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負ければ賊軍だが。

勝てば官軍、負ければ賊軍。
我々はいつも倫理的評価が大好きである。それは吊し上げや非難を避けるため、本能のように刷り込まれた「生存戦略」なのだろう。
勝負事には必ず勝ち負けがある。戦争もしかり。「戦争に勝ち負けなどない」という言い方は一面では正しいが、歴史は必ず勝敗を記す。では、自分が負けた側に属したとき、生き残るための最適な戦略とは何だろうか。

戦争は人が死ぬ。当然である。若い人々が兵士として殺し合い、銃後も近代戦においては安全ではない。女子供も老人も爆弾やミサイルが着弾すれば等しく死ぬ。人命というある種の究極のコストを支払わなくてはならない戦争には「正義/大義」というコストを正当化するだけの「正しさ」が必要である。だから戦争中は双方が「正義/大義」を掲げて戦うわけである。

そしてどちらかが勝つ。特に第二次世界大戦のような「総力戦」において勝った方は人命と膨大な戦費というコストをかけたのだから、「正義/大義」を証明しえた、と言うしかない。そうでなければ、国民は誰も納得しないだろう。それ故に「正義は我にあり!」と声高に叫ぶ。すると負けた側は「悪/不正義」ということになる。

勝者は正義の徒として悪の敗者を裁く。これは近代戦以前にはなかった政治的ショーである。人類の倫理観念が発達したというわけではないだろう。総力戦では、勝者も膨大な犠牲を払っている。だからこそ「正義」を声高に宣言し、敗者を裁く政治的ショーが必要になる。勝った側も家族が、恋人が、友人が戦争で死んでいるのである。留飲を下げなくては勝者の側が政情不安になってしまう。

敗者はそれを受け入れるしかほとんど道はない。受け入れないとすれば、残党と化して戦い続けることになるが、もう決着はついている。近代戦・総力戦において、そうした戦いは「テロ」以上の効果はないだろう。
だから、敗者は勝者による裁きを受け入れ、責任者とされる人々は見せしめとして極刑に処されたりする。

幸か不幸か、責任者ではなかった、また自らが兵士として命を落とすには若すぎた場合の敗者の一員には、生存戦略として二つの選択肢がある。一つ目は「勝者の裁きを善として受け入れ、私は当時無力であったがために、悪の指導部に騙され、或いは強制されてこの戦争国家に加担してしまった。」というストーリーに乗ることである。これを選べば、多少の「後ろめたさ」はありつつも、倫理的に免罪され「被害者」としてふるまうことができる。言うまでもなく、戦後、日本人が飛びついたストーリーである。そしてそれは公式見解となった。しかし、全員がこの物語に乗ったわけではない。

二つ目は「勝者の裁きを『負けたから仕方がない』という留保付きで受け入れ、沈黙する」ことである。これは戦地から帰還できた元兵士が多く選んだ道であろう。実際に戦った彼らは、勝者も敗者も倫理的にどちらが優れているなどと言うことはないと実感として知っている。だから「軍部に騙された我々は被害者だ」という白々しいストーリーに乗ることができない。それは戦死した膨大な戦友に泥を塗ることであり、同時に単なる嘘であるため、不誠実だからである。従って、沈黙を選ぶしかない。

戦後に生まれた世代は「公式見解のストーリー」に沿うことが善と教えられる。そして、そのストーリーを「うしろめたさ」も無しに信じ込み内面化する。それはそうだろう。国家が、政府が正しさを保証し、推奨しているのだから。だが、それが「騙り」であることは地下水脈のように、或いは密教として私的に受け継がれていってしまう。なぜならそれは生存戦略上の「嘘」なのだから。

その集団的な「後ろめたさ」や元兵士たちの感じた「恥辱」は家族内で必ず語られる。そして、当事者がほぼ死に絶えるほどの時が過ぎ、悲劇が歴史に変わるころに、その地下水脈が地上に流出し始める。すると、それまでの態度が「本当にそれでよかったのか」「それは誠実といえるのか」という議論が始まる。良いも悪いもなく、これはただのメカニズムであろう。なぜなら、それは個人の意思とは無関係に、世代交代という社会構造そのものが引き起こす現象だからである。

私の判断は価値判断であり、メカニズムではない。そして私はこのメカニズムを是とし、改めて「反省」をすることが得策だと考える。悲劇が歴史に変わり、客観視が少しできるようになる頃に「なぜ失敗したのか」をあたかも製造業で「なぜなぜ分析」をするが如く、善悪好悪を脇において検討する必要がある。それは、倫理の話ではない。「二度失敗しない」ためである。恐らく「反省」とはそういうもので、「懺悔」とは別の営みではなかろうか。

2025年長崎原爆の日の前日、自宅にて

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