「失われた光」第9話|女王の死――愛と即位の果てに、光は失われる(前半/無料)
――卑弥呼、即位。だがその光は、闇に狙われていた
女王が生まれる朝だった。
けれど、その光が永遠ではないことを、壹真だけはどこかで感じていた。
即位、誓い、愛の告白。
そのすべての先に待っていたのは――“失われた光”だった。
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第9話 女王の死
前半無料:
一 即位の朝
霧が谷を包んでいた。
高千穂の谷は、夜の湿り気をそのまま抱えたように白く煙っている。
鳥の声も、木々のざわめきも、どこか遠く柔らかい。
壹真は、宮殿の外階段をゆっくり登っていた。
胸の勾玉は、いつもより静かだ。
(……本当に、大丈夫なんだろうか)
祭殿で黒縄に傷を負ってから、日向は何日も床に伏せていた。
巫女たちの祈り。
薬草の匂い。
夜通し続く祭文。
その果てに、ようやく「意識が戻った」と聞かされたのは、二日前のことだった。
そこから先は、あまりにも早かった。
奴国。
伊都国。
不弥国。
各国から、次々と使者が来た。
火の国からも、新たな代表が「服従」を誓いに現れた。
戦乱の気配。
狗奴国の影。
揺れる連合。
その中で、倭国連合はひとつの決断を下す。
――巫女・日向姫を、正式に「卑弥呼」として倭の女王にする。
壹真は、まだその言葉に現実味を持てずにいた。
(女王、か……)
扉の前で立ち止まり、深く息を吸う。
木の戸に手をかけると、内側から柔らかな声が届いた。
「いっしん?」
少し高めで、少しだけ掠れた声。
「入っていいよ」
壹真はそっと戸を開けた。
朝の光が、細く寝所へ差し込んでいる。
薄布を通してやわらかくなった光が、白い蚊帳と寝台の上の人影を淡く照らしていた。
日向は、上半身を起こしていた。
白い衣の上から、紅の外衣を纏っている。
額の勾玉は、前より少し大きなものに変わっていた。
胸元の傷は布に隠れて見えない。
だが、その上に巻かれた紫の帯が痛々しい。
「おはよう、いっしん」
「……その言い方、反則だろ」
思わず笑いそうになる。
いつもどおりの声で、いつもとは違う朝を迎えるなんて。
「本当にやるのか。
今日、即位の儀」
「“やるのか”じゃなくて、“やるしかないの”だよ」
日向は、ほんの少し肩をすくめた。
「狗奴国の影がここまで迫ってる。
連合をまとめる力が必要なの。
“ただの巫女”じゃ、もう足りない」
「だからって、体は――」
「まだ、全部は戻ってないよ」
あっさり言われて、壹真は言葉に詰まる。
「でも、“光”は戻ってきた」
日向は、自分の勾玉にそっと触れた。
「壹真が、壁を一緒に作ってくれたから。
……本当はね、あそこで私、全部折れててもおかしくなかった」
あの夜の光景が蘇る。
焼ける縄。
崩れそうな壁。
倒れ込む日向。
「やめろよ。
そんな“もしも”の話、縁起悪い」
「ふふ。
じゃあ今からするのは、“これから”の話」
日向は、まっすぐ壹真を見た。
「私が女王になっても、いっしんは――
“光の半分”でいてくれる?」
「当たり前だろ」
答えは、考えるより先に口から出た。
「俺がここにいる理由、たぶんもうそれしかない」
日向の頬が、ほんの少し赤くなる。
「そう言ってくれると、嬉しい」
その笑顔は、ほんの一瞬だけ、普通の女の子のものだった。
「じゃあ――行こうか」
日向は寝台から立ち上がり、外衣の裾を整えた。
