一身独立
1980年代末産まれの私の世代はものごころついた頃にはバブル経済が崩壊しており経済成長といったものを感覚的に経験していない。失われた20年や30年の中で育ち、l就職氷河期やら1998年前後の北海道宅食銀行、山一証券とかの破綻、長銀・興銀の整理等の日本の金融危機、さらにリーマンショック等の世界金融危機とか、日本の経済がGDPがかつて1位であったこととかを想像できない世代だろう。大学生になり学問をかじる頃には日本は低成長というよりむりそ下り坂になのはむしろ自明な事実であると感じていた。
とはいえ、そういった感覚はむしろマジョリティではなかったのかもしれない。この下り坂でも日本人の規律や勤勉さはなかなかすごく、よい大学にはいりよい就職先にはいり日本社会に貢献することが美徳といった価値観が大きいと感じていた。もちろん、こういった価値意識は自分が所属する集団、つまりブルデュー的な社会的空間、に依拠するだろう。私は地方公立とはいえ進学校を出て偏差値の高い大学を出ており、紆余曲折をへて気がついたら社会人で博士号をとっているので、周辺環境の経済資本や文化資本は高い、そういった環境のマジョリティは上昇アスピレーションが高く、かつ社会貢献意欲が高い層が大きくなるのは統計を取らなくてもある程度自明だろう。そういった層には日本が下り坂にはいり今や中国だけでなく、韓国・G20・BRICSとかにも政治経済的パワーで負けていくのではないかといった危機意識はあっても、そうならないように日本の再浮上に寄与したいといったプロフェッショナルが多いのではないか。
一方で人文科学をかじりすぎた私には、そういった個人的にも国的にも過度に上昇アスピレーションを持ちすぎることに違和感を感じる。みんなでがんばるといった主義は一旦もう終わった価値観である。
冷戦の終結とともにリベラルな価値観が世の中に浸透し始めて、今後は方の支配にもとづく公正な主権国家体制が気づかれる道が開かれたというフクヤマ的な歴史の終焉に期待がかかっていた。日本にとってこの終焉はバブル経済の終焉により下り坂に入ったことと時期が重なっており、世界的な暗い冷戦が集結したものの日本は暗い時代にはいっていった。その意味では、リオタールのいう大きな物語は日本の文脈ではかなり当てはまりが良い。暗い時代に入った日本にとっては、普遍主義的な近代合理主義やヒューマニズムに対して八つ当たり的な疑義を持てる契機が大きくあったはずだ。高度経済成長した分、米国や先進各国のやっかみによる外圧もあって、大規模小売店舗立地法という地域商店街を壊滅させる法律や、なぜか国際協力資金をやたら増やさざるを得なかった時代等、普遍化していくリベラリズムの中でも不遇もあった。個人レベルで見ても、経済や雇用の悪化や特に2000年代の非正規労働の増加により格差が広がり、かつ家族や集団の紐帯が弱まり、流動性が激しい時代になっていく。流動性が激しく、かつ情報化社会により社会やさらに価値観は島宇宙化していくことで、東浩紀がいうようなむしろ近代合理主義を経て動物化していく事象が生まれていた。
GDP世界3位でも経済や一人当たり所得は先進国の中では同じく沈みつつある欧州の各国よりも悪く、現役世代の年金・社会保障の先行きが見えず、そんな中で社会が島宇宙化、個人が動物化していく中で、卓越主義(エリート主義)により社会をよい方向にもっていくといったパターナリズムや主知主義により日本を再浮上させていく、といったサンスティーン的な議論もあり得るかもしれない。
とはいえ、こういう発想の根底にある、人間の合理性を前提とするエリート主義に対して、暗黒啓蒙やトランプ1.0的な新反動主義が発生したと言えるだろう。そのうごきは日本でも極右的な議論をする保守政党が支持を得始めていることから見ることができる。
しかし、根底にもつべきものは、例えば福沢諭吉的な独立自尊の考えではないだろうか。一身が独立しなければ国は独立しないし、天は人の上と下に人をつくっていない。左派思想やエリート主義も、極右的な思想も、どちらも個としての一身の視点に欠けている。ウェーバーを引用するまでもなく国家社会は個人の集まりであり、要素を磨かなければならない。個を育成するための教育は崩壊しており、過度なリベラルにより教育現場ではお勉強以外の教育的指導ができなくなり、個が磨かれない。つまりお勉強以外の公教育が半分機能していない。福沢諭吉的には、私塾や私的教育が重要になっているとも言えるだろう。
しかし、福沢の時代とことなり、今回は脱亜入欧するのではなく、そういった近代合理主義を俯瞰してみつつ、後期近代のその後を見据える必要がある。短期的には世界の地政学的緊張と法の支配の弱体化にともない、日本の身の振り方を考える必要があるが、その先には個がどうするかといった視点が重要になるだろう。
