文体至上主義
小説・というか純文学において僕はストーリーよりも文体を見るんだけど、文体って意識して捻り出して作るのか、それともその人の20年なり30年なりの人生の積み重ねで自然とできるものなのか、早いとこ知りたい。
というのもブローティガンの「アメリカの鱒釣り」を4年ぶりくらいに読み返していて、やっぱりいいなとは思ったけど、この文体のデメリットとしては、息の長い小説が書けないというのがある。1文章書いて「ふう」、もう1文章書いて「はあ」、ちょっとでも気に入らないと消して、気づけば3時間なんにも書かなかった…が続いては書くのが億劫になる。
文体ってリズムのことだから、ブローティガンみたいにクールな文体でなくても、平凡・というかまあよくあるような書き方をずっと続けていけば、自分では面白くなくとも、読者にとっては心地いいリズムなのかもしれない。その場合、文体は「その人ありのままで」ということになる。
その方が楽なのは楽なんだけど、でもそれって、もし自分がブローティガンみたいな文体を「かっこいい」と思ってしまっている場合、自分に嘘をついて書いているような気がしないか。「俺はもっとこう、アメリカの鱒釣りみたいな文体にしたいのにッ」と。そう思うと、どれだけ「ありのまま文体」で文字数を書けても、「これは『ありきたりな』文章」という後ろめたい気持ちから、書いていて楽しめない。
文体なんか気にせず好きなものを書いたらええ、というのが大多数の意見だろうが、文体が変われば書く内容も変わるため、はなから1個のスタイルがあるといいんだけど。
