父が朝っぱらからスーパードライを飲んでいた理由
「じいちゃん、亡くなったわ」
仕事中、祖父の訃報の連絡を受けました。
危篤だと聞いていたので、その前日に慌てて会いに行ったばかりでした。
急遽実家に帰ることになり、妻には家庭のことをお願いして、私一人で帰省することに。
時代の流れもあり、家族葬を選びました。
告別式を終え、身内だけで慎ましく飲食するも、どこか「チーン……」とした空気が流れていきました。
祖父が亡くなったのだから、当然といえば当然です。
そして翌朝。
お坊さんが来るまでの間、朝食を買いにローソンへ行きました。
私はパンとコーヒーを選び、父がお会計を済ませる。
あとは葬儀場へ戻って朝食を済ませ、お坊さんを待つだけ。
そう思っていたのですが、あることに気づきました。
父が、朝食のお供にスーパードライを買っていたのです。
「朝っぱらからビールかよ……苦笑」
と思っていると、
「お前の分だぞ」
と、あろうことか私の分まで買っていました。
いや、そういうことじゃないだろ……と苦笑してしまいました。

その後、お坊さんが来て読経が始まったのですが。
今振り返ると、この何気ない朝の出来事が、私にとってちょっとした気づきのきっかけになりました。
私はこの帰省で、父のためにあることを手伝おうと思っていたのです。
ところが父にとって嬉しかったのは、私が「やってあげよう」と思っていたこととは、少し違っていました。
今回は、そんな話です。
・第1章:私が「やってあげたかった」こと
父もすっかり年を取った。
会うたびに、
「足が痛い」
と言うのが、いつの間にか口癖になっている。
以前なら何気なく聞き流していたその言葉も、最近は少し気になるようになった。
歩く姿を見ても、以前よりゆっくりしている。
認知機能も、昔に比べると少し弱まっているように感じる。
「親父だって、もう70代だもんな……」
普段は離れて暮らしているから、余計にそう感じたのかもしれない。
いつの間にか、自分の親も「年を取る側」になっていた。
そんなことを、しみじみと感じました。
一方で、現実問題として、喪主を務める父には、その後もやることが山ほど残っています。
祖母のときもそうでした。
弔問客やお坊さんへの応対。
遺品の整理。
役所や銀行など、さまざまな手続き。
葬儀が終わればすべて終わり、というわけではありません。
妻からも「せっかく帰省するなら、手続きとか手伝ってあげたら?」と言われ、「確かにそうだな」と、素直にそう思いました。
普段、離れて暮らしている自分にできることは限られている。
だったら、せめてこういうときくらいは、父の負担を減らしてあげたい。
そんな気持ちでした。
そして、「父のために、諸々の雑務は自分が手伝おう」と決めていたんです。

祖父を亡くしたばかりで、精神的にも疲れているだろう。
だから、私が代わりにできることは私がやればいい。
そう思っていました。
ただ、私のその想いには、一つだけ抜けていることがありました。
・第2章:父が「してほしかった」こと
実は今回の帰省では、今までになかったことが起こりました。
何と、実家にいる間、父との食事では毎回ビールを飲んでいたんです苦笑。
家でも、外食でも、お通夜でも、そして朝っぱらでも。
最初のうちは、「おいおい……これじゃ手続きできないやんか……」と、少しモヤモヤしていました。
冷蔵庫を開けてみると、スペースの半分くらいがビールで埋まっています。
「自分がいる間は、ずっと飲む気なんだな……」
そう気づきました。
でも、そんな父の様子を見ていると、明らかに楽しそうなんです。
飲食するペースも普段より早い。
いつも以上に饒舌になる。
普段の父とは、明らかに様子が違いました。
そういえば以前、私の子どもに会うために関西へ来てくれたことがありました。
そのとき父が、「誰かと食事したり、酒を飲んだりすると嬉しい」と言っていたことを思い出しました。
普段の父は、一人で食事をしています。
うどんやそばなど、手軽なもので済ませることが多い。
お酒も、缶ビールを1本飲んで、安い焼酎をちびちび。
それが、誰かと一緒になると、こんなにも楽しそうになる。
そこで初めて、
「父にとって、一緒に飲食することって、こんなに嬉しいことだったんだ」
と気づきました。
そして同時に、
「しまった……」
とも思いました。
父は以前から、ちゃんと言っていたんです。
「誰かと食事したり、酒を飲んだりすると嬉しい」と。
なのに私は、その言葉を聞いていたはずなのに、ちゃんと受け取っていませんでした。
父の話を、聞いているようで聞いていなかった。
父のことを、分かっているようで分かっていなかった。
長年家族として一緒に過ごしてきたからこそ、
「父のことなら、ある程度分かっている」
そんな気持ちが、どこかにあったのかもしれません。
でも、今回の帰省で少し考えが変わりました。
そしてこれは、父に限った話ではないのかもしれません。
妻にも、子どもにも、友達にも、同僚にも。
相手のことを「分かったつもり」になっていないか。
そんなことを考えるきっかけになりました。
・第3章:「助かること」と「嬉しいこと」
朝っぱらから飲んでいたからといって、それ以外に何もしていなかったわけではありません。
親族に車を出してもらい、市役所や銀行を回って、実際に手続きもしました。
そこで感じたのは、父が市役所や銀行の説明を、どうも理解しきれていないようだということ。
「これは一人だと大変だろうな」
そう思いました。

