連続性への疑念
前回まで、ネットロアに関しての記事を書いた。
「概念だから」は、概念を壊す。(https://note.com/super_holly630/n/n0c90181932c2)では、拡張するなら条件を示せという話をした。ウラシマ効果も共同構築も、結果の共通性だけで概念を広げてしまっている、と。
ネットロアの最終の最終!!(https://note.com/super_holly630/n/n31ba0d49edde)では、SCP、ANT、遡及的フィールドワークという道具を使って、その拡張の仕方をもう少し細かく見ていった。
どちらも根っこにあったのは同じ要求だった。「条件を示せ」。何を含め、何を含めないのか。何を残し、何を捨てたのか。誰が何を受けて、何を変えたのか。
今回は、もう一段手前に戻りたい。
条件を示せというのは、そこに条件を付けるべき一つの対象がある、ということを前提にしている。でも、その前提自体は本当に正しいのだろうか。
タコとイカ
たとえば、ある物語世界にタコの怪物とイカの怪物が追加されたとする。どちらも頭足類だ。似ている。だから連続性がある、と言えるだろうか。
言えない。
一人がタコの怪物を思いつき、それを見た別の一人が、それに触発されてイカの怪物を作ったというなら、確かに連続性がある。
でも、二人が互いを知らないまま、それぞれ独立に、頭足類というホラーではありふれたモチーフをたまたま選んだだけかもしれない。
あるいは、後から、まとめwikiの編集者がこの二つを見て「水棲の怪物」というカテゴリーに勝手にまとめただけかもしれない。
似ているということは、連続性の証拠にはならない。
ホワイトボードの比喩

前回までの記事で、私はこの現象をヒドラに例えていた。根元は一つで、そこから色々な方向に枝分かれしていく。そう思っていた。
でも、もっと正確に言うならこうかもしれない。ホワイトボードにバラバラに、無関係な付箋が貼られている。それを見た誰か(観察者、研究者)が、後から勝手に線を引いてつなげているだけかもしれない。
ヒドラなら、少なくとも一つの生き物として実際に成長し、分岐してきたという連続する実体がある。でも、付箋はそれぞれが独立して貼られただけの別々の紙だ。それらをつなげているのは紙自体の関係ではなく、後から来た人間が外側から引いた線でしかない。
日付は何を証明するのか
ネット上の出来事には日付が記録される。投稿Aが1月1日にあり、投稿Bが1月5日にあった。前回までの記事で、これを実証の強さの根拠として扱ってきた。口承の伝承にはない、ネット怪談の特徴だ、と。
でも、これが証明しているのは時間的な前後関係、それだけだ。Bの投稿者が実際にAを読んで、それに触発されてBを書いたのか。それとも、Aの存在すら知らないまま、たまたま似たことを独立に書いただけなのか。日付はこの二つを区別する力を持っていない。
これはあらゆる歴史記述を無効にする話ではない。手紙、証言、本人の言及という具体的な証拠が出来事の間に示されているなら、それをつなげて語ることは正当だ。
ネット上のやり取りは、日付、時刻、投稿IDという記録を豊富に残す。これは一見、歴史記述より精密に見える。でも、日付やIDが証明しているのは、いつ誰が何を書いたか、という記録の正確さでしかない。それが前の投稿を実際に踏まえて書かれたのか、という参照の有無は証明しない。
結局、連続性を認めるための根拠は発言か証拠しかない。本人が前を踏まえたと明言しているか。前の内容が後に具体的な形で反映されているか。それがない限り、記録の量がいくら多くても連続性は認められない。
ただし、その発言や証拠自体もネット上では無条件に信頼できるわけではない。
投稿者を識別する符号は日付をまたげば変わってしまうことがある。誰かが以前の投稿者の口調や設定を真似て、本人のふりをして続きを書くことも技術的に難しくない。投稿された内容自体が、後から、コピペやまとめサイトへの転載の過程で書き換えられることもある。
つまり「本人が前を踏まえたと明言している」という一見確実に見える証拠でさえ、その発言者が本当に最初の投稿者と同一人物であるという保証は、ネット上には原理的にない。発言や証拠が確認できたとしても、それは連続性を確定させる最終的な証明にはならない。それは仮説の確からしさを多少高める材料に過ぎない。
だから連続性というのは、最後まで証明ではなく仮説として扱うしかないものなのかもしれない。それを証明されたことにして、発展や共同構築という確定的な言葉に変換してしまうことこそが避けるべきことだ。
たとえ連続していたとして、それがなんだ
ここまでは方法の話だった。連鎖が本当にあったのかを疑う話。
でも、もっと厳しい問いがその先にある。仮に、その連鎖が本当にあったと証明できたとしよう。それでもなお問うべきことがある。それが確認できたところで何が明らかになったと言えるのか。それぞれが、それぞれの意図で別々に作ったバラバラの作品の集まりに「共同で作り上げた一つのもの」という意味を見出すことに、何の意味があるのか。