少しだけ足元は揺れる。
けれど、決意の強さがそれを支えていた。
扉の向こうでは、太鼓の音が鳴り始めていた。
倭の女王が生まれる、長い一日の始まりだった。
二 卑弥呼、即位す
高千穂の広場は、人で埋まっていた。
階段状の丘には各国の使者。
谷の村々から集まった人々は、宮殿を見上げている。
空は、雲ひとつない青だった。
風はまだ冷たい。
けれど、新しい季節の匂いがした。
「倭国の諸国の長らよ――」
祝詞が響く。
太鼓と銅鐸の音が重なる。
朱に塗られた高殿の上。
白と紅の衣をまとった日向が、ゆっくり進み出た。
髪は高く結い上げられ、玉飾りが光る。
額の勾玉は眩しいほどに輝き、彼女自身から光が立ち上るように見えた。
(……綺麗すぎるだろ)
壹真は、高殿の少し後ろ、柱の陰からその姿を見ていた。
「これより、日向姫をもって倭国の女王“卑弥呼”となす!」
祭主の声が、高らかに宣言する。
ざわり、と空気が揺れた。
「卑弥呼……」
その名は、書物の中の文字ではなかった。
この場で生まれたばかりの、生の音だった。
日向姫――いや、卑弥呼は、ゆっくり膝を折る。
祭壇の上に置かれた三つの宝へ、手を伸ばした。
ひとつは勾玉。
ひとつは剣。
そしてもうひとつは――三角縁の神獣鏡。
(これが……卑弥呼の鏡)
壹真の胸の勾玉が、きゅっと熱を帯びる。
鏡の縁には、あの刻文がある。
水行千里。
陸行千里。
そして、自分の名。
「この勾玉をもって、天と地と人の心をつなぐ証とする」
卑弥呼は静かに勾玉を掲げた。
玉の中で光が揺れ、人々の顔を照らす。
「この剣をもって、国を乱す者を討ち、倭の秩序を守る誓いとする」
剣が掲げられる。
佐士の背筋が、わずかに伸びた。
「この鏡をもって、我が姿を倭の国々と、海の彼方の国々に示す」
鏡が陽を受ける。
谷に、強い閃光が走った。
「我が名は――卑弥呼。
光をもって、倭の道を照らす者」
高殿の下から、どよめきが起こる。
やがて、誰かが最初に叫んだ。
「卑弥呼様――!」
その声はすぐに広がり、谷を埋め尽くした。
「卑弥呼様!
卑弥呼様!!」
人々は次々と跪き、地に額をつける。
涙ぐむ老人。
子を抱いて祈る母親。
各国の使者たちも、ひとり、またひとりと膝を折った。
壹真は、その光景を見ながら喉の奥が熱くなるのを感じていた。
(“歴史の中の名前”が、今、目の前で生まれてる)
ふいに、卑弥呼の視線がこちらを向いた。
歓声の中心で。
誰にも気づかれない角度で。
ただ一瞬だけ、目が合う。
その瞳は言っていた。
――見ててね。
(当たり前だろ)
壹真は小さく頷いた。
女王として。
巫女王として。
そしてひとりの少女として。
その背中を、最後まで見届けると心に決める。
三 束の間の“日向”として
即位の儀が終わりに近づいた頃には、もう日が傾いていた。
諸国の長たちとの挨拶。
祭殿での誓い。
供物の受け取り。
すべてを終えるころには、卑弥呼の顔にも疲れが浮かんでいた。
それでも、笑みは崩さない。
女王としての最初の日だ。
弱さを見せるわけにはいかなかった。
「日向。――いや、卑弥呼様」
回廊で、壹真はわざとらしく頭を下げた。
日向は一瞬きょとんとし、それから吹き出した。
「やめてよ、その顔で“様”付け」
「いや、一応な。
こっちの世界のプロトコルを尊重しようかと」
「ぷろ……?」
「決まり事。儀礼ってこと」
「ふふ。
じゃあ、こっちの儀礼はこうね」
日向は裾をつまみ、ほんの少しだけ礼をした。
