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【愛知・新城】最強・武田軍を足止めした馬防柵と、歴史を動かした拠点・長篠城

こんにちは
いなばの白うさぎです。🐇

とうとう旅も終盤になりました。
私たちがまず最初にやって来たのは愛知県新城市、
設楽原(しだらがはら)古戦場。

訪れたこの場所には、450年前の戦国史上最大の転換点、「長篠の戦い(1575年)」の記憶が色濃く刻まれています。

実際に現地で復元された「馬防柵(ばぼうさく)」の前に立つと、あることに気づきます。

「意外と狭い。そして、馬が飛び越えられない絶妙な高さだ……」

今回は、織田・徳川連合軍がこの「柵の裏側」で何を仕掛け、どう歴史を塗り替えたのか。そしてその舞台となった長篠城の足跡を辿ります。


1. 長篠の戦いのおさらい:開戦から終結までのドキュメント

プロローグ:孤立無援の「長篠城」

時は、天正3年5月1日(1575年6月10日)

武田信玄の跡を継いだ、武田勝頼が
1万5,000の大軍を率いて三河へ侵攻


標的は、徳川方の重要拠点である
「長篠城」でした。

城主・奥平信昌率いるわずか500の将兵は、
圧倒的な兵力差を前に
絶体絶命の籠城戦を強いられます。

①. 鳥居強右衛門(とりい すねえもん)の活躍

食料も尽きかけ、落城寸前の長篠城。
足軽の鳥居強右衛門(とりい すねえもん)は、
岡崎城にいる家康へ援軍を求めるため、夜陰に乗じて城を脱出します。

見事、織田・徳川連合軍の出陣を取り付けて戻りますが、長篠城を目前に武田軍に捕らえられてしまいます。


「援軍は来ないと言え、そしたら命は助けてやる」
と脅された強右衛門ですが

城に向かって「援軍はすぐそこまで来ているぞ!」と叫び、そのまま磔(はりつけ)に処せられました。

この命を賭けた叫びが、城兵の士気を爆発させ、
長篠城の落城を食い止めたのです。

②. 信長の秘策:設楽原(しだらがはら)の陣城

強右衛門の報告を受けた
信長・家康の連合軍3万8,000が到着。 
しかし、彼らは長篠城に直接向かわず、

手前の「設楽原」に陣を張ります。
ここで信長が命じたのが、「馬防柵」の構築です。

川を堀に見立て、三重の柵を築くことで、最強の武田騎馬隊を迎え撃つための「野戦築城」を完成させました。

強右衛門が繋いだ時間が、信長に柵を作る余裕を与え、のちにそれは勝利に繋がることとなります。

③. 決戦の火蓋:鳶ヶ巣山(とびがすやま)奇襲作戦

信長はさらに、夜の間に酒井忠次率いる別働隊を送り込み、長篠城を包囲していた武田軍の背後
(鳶ヶ巣山砦)を急襲させます

これで退路を断たれた武田軍は、決戦を避けることができなくなり、設楽原の連合軍本隊へと突撃を開始します。

. 決戦:最強騎馬隊 vs 鉄砲と柵

1575年5月21日早朝。

武田軍は何度も果敢に突っ込みますが、馬防柵に阻まれ、再装填の時間を確保された鉄砲隊の組織的な射撃の餌食となります。

「最強」と謳われた武田の重臣たち(山県昌景、内藤昌秀、馬場信春ら)が次々と討ち死に。

正午過ぎ、勝頼は退却を決断しますが、
武田軍は壊滅的な打撃を受けました。

. エピローグ:戦いの終焉

この戦いの結果、武田家は衰退へと向かい、

織田・徳川の天下統一への流れが
決定的となりました。


そして何より、個人の武勇よりも
「組織的な火力と土木技術」が勝敗を決める、新しい時代の幕開けを象徴する戦いとなったのです。


2. 新城市設楽原歴史資料館で知る「鉄砲戦のリアル」

馬防柵のすぐ近くにあるこの資料館は、
まさに「鉄砲戦の聖地」です。ここで得られる知識が、外に広がる景色の見え方を一変させます。

エントラスでは、
武田軍と織田軍と徳川軍の鎧が迎えてくれます。

1. 左:武田軍(武田勝頼)
2. 中央:織田軍(織田信長)
3. 右:徳川軍(徳川家康)
徳川家康公の手形もありました。

• 圧倒的な火縄銃コレクション

実はここは
日本最大の火縄銃の所蔵数を誇る資料館!!
鉄砲の展示の多さに驚きました!

