創作性は、手を動かした量では測れない
最近、生成AIを使った作品について考える機会が
増えた。
特に note を眺めていると、文章・イラスト・写真を
含め、完成度の高い作品が並んでいる。
その中で、生成AIの使い方を
• 自分で描いた
• 補助として使った
• すべて任せた
と分類する考え方を目にした。
制作プロセスを整理するという意味では、
この分類は分かりやすい。
ただ、これを 「創作性の有無」 と
結びつけてしまうと、少し違和感が残る。
創作性と作業量は別の軸にある
創作性は、
「どれだけ手を動かしたか」
と必ずしも比例しない。
映画監督やアニメの総監督は、カメラを回さず、
作画もせず、音楽も演奏しない。
それでも彼らが創作者と呼ばれるのは、
判断・選択・責任を引き受けているからだ。
何を採用し、何を捨て、どこで良しとするか。
その積み重ねが作品の方向性を決めている。
これは、委託先が人であっても、
ツールであっても、本質的には変わらない。
アバウトな指示と創作性は切り分けるべきだと思う
確かに、曖昧な指示だけで作られた作品は、
内容が浅く見えることもある。
ただそれは、
作品の出来や完成度の問題であって、
創作かどうかの判断基準ではない。
出来が良くない創作物は、創作物ではないのか。
失敗作や実験作には創作性がないのか。
そうではないはずだ。
AIだけを特別扱いしていないだろうか
人に任せれば「総指揮」、
AIに任せれば「描いていないだけ」。
この切り分けは、感覚的には理解できても、
概念としては一貫していないように思う。
違いがあるとすれば、
誰が創作の主体として判断と責任を持っているか、
そこだけだ。
生成AIは、便利な道具であり、
時にはパートナーのような存在にもなる。
だが、最終的に作品として世に出す判断を
しているのは人間だ。
創作を軽くしないために
生成AIを使ったかどうかよりも、
創作において問われるべきなのは、
• 主体はどこにあるのか
• 判断は誰がしているのか
• 結果に責任を引き受けているのは誰か
この3点だと思っている。
創作性を「手を動かした量」で測ってしまうと、
創作そのものをとても単純なものにしてしまう。
だから私は、こう考えている。
創作性と、手を動かした量は比例しない。
この文章は、私自身が一文一文を
直接書いたものではありません。
ただし、この考え方を言葉として形にするために、
私自身が思考を整理し、問いを投げ、
方向性を示してきました。
そして、この文章を良しとし、記事として
投稿することを決めたのは、私自身の判断であり、
その結果についての責任も私が引き受けています。
ここで述べている考え方や結論も、私自身のものです。
その事実を踏まえたうえで、
創作性と作業量を安易に紐付けて
考えてしまっていないか、
もう一度立ち止まって考えてみても
良いのではないでしょうか。
