リンゴの唄に込めた想い 並木路子さん誕生日に寄せて
『リンゴの唄』を歌った並木路子さん。
ここ数年、私はこの歌がとても好きになり、よく口ずさんでいます。
今日は9月30日――並木路子さんのお誕生日。
その日に寄せて、並木さんがこの歌に込めた想いや、その歩みなどを、少し辿ってみたいと思います。
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この曲を好きになった経緯
この曲は、私自身のつらいときに視聴していた動画のバックで流れていた曲の中のひとつです。その時から、この曲を繰り返し聴いたり、歌ったりすることがとても好きです。
「これを歌えるのは、明るい声の並木しかいない」
――『リンゴの唄』 作詞のサトウハチロー さん
戦後すぐに生まれた歌、『リンゴの唄』。
並木路子さんは、父兄を戦争で失い、1945年(昭和20年)3月9日〜3月10日の東京大空襲でお母様も亡くされました。そのため、悲しみから立ち直ることができず、リンゴの唄の歌唱の依頼を断っていたそうです。しかし、作詞者サトウハチローさんの強い要望により歌うことを承諾しました。
録音の際、「もっと明るく」と作曲者・万城目正先生に言われても、気持ちはついていかず、暗い心に沈みそうでした。そんなとき、万城目先生から「自分だけが不幸ではない」と諭されました。
「この歌だけは明るく」と自らを奮い立たせたといいます。
その後も、歌うたびに、万城目先生が目の前にいるように感じられ、明るく歌わなければという気持ちになったそうです。
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万城目は「上野に行ってみなさい」と告げます。〜省略〜
「こんな小さなこの子も、あの子も、親を失って一人で生きていかなくてはならない。不幸なのは、私だけではないんだ」
並木に決意が生まれました。「この子たちのために、いま必死に生きようとしている人々のために私は歌おう」と。 スタジオに戻った並木に、万城目が頷きました。
「その思いを大事にしなさい」
〜〜引用 WEB歴史街道「並木路子と「リンゴの唄」~戦後ヒット曲第1号誕生の秘話」
https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4390
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並木さんの子ども時代と学生時代
自分の好きなところへ行けばいい!と自ら考えて。
並木さんは体操と唱歌が大好きで、体操、または唱歌のある日は早く起きて、早く学校へ向かうほどでした。
一方で勉強にはあまり気持ちが向かず、小学校を卒業した後は女学校へは進まずに、自分の好きなところへ行けばいい!と
自分の好きな道を選ぶことを決めました。
そこで、親に内緒で松竹や宝塚の試験を受け、どちらも合格したそうです。
呼び方のあれこれ
余談ですが、それぞれの呼び方にも当時の親しさが表れています。
霧島昇さんは並木路子さんを「みっちゃん」と呼び、
二葉あき子さんは並木路子さんを「みち」と呼びました。
並木路子さんは二葉あき子さんの大ファンであり、親交も深かったそうです。作詞のサトウハチローさんは、作曲者・万城目正さんのことを「万ちゃん」と呼んでいました。
並木さんと誕生日の話
並木さんは誕生日(現代の風習)を嬉しがっていらっしゃいました
昔の日本では、お正月にみんなが一斉に一歳年を重ねる「数え年」が一般的で、生まれた日に年齢を祝うという考え方はありませんでした。ですから、個人の誕生日を特別にお祝いする習慣もなかったのです。
戦後になってようやく「誕生日ごとに年齢を重ねる」今の風習が広まりました。
並木さんは、この“自分の誕生日を祝ってもらえる”という現代的な習慣を、とても嬉しく感じていらしたそうです。
並木路子さんと私の祖母は同い年です。1921年生まれの方が2025年現在まで生きていらっしゃった場合、104歳になります。祖母も、もし生きていたら104歳なのですね。
エピローグ
今も多くの方が「どれだけこの歌に励まされたか」と語ります。戦時中、戦後の人々の心をそっと支え続けた歌であったことが、今日にも伝わってきます。
『リンゴの唄』
作詞:サトウハチロー、作曲:万城目正。
映画では並木路子さんと霧島昇さんが歌いました。
1945年(昭和20年)10月11日公開に公開された戦後映画の第1号『そよかぜ』の挿入歌。
日本人を勇気づける映画を作ろうと松竹が『そよかぜ』を制作。
霧島昇さんとの共唱はオリジナル版のみで、その後は並木路子さんの単独歌唱が広く知られるようになりました。
