『午前2時44分、団地のエレベーターは13階に止まる』
僕がその団地に引っ越した理由は、家賃が安かったからだ。
築四十八年。
十二階建て。
駅から徒歩二十三分。
事故物件ではない。
少なくとも、不動産屋はそう言った。
「古いですけど、部屋はリフォーム済みですよ」
家賃三万八千円。
東京でこの値段なら、多少のことには目をつぶれる。
多少のことなら。
⸻
1
引っ越した初日の夜。
僕はコンビニへ行った。
時刻は午前二時三十分。
エレベーターホール。
下ボタンを押す。
僕の部屋は十一階。
表示が、
1
から上がってくる。
2。
3。
4。
5。
途中で止まらない。
10。
11。
チン。
扉が開く。
誰もいない。
乗る。
一階を押す。
扉が閉まる。
その瞬間。
表示がおかしくなった。
12
「……え?」
上に向かっている。
僕は一階をもう一度押した。
反応なし。
そして。
表示が変わった。
13
十二階建てなのに。
チン。
扉が開いた。
⸻
廊下だった。
団地の廊下。
ただ。
照明が全部消えている。
奥に非常灯だけが光っている。
僕は降りなかった。
閉ボタン。
反応しない。
「なんだよこれ……」
その時。
廊下の奥。
誰かいる。
女の子。
小学生くらい。
赤いランドセル。
こちらを向いている。
距離は二十メートルほど。
女の子が言った。
「お兄ちゃん」
声だけ。
異様にはっきり聞こえた。
「十二階、押して」
僕はボタンを見る。
12。
押した。
扉が閉まる。
女の子は乗ってこなかった。
表示。
12。
11。
10。
下がっていく。
一階。
扉が開いた。
僕は走って外へ出た。
コンビニには行かなかった。
⸻
2
翌朝。
管理人室へ行った。
七十歳くらいの男。
佐伯さん。
「あの」
「はい」
「この団地、十二階までですよね?」
佐伯さんの手が止まった。
「そうですが」
「昨日、エレベーターが十三階に」
「故障でしょう」
即答だった。
「でも廊下が」
「故障です」
「いや、階が増える故障って」
「あります」
「ないでしょ」
佐伯さんは僕を見る。
「何時でした?」
「二時四十四分くらい」
顔色が変わった。
ほんの一瞬。
「その時間」
佐伯さんは言った。
「エレベーター使わない方がいいですよ」
「なんで?」
「古いので」
嘘だと思った。
⸻
3
調べた。
団地名。
十三階。
事故。
検索。
何も出ない。
掲示板。
古いブログ。
SNS。
見つからない。
ただ一件。
十五年前の匿名掲示板。
『白ヶ丘団地について』
レス番号47。
白ヶ丘って夜中に13階出るってマジ?
48。
十二階建てだろ。
49。
2:44に乗れば分かる。
50。
やめとけ。
そこで終わっていた。
⸻
4
二日目。
午前二時四十分。
僕はエレベーターの前にいた。
普通ならやらない。
でも。
人間は、正体不明の恐怖より正体を知りたい欲求が勝つことがある。
スマホで録画開始。
乗る。
一階。
扉が閉まる。
2時43分。
下降。
10。
9。
8。
2時44分。
表示。
13
来た。
チン。
扉が開く。
同じ廊下。
そして。
女の子。
昨日より近い。
十メートル。
「十二階、押して」
僕は押した。
扉が閉まる。
⸻
部屋に戻る。
動画を見る。
エレベーター。
表示。
11。
12。
そして。
動画では。
12のまま。
13になっていない。
扉が開く。
画面には普通の十二階。
照明も点いている。
女の子もいない。
でも音声。
『十二階、押して』
入っている。
僕の声。
「誰?」
そして。
誰もいない場所から。
女の子の声。
『ありがとう』
鳥肌が立った。
僕は動画を消した。
⸻
5
三日目。
隣の部屋のおばあさんに聞いた。
「十三階?」
名前は吉岡さん。
八十三歳。
この団地が建った時から住んでいる。
「見たの?」
「はい」
「女の子いた?」
心臓が跳ねる。
「赤いランドセルの」
吉岡さんは目を閉じた。
「やっぱり」
「知ってるんですか?」
「昔ね」
四十年前。
この団地で事故があった。
小学四年生の女の子。
名前は、
佐伯真奈。
学校から帰宅。
十二階の自宅へ向かう。
エレベーターが故障。
十二階と十一階の間で停止。
扉が開いた。
真奈ちゃんは降りようとして。
転落した。
「亡くなったんですか?」
吉岡さんが頷く。
「事故が起きた時間が」
分かった。
「二時四十四分」
「そう」
「でも十三階は?」
吉岡さんは首を振る。
「知らない」
そして。
「管理人さんには聞いた?」
「佐伯さん?」
吉岡さんが僕を見る。
「真奈ちゃんのお父さんよ」
⸻
6
管理人室。
佐伯さんは黙っていた。
「娘さんなんですね」
長い沈黙。
「……そうです」
「十三階って何なんですか?」
「分かりません」
「見たことは?」
「あります」
初めて。
彼は認めた。
事故から一年後。
午前二時四十四分。
エレベーター。
13。
扉。
娘。
『お父さん』
佐伯さんは降りようとした。
その時。
娘が叫んだ。
『来ちゃダメ!』
扉が閉まった。
それ以来。
二時四十四分には乗らない。
「娘さんは毎回、十二階を押してって言います」
佐伯さんが僕を見る。
「……十二階?」
「はい」
顔が青ざめる。
「何か?」
「娘が住んでいたのは」
彼は震えながら言った。
「十一階です」
⸻
7
その夜。
眠れなかった。
女の子。
十二階。
なぜ?