これはもう方法の精度の問題ではない。なぜ人は、バラバラのものに一つの物語を読み込みたがるのか、というもっと大きな問いだ。
それはもう民俗学ではない
民俗学は、実際に存在する共同体の、実際に共有された意味や記憶を掘り起こす学問のはずだった。語り手と聞き手の間に実際の生きたつながりがあったからこそ、そこに意味を見出すことができた。
でも、ネット上の多くの現象には、その生きたつながりがそもそもなかったかもしれない。参加者たちは互いを参照すらしていないかもしれない。連続性は後から来た研究者が勝手に引いた線でしかないかもしれない。
だとすれば、そこにあるのは実際の共同体の営みではなく、研究者がバラバラの断片に後から物語を押し付ける行為だ。
きさらぎ駅も一つではない
前回までの記事で、きさらぎ駅は、投稿、続報、設定追加という経路が日付入りで具体的に追える、実証の強い事例として扱ってきた。他のもっと雑多な事例と比べれば確かにそうだった。
でも、最初の投稿と後から加えられた設定は、本当に一つの単一の作品なのだろうか。「きさらぎ駅」という一つの固有名詞で呼ばれているものは、実際には「最初の投稿」「最初の投稿+誰かの設定追加」「それ+また別の誰かの追加」という、段階ごとに異なる作品として扱うべきなのかもしれない。継ぎ足しの経路が追えることと、それを一つの単一の作品として名付けることの妥当性は別の問題だ。
これも最後まで確定できることではない。一つの作品だったのか、段階ごとに別の作品がたまたま同じ名前を引き継いでいっただけなのか。どちらの可能性も残したまま扱うしかない。
一つ削れば別の作品
彫刻家が一箇所を削る。その一手だけで、それ以前の状態とそれ以後の状態は明確に違う別の形になる。これは完成しているか、まだ制作の途中かとは関係のない話だ。削る前も削った後も、それぞれがその時点で独立した一つの状態として存在している。
なぜ物語には、この直感が働かないのだろう。一段落書き足しただけでも、私たちはそれを別の作品だとはあまり考えない。むしろ「同じ物語の続き」として扱ってしまう。物語という形式が、時間の流れに沿って展開するものだという前提を持っているせいで、後から加わった部分を自然に「発展」として受け止めてしまうのかもしれない。
でも、彫刻の論理に従えば、加筆の前後はそれぞれ別の独立した状態のはずだ。しかも、これは単一の著者による加筆にすら当てはまる。同じ人間でも時間が経てば考えも意図も変わる。今日の自分と一年後の自分が、同じ一貫した意図を持ち続けている保証はどこにもない。単一の著者だから同じ作品、というのも実は自明ではなかった。
完成のない対象に発展はない
彫刻や小説には、多くの場合、作者がこれで終わりだと決める明確な終着点がある。だから、その終着点に向かう途中の状態を未完成と呼べる。
でも、きさらぎ駅やリミナルスペースのような集合的な現象には、そもそも終着点が想定されていない。人がいる限り新しい要素が追加され続ける。誰かがこれで完成だと宣言する権限も必要もない。
だとすれば「発展」「移行」という言葉を使うためには、少なくとも、その変化がどの方向を持つものなのか、その方向を何によって判断するのかが必要になる。
ところが、きさらぎ駅やリミナルスペースのような集合的な現象について、その方向性をどこから導いているのかは明らかではない。あるのはただ無方向な状態の蓄積だけだ。
完成というものがそもそもないという前提に立つなら、何を基準に発展したと判断すればいいのか。方向性を語るには、その方向を測る物差しが要る。物差しがないまま発展、移行という言葉を使うことは、何に向かって進んでいるのかを自分でも説明できないまま歩みを進めている、と言っているのと同じだ。
ネットロア研究の進め方
ここまでの話を研究の進め方として組み立て直すなら、こうなる。
最初から「ネットロアはどう発展してきたのか」と聞くのではなく、「そもそも何と何がつながっているのか」から始める。
そのうえで、次のことを全部分ける。
時間的に後だからつながっているように見えるのか
内容が似ているからつながっているように見えるのか
同じ名前で呼ばれているからつながっているように見えるのか
同じタグが付いているからつながっているように見えるのか
前の投稿を実際に参照したからつながっているのか
前の設定を実際に引き継いだからつながっているのか
これらはそれぞれまったく別の根拠だ。それを一段ずつ立証していく。
時間的前後 → 参照・継承 → 連続性 → 同一対象性 → 共同構築 → 発展
この順番を飛び越えて、時間的前後だけでいきなり発展や共同構築を語ってしまうことが、これまで繰り返し批判してきたことだった。