だから、手続きを手伝うこと自体は、確かに父のためになっていたと思います。
ただ、それと父が「嬉しい」と感じることは、別だったんです。
手続きは、窓口で教えてもらいながら、一人で進めることもできます。
時間はかかるかもしれないし、苦労もするかもしれないけど、何とかすることはできる。
でも、誰かと食事をしたり、お酒を飲んだりすることは、一人ではできません。
父にとっては、手続きを手伝ってもらうことで「助かる」ことと、誰かと一緒に飲食して「嬉しい」ことは、別のものだったのだと思います。
私は「高齢の父には、手続きを手伝ってあげた方がいい」と考えていました。
それは決して間違いではなかった。
ただ、父のためになることはそれだけというわけでもなかった。
そう考えると、「役に立つこと」と「喜ばれること」は、必ずしもイコールではないのかもしれません。
・第4章:「相手のため」って何だろう?
「父のため」というのは、確かに私の本心でした。
でも、父本人には「何をしてほしい?」と聞いていなかった。
妻の「手伝ってあげたら?」という言葉を聞いて、私が「そうだな」と思った。
そこで、「父のため」が完結していたんです。
考えてみれば、この工程には、父の希望を確認することが一度もありませんでした。
もちろん、本人に聞いたとしても、遠慮されることはあると思います。
「厚かましいかな……」
「迷惑になるかな……」
そんな気持ちから、「本当はこうしてほしい」と言えないこともある。
私自身、そういうことはあります。
だから、相手に聞けばすべて分かる、という話でもありません。
ただ、今回私が「しまった……」と思ったのは、父に何をしてほしいのかを聞こうとさえしていなかったことです。
「手続きを手伝うのは父のためになる」
そこまではいい。
でも、いつの間にか、「父のためになるんだから、父も喜ぶはず」とまで、勝手に話を進めてしまっていた。
父のために何かをしようとしていたのに、父の気持ちを確認していなかったんです。
この一件を通して感じたのは、
「相手のため」と思うことと、それが本当に相手のためになっていることは、別の話なのかもしれない
ということでした。
・第5章:子どもだって合理的
大学進学を機に一人暮らしを始めるまで、家族で食事をするのは当たり前でした。
一人暮らしになれば、一人で食べるのも当然です。
私は一人で食事をしたり、晩酌をしたりしても、寂しいとは思いませんでした。
それはそれで気楽だとも感じていました。
だから父も、同じようなものだと思っていたんです。
でも、本当はそうではなかった。
長年一緒に暮らしてきた家族ですら、相手が何を大切にしているのか、全部分かっているわけではない。
今回の一件から、そんなことを思いました。
そして、これは子どもに対しても同じなのかもしれません。
子どもといると、「大人の言う通りにした方が早いし、合理的なのに」と思うことがあります。
例えば、お昼寝。
お昼寝に誘っても、子どもはなかなか寝ようとしない。
そして夕方になって、眠くてぐずる。
「だから寝ておけばよかったのに……」
ということがあります。

でも、子どもには子どもなりの事情があります。
大人から見れば非合理に見える行動にも、子どもなりの理由がある。
それを「合理的か、非合理的か」だけで判断してしまうと、子どもの気持ちを置き去りにしてしまうのかもしれません。
そう考えると、人は合理性だけで動く生き物ではないんだな、と感じます。
そして、これは子どもだけの話でもない。
大人だって同じです。
効率が悪くても誰かと食事をしたい。
一人でできることでも、誰かと一緒にやりたい。
正論では分かっていても、気持ちがついてこない。
そんなことは、私たちにもあります。
父が朝っぱらからスーパードライを飲んでいたのも、もしかすると、そういうことだったのかもしれません。
・終章:あのスーパードライの意味
相手が何をしてほしいのか、直接聞けば教えてくれることもあります。
でも、「相手に聞けば全部分かる」というわけでもありません。
家族だからこそ言いづらいこともあります。
だから、相手のために何かすることを、やめる必要はないと思います。
ただ、自分が「相手のため」と思っていることと、それが実際に相手のためになっているかは、一度切り分けて考えてみてもいい。
「これをしてあげれば、きっと喜ぶだろう」
そう思ったときに、
「本当にそうかな?」
と、一度立ち止まってみる。
それだけでも、相手のことを「分かったつもり」になるのを、少し防げるのかもしれません。
あの日、私は父のために役所の手続きを手伝おうと思っていました。
それは間違いではなかったと思います。
実際、手続きをしている父を見て、一人では大変だろうとも感じました。
でも、父が本当に嬉しそうだったのは、私と一緒にパンを食べながら飲んだ、朝っぱらからのスーパードライでした。
今思えば、あのスーパードライは、ビールそのものではなかったのかもしれません。
誰かと一緒に食事をすること。
誰かと一緒にお酒を飲むこと。
そんな、当たり前だと思っていた時間そのものが、父にとっては嬉しいことだったのでしょう。
相手のためと思っていることが、本当に相手のためとは限らない。
でも、それに気づくためには、相手のことを「分かっている」と思わないことなのかもしれません。
……まあ、朝っぱらから飲む必要があったのかは、今でもよく分かりませんけどね。苦笑