「光の巫覡に、礼を」
「やめろ、それはもっと似合わない!」
二人は小さく笑い合う。
回廊の外では、まだ遠く歓声が続いていた。
日向は欄干にもたれるようにして、外を見た。
「ねえ、いっしん。
……今日、少しだけ“日向”でいられる時間、くれる?」
「いつも日向だろ」
「今日は特に、卑弥呼でいる時間が長かったから」
日向は夕陽を見つめ、目を細めた。
「さっき、鏡に映った自分を見てね。
“あ、もう戻れないんだな”って思った」
「戻るって、どこに?」
「山を走り回って、泥だらけで帰って、母様に怒られる日々。
ただ“日向”でいられた頃」
その横顔に、少しだけ寂しさが宿る。
「だから――今だけは、“女王”のこと忘れてもいい?」
「いいよ」
壹真は隣に並んだ。
谷には灯が、ひとつ、またひとつ点り始めていた。
人々の暮らしの明かり。
卑弥呼が守らなければならない光だ。
「ねえ、いっしん」
「ん?」
「もし、全部終わったら……どこか、海を見に行かない?」
「海?」
「この谷のずっと向こう。
奴国の先の海。
あなたのいた世界の海とも、どこかで繋がってるはずの場所」
日向は、両手で欄干を握った。
「そこで、何も考えずに、ただ波の音だけ聞いていたい」
あまりにも小さな願いだった。
だからこそ、あまりにも切ない。
「行こう」
壹真は即答した。
「海でも山でも、どこでも。
全部終わったら、いくらでも連れて行く」
「約束」
日向が、小指を差し出す。
壹真もそれに絡めた。
「何回でも約束するよ」
けれどその約束が、“未来の鍵”になる気がしてならなかった。
二人は、それ以上何も言わなかった。
沈黙は穏やかで、
同時に、どこか危うかった。
四 魏の金印、狗奴国の決断
その安らぎの裏で、もっと大きな流れが動いていた。
卑弥呼は連合の総意を受け、狗奴国の圧迫に対抗するため、ついに魏へ使者を送った。
帯方郡へ入り、長い海路を越え、倭の使者は魏の都へ至る。
そして、卑弥呼の名を刻んだ文書を差し出す。
その時代を伝える記録には、こうある。
倭の女王卑弥呼、使いを遣わして献見す。
帯方郡はこれを魏に奏し、魏は卑弥呼を「親魏倭王」に封ず。
魏の皇帝は、倭を正式に冊封の内に置いた。
金印、錦、絹布、刀、鏡、楽の品々――数多くの下賜品が与えられる。
その儀式は、魏の宮城・洛陽で行われた。
高い殿門。
冷たい青石の床。
果てしなく続く白い柱。
帯方郡から何千里も旅してきた倭の使者は、その壮麗さに息を呑んだまま膝を折る。
「倭よりの使者、進め」
宦官の声が、薄い絹幕に吸い込まれる。
玉座の上には、魏の皇帝・曹叡。
煌びやかな冠。
冷たい光を宿した目。
「卑弥呼なる者、倭国を治め、海を隔てて我が国に帰順を望むと聞く。
その誠意、ここに確かに受け取った」
右手が上がる。
宦官が、龍の爪を刻んだ黒漆の箱を捧げ持って進み出る。
「これは、親魏倭王としての印である。
卑弥呼に授け、倭国の安寧を守らしめよ」
箱が開く。
黄金の塊が、宮殿の光を受けて輝いた。
そこに刻まれていたのは、ただ四文字。
親魏倭王
使者は思わず息を呑む。
それは栄誉だった。
だが同時に、倭にこれから落ちる未来の影をも映しているようだった。
下賜品はさらに続く。
絢爛たる錦。
透き通る絹布。
飾り刀。
魏の工房で鋳られた鏡。
楽師の絃。
それらは、魏に従った証であり、同時に狗奴国への牽制でもあった。
(この印が女王の胸に渡れば、倭は変わる。
