『徳川実紀』にみる「三方ヶ原の戦い」
三年閏三月。金谷、大井川辺御巡視ありしに、「此頃、信玄入道は、當家謙信入道と御合体あり」といふを聞き、大に患ひ、「しからば、はやく徳川氏を除き、後をやすくせん」と例の詐謀を案じ出し、はじめ「天竜川を境とし両国を分領せん」と約し進らせしを、など其盟をそむき、大井川まで御出張候や。「さては同盟を変じ、敵讎とならせ給ふなるべし」と使して申し進らせければ、君も聞しめし、「我は前盟のごとく大井川をへだてて手を出す事なし。入道こそ前に秋山、山縣等をして我を侵し、今また前盟にそむきかへりてこなたをとがむ。これは入道が例の詐謀のいたすところなり」といからせたまひしが、是より永く通交をば、たゝせ給ひけり。
武田信玄と徳川家康の同盟時の約束は「大井川を境として今川領を切り取る」であったが、武田信玄は破った。
信玄は、これより彌、姦謀を恣にして、しばしば三河、遠江の地に軍を出し、城々を攻めうつ事やまず。神無月、山縣昌景を先手として五千余騎、入道みづから四万五千余の大軍をぐして遠江国にうちいり、多々良、飯田などいへる城々せめ落し、浜松さしてをしよする。此入道、あくまではらぐろにて、詐謀姦智のふるまひのみ多けれど、兵術軍法においては、よくその節制を得て、越後謙信と相ならび、当時、その右にいづる者なし。当家は、上下心をひとつにし、力をあわする事、子の父につかへ手の首をたすくるにことならず。仁者はかならずといひけん勇気さへすぐれたれば、さながら「王者の師」といふべし。されど寡は衆に敵せざるならひなれば、十二月廿二日、「三方が原のたゝかひ」、御味方、利を失ひ、御うちのましておそひ奉れば、夏目次郎左衛門吉信が討死するそのひまに、からうじて浜松に帰りいらせ給ふ。(夏目、永禄のむかしは一向門徒に組し、御敵して生取となりしが、松平主殿助伊忠「此もの終に御用に立べき者なり」と申し上げしに、其の命たすけられしのみならず、其の上に常々御懇にめしつかはれしかば、是日、「御恩にむくひん」とて君、敵中に引かへしたまふをみて、手に持たる鑓の柄をもて御馬の尻をたゝき立て、御馬を浜松の方へをしむけ、その身は敵中にむかひ討死せしとぞ。)
「三河一向一揆」の時は敵であった夏目吉信は、捕らえられるも助命された恩を忘れず、「三方ヶ原の戦い」では、徳川家康を助けて討ち死にした。
その時、敵は、はや城近く押よせたれば、早く門を閉て防がんと上下ひしめきしに、君、聞召、「かならず城門を閉る事あるねからず。跡より追々帰る兵ども城に入のたよりをうしなふべし。また敵大軍なりとも、我籠る所の城へをし入事かなふべからず」とて、門の内外に大篝を設けしめ、その後、奥へわたらせ給ひ、御湯漬を三椀までめしあがられ、やがて御枕をめして御寝ありしが、御高鼾の声、闌外まで聞えしとぞ。近く侍ふ男も女も感驚しぬ。敵も城の躰いぶかしくやおもひけん、猶予するところに、鳥居、植村、天野、渡邊等の御家人、突て出で追ひ払ふ。
徳川家康は、「帰城する者たちのために城門を閉めるな」と言い、高いびきをあげて寝てしまった。
其の夜、大久保七郎右衛門忠世等は、間道より敵の陣所へしのびより、穴山梅雪が陣に鉄砲うちかけしかば、その手の人馬。「犀が磯」に陥り、ふみ殺さるゝものすくなからず。入道も、この躰をみて大におどろき、「勝ちてもおそるべきは浜松の敵なり」と驚歎せしとぞ。(是、「三方原戦」とて大戦の二なり。)
「三方ヶ原の戦い」の夜、一矢報いようと穴山梅雪の陣に鉄砲を討った。驚いた穴山隊は「犀ヶ崖」に落ちた。武田信玄は、「勝ちても恐るべきは浜松の敵なり」と評したという。
また、武田が家の侍大将・馬場美濃守信房といふもの、入道にむかひて、「あはれ日の本に越後の上杉入道と徳川殿ほどの弓取り、いまだ侍らじ。此たびの戦にうたれし三河武者、末がすゑまでも、たゝかはざるは一人もなかるべし。その屍、こなたにむかひたるはうつぶし、浜松の方にふしたるはのけざまなり。一年、駿河をおそひ給ひし時、遠江の国をまたく徳川殿にまひらせ、御ちなみをむすばれて先手をたのみ給ひなば、このごろは中国、九国までも手にたつ人なく、やがて六十余州も大方事行て候はんものを」といひけるとぞ。
勝いくさしてだに、かくおもひし程なれば、入道つゞきて城をかこまんとせざりしもことはりなるべし。
また、馬場信房は、武田信玄に向かって「上杉謙信や徳川家康ほど武将は他にいない。今回の「三方ヶ原の戦い」では背中を討たれた三河武士はいない(逃げようとした者はいない)。徳川家康と同盟を結び、徳川家康に先陣をやらせれば、西日本、後には全国を制覇できたであろう」と言った。
「三方ヶ原の戦い」で勝ったのに、こういう感想が出るとは。続けて浜松城を攻めなかったのは当然のことであろう。
元亀も三年に天正とあらたまる。信玄は、いよいよ軍伍をとゝのへ、正月、三河の野田の城にをし寄せ、はげしく攻めて、終に菅沼新八郎定盈、城兵に代りて城を開渡すに及んで、たばかりてこれを生け取しが、山家三方の人質にかへて、定盈、ふたゝび帰ることを得たり。
この城攻の時、入道、鉄砲の疵を蒙り、四月十二日、信濃国波合にてはかなくなりぬ。君は信玄が死を聞しめし、「今の世に信玄が如く弓矢を取りまわすものまたあるべからず。我若年の頃より信玄が如く弓矢を取りたしと思ひたり。敵ながらも信玄が死は悦ばず。おしむべき事なり」と仰られしかば、これを聞もの、ますますその寛仁大度を感じ、御家人下が下まで「信玄が死はおしむべきなり」と御口真似をせしとぞ。
年が明けて、武田信玄は野田城を攻めた。これが最後の城攻めになった。というのも、4月12日に、信濃国波合(長野県下伊那郡阿智村浪合)で亡くなったからである。
徳川家康は、武田信玄の訃報を耳にして「武田信玄の死を喜ぶと言うよりは惜しむ」と言ったので、家臣たちも真似して「武田信玄の死を惜しむ」と言った。
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