午前二時四十分。
エレベーターの音。
ウィーン。
止まる。
十一階。
僕の階。
チン。
部屋の外。
足音。
ぺた。
ぺた。
ぺた。
子供の足音。
廊下。
僕の部屋の前。
止まる。
ピンポーン。
時計。
2:44
息を殺す。
ピンポーン。
「お兄ちゃん」
女の子。
「十二階、押して」
玄関の向こう。
「お願い」
僕は動けない。
「十二階」
声が変わる。
低い。
女の子じゃない。
「押して」
ドアノブ。
ガチャ。
鍵が揺れる。
ガチャ。
ガチャ。
そして。
静かになった。
⸻
朝。
玄関を開ける。
床に。
赤いランドセル。
そして一枚の紙。
子供の字。
『12かいにいる』
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8
僕と佐伯さんは十二階へ行った。
1204号室。
空室。
四十年間。
誰も住んでいない。
「ここは?」
佐伯さんが答える。
「事故の後から空室です」
鍵を開ける。
古い部屋。
リフォームされていない。
埃。
家具。
「なんで残ってる?」
「住人が突然いなくなった」
「いつ?」
「娘が死んだ翌日」
部屋を調べる。
押し入れ。
古い新聞。
写真。
そして。
床下。
小さな箱。
中に。
子供用の靴。
名札。
『佐伯真奈』
佐伯さんが崩れ落ちた。
「なんで……」
箱の底。
カセットテープ。
再生した。
女の子の声。
『おじさん、返して』
男の声。
『静かにしろ』
『お父さんに言う』
『やめろ』
物音。
悲鳴。
録音終了。
⸻
事故ではなかった。
1204号室の住人。
男。
真奈ちゃんにいたずらをしていた。
彼女が父親に話すと言った。
男は追いかけた。
エレベーター。
揉み合い。
突き飛ばした。
そして。
事故に見せかけた。
翌日逃亡。
警察には故障による転落事故として処理された。
「じゃあ十三階は」
僕は気づいた。
存在しない階。
彼女が閉じ込められた記憶。
十二階と十一階の間。
どちらでもない場所。
だから。
十三階。
⸻
9
その夜。
佐伯さんはエレベーターに乗った。
僕も一緒だった。
2:44。
13。
チン。
扉。
真奈ちゃん。
「お父さん」
佐伯さんが泣く。
四十年。
初めて。
「真奈」
女の子が笑う。
「遅いよ」
「ごめんな」
「うん」
「怖かったな」
「うん」
「ごめんな」
何度も。
謝る。
真奈ちゃんが首を振る。
「お父さん」
「なんだ?」
「十二階、押して」
佐伯さんが押す。
12。
扉が閉まる。
その瞬間。
真奈ちゃんが。
僕を見る。
笑っていた。
でも。
口だけが動く。
『違う』
え?
扉が閉まった。
⸻
10
一週間後。
事件は再捜査された。
1204号室の元住人は既に死亡していた。
真実は完全には分からない。
でも。
真奈ちゃんの名誉は戻った。
僕は引っ越すことにした。
最後の日。
荷物を運ぶ。
午後。
エレベーター。
一階。
普通に降りる。
管理人室。
佐伯さんはいなかった。
机の上にメモ。
『娘に会いに行ってきます』
嫌な予感。
時計を見る。
午後2時43分。
エレベーターを見る。
表示。
11。
12。
そして。
13
「佐伯さん!」
階段を走る。
十二階。
エレベーター。
扉が開く。
誰もいない。
床。
佐伯さんの靴。
そして。
赤いランドセル。
スマホが鳴った。
知らない番号。
メッセージ。
画像。
開く。
エレベーターの中。
佐伯さん。
真奈ちゃん。
二人とも笑っている。
その後ろ。
知らない男。
顔が黒く潰れている。
そして。
もう一人。
僕。
「……え?」
僕はここにいる。
画像の中の僕が。
こちらを見る。
次の瞬間。
エレベーターの扉が閉まった。
表示。
12。
13。
14。
僕は息を止める。
この団地は。
十二階建てだ。
表示。
15。
16。
17。
上がり続ける。
スマホに新しいメッセージ。
送り主。
佐伯真奈
本文。
たった一行。
『13階じゃなかった』
そして。
背後で。
チン。
別のエレベーターの扉が開いた。
女の子の声。
「お兄ちゃん」
振り返れない。
「今度は」
耳元。
「十八階、押して」
⸻
翌月。
白ヶ丘団地。
1204号室に、新しい住人が入った。
大学生の男性。
家賃三万八千円。
不動産屋は笑顔で説明した。
「古いですけど、部屋はリフォーム済みですよ」
「事故物件とかじゃないですよね?」
「もちろん」
青年は安心したように笑った。
その夜。
午前二時四十四分。
彼はコンビニへ行くため、
エレベーターに乗った。
表示が、
12。
そして。
13。
チン。
扉が開く。
廊下の奥。
赤いランドセルの女の子。
その隣に。
若い男が立っていた。
僕だった。
助けを求めようとした。
逃げろ、と叫ぼうとした。
でも。
僕の口から出たのは。
まったく違う言葉だった。
「十二階、押して」
扉が。
ゆっくりと閉まり始めた。
⸻
完
