線たちはいま、そっと動き始める
ウサギがそっと脚を踏み入れると、
高い天井から吊るされた文字たちは、風もないのに、かすかに揺れていた。
テーブルの上では、
“右ハライ”が、気ままに伸びをしている。
細く、長く、
しゅるりと流れるように。
その横で、
“左ハライ”は、頬を少しだけ膨らませ、
反対を向いていた。
同じ向きへ流れることを、まだためらっているみたいに。
(……なんだか、わたしみたい)
ウサギは小さく笑った。
“テン”は、ぽつんと。
少し離れたところにいた。
まだ、落ちる場所を、決めきれずにいるらしい。
その様子を、“逆テン”が、
気のないふりをして、盗み見ていた。
(……ふふっ、気になるのね)
ウサギは少しだけ遠くから、
やさしい視線を送った。
横画の端では、
“ウロコ”が静かに止まっていた。
まるで、これ以上は進まないと、
心に決めたみたいに。
(……進めない日って、あるわよね)

視線をめぐらせていると、
“起筆”と目が合った。
起筆は、何かを決めたみたいに、
ウサギへひとつ頷くと、静かに動き出した。
(……はじまっちゃうのね)
起筆に続けとばかり、
右ハライは迷いなく流れ、
左ハライは、少しだけためらいながら、それに寄り添う。
テンは、静かに落ちた。
逆テンは、
それをやさしく受け止める。
ウロコが、
最後に止まる。
すべての線が、
それぞれの場所に落ち着いたとき──
そこに、
ひとつの文字が生まれていた。
生まれたての文字は、
まるで最初からそこにいたみたいに──
静かに紙へ馴染んでいた。
文字になる前に、
線はもう、感情を抑えきれなかったのかもしれない。
やさしい風が、
そっと通り過ぎた気がして、
線たちは──
かすかに揺れた。
線たちの間をすり抜けるように、
ウサギの足音だけが、静かな床へ小さく響いていた。
まるで──
生まれたばかりの文字を、そっと
起こさないように。