一挺ごとの重厚感を間近で見ると、これを戦場で扱うことの難しさと、だからこそ「柵」が必要だったのだと深く納得させられます。

有名な三段撃ちに関するパネル

「三段撃ち」とは??
織田信長が長篠の戦いで採用したとされる、鉄砲の弱点を組織力でカバーした画期的な戦術のことです。

実は、三段撃ちについては以下の理由から
「実際にはなかったのではないか」という説が近年有力視されています。

・信頼できる史料に「三段撃ち」の記述がない
・全段が一斉に撃つことは物理的に不可能である。


「三段撃ち」が本当に行われたのか、行われたとしてどの方式だったのか、いまだに完全な結論は出ていませんがとても、興味深い考察でした。

• 甲冑と刀の展示

激戦を物語る遺品からは火縄銃の轟音と土煙のなか、愛馬と共に敵陣へと突き進んだ武士たちの、凄まじい執念と悲哀が伝わってくるようです。

• 屋上展望台からの視界  

資料館の屋上からは決戦場が一望できます。上から眺めると、それぞれの陣地があった場所や距離感を確認することができます。

丸がついている辺りに
新城市設楽原歴史資料館があります。

・幕末の外交官「岩瀬忠震」 
戦国時代だけでなく、新城市出身で日本を開国に導いた幕末の外交官、岩瀬忠震(いわせ ただなり)に関する日本唯一の常設展示も行われています。

3. 長篠城跡:籠城戦が歴史のトリガーとなった

設楽原から車で10分ほど少し足を伸ばし、
「長篠城跡(日本100名城・国指定史跡)」へ。

ここは、奥平信昌率いるわずか500の将兵が、
武田軍1万5000を相手に死守した場所です。

• 天然の要塞:二つの川が合流する断崖絶壁に位置するこの城跡を歩くと、その守りの固さが肌で感じられます。

城跡内にある「長篠城址史跡保存館」では、 
※今回は営業時間に間に合わず入る事が出来ませんでした。

この凄絶な籠城戦の
舞台裏を詳しく知ることができます。

•伝説の足軽 「鳥居強右衛門」(とりいすねえもん) 援軍を呼ぶために城を脱出し、捉えられてもなお「援軍は来る!」と叫んで処刑された強右衛門。保存館にある「逆磔(さかさはりつけ)の図」の複製は、見る者の心を打ちます。

• 血染めの太鼓
武田軍の猛攻を知らせ、
城兵を鼓舞し続けたとされる「血染めの太鼓」。
当時の極限状態を今に伝える貴重な資料です。

4. 「個の武勇」から「組織の戦い」へ

長篠城での壮絶な籠城と、
設楽原での合理的な馬防柵。

この二つの舞台が揃ったことで、
日本の戦いの常識は根底から覆されました。

実は敗れた武田軍も、当時かなりの鉄砲を保有していました。しかし、それを「個別の武器」として使うか、信長のように「柵と組み合わせた陣地システム」として運用するか。その発想の差が、歴史の明暗を分けました。

5. 最後に立ち寄りアドバイス

・長篠城址史跡保存館
・設楽原歴史資料館
・設楽原古戦場

この3つの場所を合わせて巡るのがオススメ!!

設楽原歴史資料館は
「野戦・鉄砲」
がメイン。

長篠城址にある
長篠城址史跡保存館は
「籠城戦・城郭」
がメインの展示となっているため、
全てをまわると合戦の全体像がより鮮明になります。

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