狗奴国も、ただ黙ってはいないだろう)
その予感は、やがて現実になる。
倭の港には、海の彼方から届いた箱が積み上がる。
錦の赤。
絹の白。
人々は噂する。
「女王様は、中原の帝に認められたらしい」
「倭の王……親魏倭王の印が下されたとか」
「魏の船がまた来るかもしれぬ」
その噂は、塩の香りとともに、北へ、南へ流れていった。
そして――
それは、狗奴国の奥深くにも届く。
焚き火の赤が、岩肌を揺らしていた。
洞窟の奥。
王・卑弥弓呼が、噂を聞き終えて立ち上がる。
「……卑弥呼が、魏より金印を賜った、だと?」
報告した兵は震えていた。
「魏の帝が、倭の女の巫女を“王”として認めたというのか。
この狗奴国を差し置いて」
拳が岩盤を打つ。
焚き木が弾ける。
「倭の国々が一つにまとまり、魏の庇護に入る……
それはつまり、倭の主が卑弥呼だと認められたということだ!」
副官が顔を上げる。
「王よ。
もし魏が倭を後ろ盾とすれば、我ら狗奴国は北へ進む道を絶たれましょう」
「絶たれるだけではない」
卑弥弓呼は低く言った。
「やがて“邪魔な存在”として討たれる。
ならば先に断つ。
倭の光が満ちきる前に、その根を焼き払う」
副官たちの顔がこわばる。
「王……それは、つまり――」
「卑弥呼を討つ」
洞窟の空気が、一瞬で張りつめた。
そこへ、王はひとつの影を呼ぶ。
「……黒縄。前へ」
輪の外に立っていた黒い影が、静かに進み出た。
黒い面。
火を映さない瞳。
まるで闇そのものだった。
「倭の女が金印を得た。
魏に抱かれるつもりらしい」
卑弥弓呼の声が低く響く。
「このまま倭の諸国があの女に従えば、狗奴国は押し込まれ、やがて締め上げられる」
「黒縄。お前の目には、どう映る」
黒縄は静かに答えた。
「――光が、二つ」
「ひとつは、巫女王・卑弥呼。
今や倭の光を一身に集める柱」
焚き火が鳴る。
「そしてもうひとつは……異邦の巫覡。
卑弥呼の傍らに立ち、未来の光を抱く者」
卑弥弓呼の眉が動く。
「未来の光、だと?」
「彼を斬ることもできます。
ですが、彼は流れの外から来た存在。
“歴史の力”に守られている。
手を出せば、こちらの時の流れが歪み、我ら自身が消される危険があります」
「……では、どうする」
黒縄の面の奥で、影のような笑みが浮かんだ。
「光を折るには、中心を斬ればよい」
洞窟が、凍ったように静まり返る。
「巫女王・卑弥呼。
光を集めすぎた者は、影に呑まれる」
卑弥弓呼の口元に、獣のような笑みが浮かんだ。
「……よい。やれ」
黒縄は深く頭を垂れた。
「承知」
その瞬間、焚き火がふっと縮み、空気が入れ替わった。
「行け、黒縄。
倭の光を断ち切り、狗奴国の時を呼び戻せ」
「――必ず」
そして、黒縄の影が洞窟から消えた。
それは、倭全土を包む“見えざる炎”の最初の音だった。
ここまで無料公開
ここから先で、
卑弥呼としての夜ではなく、“日向”としての最後の時間が始まります。
そして、黒縄はついに女王の寝殿へ侵入する。
続きでは――
日向と壹真の、静かで決定的な愛の確認
「もし私がいなくなったら」という、あまりにも不穏な願い
黒縄の襲撃
そして、タイトルどおりの“女王の死”
までを収録。
▶ 後半では、
「愛してる」
という最もやさしい言葉が、
その直後に来る最も残酷な喪失へ変わっていきます。
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