったのか

ここで、239年へ進みます。

卑弥呼が魏へ使者を送る。
魏は卑弥呼を「親魏倭王」とし、さまざまな品物とともに、銅鏡百枚を贈ります。

しかし平原1号墓は、西暦200年前後。
つまり、魏から卑弥呼へ100枚の鏡が贈られる以前、あるいはそれに近接する時期に、北部九州ではすでに、一人の王墓へ40面もの鏡を副葬する文化が存在していたことになります。

ここが重要です。
「魏が鏡を贈ったから、倭で鏡が権威の象徴になった」とは単純には言えない。
その前から北部九州では、鏡と有力者の墓が強く結びついていたからです。

では――。
魏は、倭人が鏡を特別視していることを知っていたのでしょうか。

伊都国は、大陸との外交・交流を考えるうえで重要な場所です。
人が動けば、情報も動きます。

倭人が何を価値あるものと考えているのか。
どのような威信財を重視しているのか。
そうした情報が中国側へ伝わっていた可能性も考えられます。
これは、あくまで仮説です。

しかし、平原1号墓の40面の鏡を見ると、「なぜ魏は、卑弥呼に銅鏡を100枚も贈ったのか」という問いが、前回とはまた違って見えてきます。


前回の「銅鏡百枚」を、平原から考える

前回、魏が卑弥呼へ銅鏡百枚を与えたあと、「悉可以示汝國中人 使知國家哀汝」
――国中の人々に示し、魏が卑弥呼を厚遇していることを知らしめよ、と命じていたことを見ました。

そして、百余国。
銅鏡百枚。
という二つの「百」から、銅鏡は卑弥呼個人の宝物だっただけではなく、倭の王や首長たちに魏と卑弥呼の権威を示す政治的な役割を持っていたのではないか、と考えました。

では、その「受け取る側」にいたのは誰でしょう。
伊都国には、「世有王」――代々、王がいました。

もし、そうした各国の王や首長へ鏡が分配されることがあったのなら、



親魏倭王・卑弥呼

各地の王・首長

という政治的な関係が、鏡によって可視化された可能性があります。
そして、受け取った王が亡くなれば、その鏡が墓へ納められる。

そう考えると、「銅鏡百枚」を探す方法そのものが変わってきます。
卑弥呼の墓を見つけて、「そこから100枚出るか」だけを考える必要はない。

むしろ、3世紀の有力者墓に、どのような鏡が、どの地域へ、どの時期に分布しているのか。そこを追う必要があります。

もちろん、三角縁神獣鏡=魏の銅鏡百枚と決まったわけではありません。
そこは前回見た通り、現在も議論があります。

しかし、平原では、「一人の王へ鏡が集まる」。
その後の古墳時代には、「同じ系統の鏡が各地の有力者の墓に現れる」。

そして、その間に、魏から銅鏡百枚を与えられた卑弥呼がいる。
この時間的な並びは、やはり気になります。

もしかすると私たちは鏡を追いながら、弥生時代の「王」から、卑弥呼の「女王国」を経て、古墳時代の広域政治秩序へ移っていく過程を見ているのかもしれません。


そして吉野ヶ里でも、有力者墓域の調査が続く

さらに、2026年現在。
佐賀県・吉野ヶ里遺跡でも、興味深い発掘調査が続いています。

かつて日吉神社があった、いわゆる「謎のエリア」。
そこで2023年に発見された石棺墓について、その後の調査で、周囲に四角く溝が巡る方形周溝墓だったことが分かりました。

