小説『春和景明 ― めぐる思い』 第12話 鼓動(こどう)
約束していた休日。
美咲と隼人は、初めて二人きりで食事へ出かける。
待ち合わせ場所に現れた隼人は、いつもの図書館で見る姿とは少し違っていた。
「すみません。待ちましたか?」
「ううん。私も今来たところ。」
そんな何気ない会話だけで、二人とも少し緊張していることが分かった。
店に入り、向かい合って座る。
最初は少しぎこちなかった。
何を話せばいいのか分からない。
でも、本の話をきっかけに少しずつ会話が増えていく。
「最近、また本を読んでるんですか?」
「うん。でも、隼人君に勧められた本、まだ全部は読めてないけど。」
「無理に読まなくても大丈夫ですよ。」
そう言って笑う隼人。
その表情を見て、美咲も自然と笑顔になる。
料理が運ばれてくる。
二人は食事をしながら、仕事の話や休日の過ごし方、昔のことを話した。
病院では聞けなかったこと。
図書館では話せなかったこと。
少しずつ、お互いの知らなかった部分を知っていく。
「隼人君って、本当に本が好きなんだね。」
「はい。昔から好きでした。」
「なんとなく分かる気がする。」
「美咲さんは?」
「私は……読む時間がなかったかな。」
そう答えてから、美咲は少し笑う。
「でも最近は、少し楽しいと思えるようになった。」
その言葉に、隼人は嬉しそうに微笑む。
食事を終える頃には、最初の緊張はすっかり消えていた。
店を出た二人は、ゆっくり街を歩く。
その途中、映画館の前を通りかかった時、美咲がふと足を止める。
「この映画……少し気になってたんだよね。」
何気なくこぼした言葉。
隼人はその表情の変化に気づく。
そして少し迷ったあと、勇気を出して口にする。
「もしよかったら……今度、一緒に観に行きませんか?」
美咲は少し驚いたあと、優しく微笑む。
「うん。行こう。」
二人は次の約束を交わす。
その後、近くの公園へ向かった。
ベンチに座りながら、二人はゆっくり話をする。
初めて会った時のこと。
病院で過ごした時間。
今こうして一緒にいること。
何気ない会話だった。
でも、二人にとって大切な時間だった。
日が傾き始め、公園も少しずつ人が少なくなっていく。
「そろそろ帰ろうか。」
「はい。」
二人はベンチを立ち、公園を後にした。
肩を並べて歩く。
会話は途切れても、不思議と気まずさはなかった。
風が木々を揺らし、葉擦れの音だけが静かに響く。
歩幅を合わせるように歩いていると、不意に二人の手が触れた。
「あ……。」
「すみません。」
二人は同時に声を上げ、思わず顔を見合わせる。
すぐに離れるはずだった。
けれど、お互いに手を引くタイミングを失ってしまう。
指先がそっと重なった。
隼人は鼓動が速くなるのを感じながら、美咲を見つめる。
美咲も少し驚いたような表情で隼人を見ていた。
目が合う。
隼人は少し照れくさそうに笑った。
「……このままでも、いいですか?」
ほんの少しだけ沈黙が流れる。
美咲は頬をほんのり赤く染め、視線を落とした。
そして、小さく頷く。
「……はい。」
隼人はそっと美咲の手を包み込む。
美咲も静かに握り返した。
言葉はなかった。
それでも、重なった手から伝わるぬくもりが、お互いの気持ちを十分に伝えていた。
二人は手をつないだまま、駅へ向かった。
駅前まで来ると、美咲が時計を見る。
「まだ少し時間あるね。」
「そうですね。」
駅前には、小さな喫茶店があった。
「少し休んでいく?」
「はい。」
二人は窓際の席に座る。
コーヒーと紅茶が運ばれてきても、しばらくは静かな時間が流れた。
その静けさは気まずいものではなく、心地よいものだった。
カップをそっと置いた美咲が、不意に口を開く。
「隼人君。」
「はい。」
「この前、図書館で話したこと、覚えてる?」
「弟さんのことですか?」
美咲は小さく頷いた。
「弟はね……もういないの。」
隼人は黙って美咲の言葉を待った。
「高校生の時に病気で亡くなった。」
美咲はカップを見つめながら続ける。
「弟は、不安になるとすぐ顔に出る子だった。」
「だから私は決めてたの。」
「弟の前では、絶対に笑顔でいようって。」
「私まで泣いたら、もっと不安になると思ったから。」
隼人は何も言わない。
ただ、静かに耳を傾けていた。
「ある日ね。」
「病室を出た時、親戚が話してるのを聞いちゃったの。」
美咲は少しだけ視線を落とす。
「『美咲ちゃん、よく笑っていられるね。』」
「『こんな状況なのに……普通は笑えないでしょう。』」
その言葉は責めるような口調ではなかった。
悲しみの中で、ぽつりと漏れた一言だった。
「その時、思っちゃった。」
「私、間違ってたのかなって。」
窓の外では、電車がホームへ滑り込んでいく。
店内には食器の触れ合う小さな音だけが響いていた。
「それからかな。」
「笑うのが怖くなったの。」
「笑ったら、冷たい人だと思われるんじゃないか。」
「悲しんでないって思われるんじゃないか。」
美咲は小さく笑った。
「だから仕事でも、必要以上には笑わなくなった。」
隼人はゆっくりと息を吸う。
「……僕は。」
美咲は黙って続きを待った。
「僕は、弟さんは安心してたと思います。」
「え……?」
「僕も入院してたから分かるんです。」
「家族が泣いてると、自分がもっと苦しくなるんです。」
隼人はゆっくりと言葉を選ぶ。
「でも、笑ってくれる人がいると。」
「『大丈夫なんだ。』って思えるんです。」
美咲は何も言えなかった。
「だから。」
隼人は少し照れくさそうに笑う。
「美咲さんの笑顔は、弟さんにとって救いだったと思います。」
その言葉に、美咲は静かに目を閉じた。
胸の奥で長い間ほどけなかった何かが、少しだけ軽くなった気がした。
「……ありがとう。」
その声は、小さく湯気の立つカップの向こうへ溶けていった。
店を出る頃には、すっかり夜になっていた。
二人は改札の前で立ち止まる。
「今日はありがとうございました。」
「こちらこそ。」
少しだけ名残惜しい沈黙。
「映画、楽しみにしてます。」
「私も。」
そう言って笑った美咲の笑顔は、以前より少しだけ柔らかかった。
隼人はその笑顔を胸に刻み、それぞれのホームへと歩き出した。