そして、ここにはもう一つ面白い視点の転換がある。ネットは口承の伝承より、はるかに多くの記録を残す。これまで、この記録の豊富さは「ネットだから連続性を追いやすい」という実証の強さの根拠として扱われてきた。
でも、正確には逆なのかもしれない。「ネットだから連続性を追いやすい」のではなく「ネットだからこそ連続性が本当に存在するのかを細かく検証できる」。記録の多さは、連続性を安易に主張するための材料ではなく、その連続性を厳しく検証するための材料として使うべきものだった。
オムライスにケチャップをかけたら
オムライスにケチャップをかける。これは進化だろうか退化だろうか。
どちらでもない。かける前とかけた後は単に違う状態だ。かけた方が美味しいと思う人には良くなったように見えるかもしれないし、ケチャップが嫌いな人には改悪に見えるかもしれない。進化か退化かは見る人の好み次第で変わってしまう。これこそ、進化という言葉が本来持つべきではない主観的な価値判断を、こっそり含んでしまっている証拠だ。
生物学の進化も、本来は優劣を意味する言葉ではない。ある環境で生存や繁殖に有利な特徴が選ばれていく、環境相対的なプロセスに過ぎない。それなのに日常語としての進化は、しばしば優劣の意味をこっそり忍び込ませてしまう。
では、オムライスに何があったら発展と言えるのか
カレーをかけた。チーズを乗せた。卵を二倍にした。形を変えた。
カレーをかけた → 変化
チーズを乗せた → 変化
卵を二倍にした → 変化
形を変えた → 変化
これらはどれも変化だ。でも発展ではない。
発展と言うためには、単なる追加ではなく、何らかの基準において、その対象の能力や機能が実際に向上したことが必要になる。
たとえば、冷めても卵が固くならず、従来より長時間おいしく食べられるようになったなら、保存性という明確な評価基準を設定できる。あるいは、同じ材料、同じ調理時間で、より多くの人に安全に提供できるようになったなら、生産性や安全性という基準で発展と呼べる。
つまり重要なのは、後の状態に何かが加わったことではない。発展という言葉を使うには、何が、どの基準において前より良くなったのかが必要になる。
迷路に怪物が追加された。これは怪物が追加されたという事実しか示さない。そこから、迷路的ホラーが怪物ホラーへ発展したと言うには、何を基準にして発展と判断したのかが必要になる。しかも、それ以前に、その迷路と怪物が追加されたものを、そもそも一つの対象として扱っていいのかという、前の節で確認した疑いもまだ残っている。
だから、状態変化、連続性、同一対象、発展を全部同じものとして扱ってはいけない。
前後はあっても上下はない
オムライスとケチャップをかけたオムライスは、時系列としては前後の関係にある。でも概念として、つまり、それをどう理解しどう名付けるかという意味づけのレベルでは、その前後に進化や発展という方向性を持った物語を読み込む必要はない。時間の前後と意味の上下は別の話だ。
迷路的な状態と怪物が加わった状態も同じだ。時系列としては後先がある。でも概念としては、ただ二つの別々の状態が並んでいるだけだ。どちらかがどちらかより優れている、発展しているという判断を加える必然性はどこにもない。
条件を示せから、そもそも対象はあるのかへ
前回までの二本の記事で、私は拡張するなら条件を示せと言い続けてきた。この記事はその一歩手前に立っている。条件を示す前に、そもそも条件を付けるべき一つの対象がそこにあるのか。連続性は対象の側にあるのか、それとも観察者の側にしかないのか。
これはこれまでの主張と矛盾するものではない。むしろ、その土台をもう一段掘り下げただけだ。条件を示せという要求そのものが、実は、もっと手前にあるこの疑いを避けて通れないところまで連れてきてしまった。
結論
変化には前後はあっても上下はない。
進化も退化も発展も、そこにはない。あるのはただ別々の状態が時間の中に並んでいる、という事実だけだ。
私たちが「一つのもの」として名付け、語り、発展の物語を当てはめてきた対象の多くは、実は、後から来た観察者がホワイトボードに勝手に線を引いて作り上げた、一つの絵に過ぎなかったのかもしれない。
連続性を疑うこと。それは対象を軽んじることではない。むしろ対象を、観察者の都合の良い物語から解放することだと思う。
これは恐らく、専門の研究者にも確定的な答えは出せない問いだ。研究者にも分からないことが私に分かるはずもない。
ただ、正直に言えば、私はここまでの検証を経てこう思っている。無関係なものを勝手につなげてしまう行為は、民俗学ではなく妄想だ。何かを生み出そうとするとき、その行為が実際に生み出すのは対象の全体ではなく、観察者が都合よく切り取った一部の語彙、語句でしかない。
前提を疑うのはいつも面倒な作業だ。でも、面倒だからこそ誰かがやらないと、その前提は疑われることなく、そのまま次の世代に引き継がれていく。