さらに周辺にも同様の溝が複数確認され、佐賀県はこの一帯について、弥生時代終末期から古墳時代初頭の有力者墓域だった可能性が高まったとしています。

平原1号墓と近接する時代です。
もちろん、吉野ヶ里の墓が、「女王の墓」と確認されたわけではありません。
性別も、卑弥呼との関係も分かっていません。

しかし、平原。
吉野ヶ里。
そして「魏志倭人伝」に登場する多くの「国」。

それらを同じ時代の九州地図へ置いてみると、一つの巨大国家ではなく、複数の王や首長が並立する政治世界が見えてきます。


「邪馬台国を探す」から、「女王国を探す」へ

ここで、邪馬台国論争の問い自体を、少し変えてみてもいいのかもしれません。

これまで私たちは、「邪馬台国はどこか」と探してきました。

しかし牧説のように、邪馬台国が「女王国」を構成する一国で、そこに卑弥呼の都が置かれていたとすれば、本当に探すべきものは邪馬台国一国だけではありません。

卑弥呼を共立した「女王国」という政治圏そのもの。
伊都国。
奴国。
不弥国。
邪馬台国。
そして、所在地の分からない多くの国々。

それらは、どのようにつながっていたのか。
誰がそれぞれの国を治めていたのか。
各国の王と卑弥呼との関係は何だったのか。

ここまで来ると、邪馬台国論争は、「地図上の一点探し」ではなくなります。


二つの鏡、二つの政治構造

最後に、前回の三角縁神獣鏡と、今回の平原鏡をもう一度並べてみます。

三角縁神獣鏡。
各地へ広がる。
遠く離れた有力者たちが、同じ系統の鏡を持つ。
そこから、古墳時代の広域政治ネットワークが見えてくる。

一方、平原1号墓。
40面もの鏡が、一つの王墓へ集中する。
しかも、墓の主は女性だった可能性がある。
こちらから見えてくるのは、
弥生終末期の「王と鏡」、そして「女王と祭祀」の世界。

そして、その二つの政治世界の間に、卑弥呼がいます。
魏から、銅鏡百枚を贈られた女王です。

もしかすると鏡を追うことによって、私たちは、
「倭国の諸王が並立する世界」から、卑弥呼の女王国を経て、ヤマト王権へと政治構造が変わっていく過程を見ているのかもしれません。


50年前の講義が、今また面白くなる

大学でこの問題を学んだのは、約50年前です。

榎一雄説。
牧健二説。

「魏志倭人伝」の短い文章を、どう読むのか。
そんな議論を講義で聞きました。
それから半世紀。

考古学は、当時にはなかった大量の情報を私たちに与えました。
吉野ヶ里。
新しい発掘。
平原遺跡の鏡の再評価。
年代研究。
そして、九州各地の遺跡。

しかし、不思議なことに、50年前に聞いた問いが古くなったようには感じません。
むしろ、新しい発掘成果が増えたからこそ、再び、「女王国とは何だったのか」という問いが面白くなっています。

新しい発見によって、古い学説がそのまま正しくなるわけではありません。しかし、古い問いが、新しい意味を持って戻ってくることがある。
歴史研究とは、そういうものなのかもしれません。

平原1号墓の40面の鏡を見ながら、私は半世紀前の講義録を見ながら、こんな風にもう一度思い出しています。


今回、私は改めてこの墓を見に行きます

この記事の公開後、私は実際に福岡県糸島市へ行きます。

平原遺跡。
そして、
伊都国歴史博物館。

50年前、大学の講義で聞いた「女王国」。
その後、研究が進んだ平原1号墓。
40面の鏡。
巨大な内行花文鏡。
そして、女性だった可能性のある墓の主。

資料で読むだけでは分からないことを、現地で確かめてきます。
墓は、どんな場所にあるのか。
女王墓と言われる塚の大きさは、「歩いて何歩」あるのか。
海とは、どのような位置関係にあるのか。
直径46.5センチの巨大鏡は、実際に見るとどれほど大きいのか。
現在の博物館は、墓の主をどのように説明しているのか。

50年前の「女王国」という問いを持って、1800年前の王墓を、もう一度見に行きます。

そこで今回は、いつもの質問を少し変えます。


✅ 読者参加アンケート&小さなプレゼント企画 🎉

この連載では、第1回〜第3回まで、記事末尾の「今回の問い」に答えてくださった方の中から抽選で、現地取材で見つけた古代史・遺跡関連の小さなグッズをプレゼントします。

応募方法は簡単です。

この記事のコメント欄に、今回の問いへの回答を書いてください。

「A」だけでもOKです。

第1回〜第3回、それぞれの回答を1口として抽選します。3回すべて参加すると3口になります。

プレゼントは高価なものではありません。

平原遺跡や伊都国、九州の古代史を訪ねる旅の中で見つけた、ちょっとした「旅のおすそ分け」です。

当選者には第3回終了後、noteのメッセージ機能またはコメントへの個別返信でご連絡します。

※プレゼント発送は日本国内に限ります。
※当選者からお知らせいただいた氏名・住所等は、発送のためだけに使用します。
※当選連絡後7日以内にご返信がない場合は、再抽選とします。

では、今回の問いです。

あなたは――?😕

✅【今回の問い】

平原1号墓の人物を、あなたはどう考えますか?

A|伊都国の「女王」だった可能性が高い

B|有力な女性だったと思うが、「女王」とまでは言えない

C|性別も身分も、まだ判断材料が足りない

D|別の考えがある

そして、もう一つ。

現地で確かめてほしいことはありますか?

「墓はどんな場所にある?」

「海との位置関係は?」

「巨大鏡は実際にはどれくらい大きく見える?」

「博物館は被葬者をどう説明している?」

どんな素朴な疑問でも構いません。

コメントでいただいた疑問の中から、現地で確認できるものを実際に見てきます。


次回――その「クニ」の姿が地面から現れた

では、卑弥呼を共立した「女王国」が、複数のクニからなる政治世界だったとすれば、その「クニ」とは、実際にはどんな姿だったのでしょう。

その問いを考えるための、巨大な遺跡があります。
佐賀県、吉野ヶ里遺跡。

環壕。
大型建物。
王墓。
祭祀。
戦争。

そして現在も続く、邪馬台国時代の有力者墓域の発掘。([佐賀県公式ホームページ][3])

1980年代末、「邪馬台国発見か」と日本中を熱狂させた場所です。
しかし、約40年の研究を経た現在、吉野ヶ里はどう見えているのでしょう。

次回

「吉野ヶ里は邪馬台国だったのか」

「邪馬台国」という一つの名前を探すのではなく、卑弥呼を共立した時代の「クニ」そのものを見に行きます。


【註】
[1] 第085回常設展示
https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_999426_po_85.pdf?contentNo=1&utm_source=chatgpt.com

[2] <研究ノート>魏志倭人伝正解の条件
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/items/fdf377a6-8b31-432a-9144-2a1fdc375e8e?utm_source=chatgpt.com

[3] 令和7年度吉野ヶ里遺跡発掘調査の特別公開を実施します / 佐賀県
https://www.pref.saga.lg.jp/kiji003118209/index.html?utm_source=chatgpt.com

[4] <研究ノート>「邪馬台国問題の解決のために」の補説 | NDLサーチ | 国立国会図書館
https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000136-I1390853649778778240?utm_source=chatgpt.com



✅ 邪馬台国、卑弥呼、まず読むなら第1話ダイジェストから⬇︎⬇︎


✅ 続きを、そして全話を読むなら書籍⬇︎⬇︎

書籍「Lost Light 失われた光」


✅  邪馬台国、卑弥呼「Lost Light」を音楽で聴くならApple MusicSpotify ⬇︎⬇︎

Apple Music


本作品の楽曲・歌詞は、著作者による創作的関与を前提に、JASRACへ作品届を提出し管理されています。
The music and lyrics are registered with JASRAC based on the creator’s human creative contribution.


ここから先は

0字
【前半無料】全8話完結。

邪馬台国を“恋の舞台”として読む 卑弥呼の時代を、物語の背景として歩く なぜこの舞台を選んだのか なぜ鏡なのか なぜ卑弥呼と壹與なのか …

応援よろしくお願いします!