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ラジオが語る『テレビの効用』、そこにNHKの自己批評は成立しているか

NHKのラジオ番組で、山川方夫の小説「テレビの効用」が朗読された。この事実に、私は小さな違和感を覚えた。なぜ、テレビを主題にした作品を、あえてラジオで放送するのか。その選択自体が、すでに一つの問いを孕んでいるように思えたからだ。

山川方夫の「テレビの効用」において 、テレビは情報や娯楽を与える装置として描かれてはいない。むしろそれは、夫婦が互いの感情や違和感に向き合わずに済むための、好都合な緩衝材として機能する。上機嫌なときには秘密を隠すための騒音となり、不機嫌なときには視線を交わさずに済むための盾となる。テレビは、対話を助けるどころか、対話を回避するために使われている。

この作品が書かれたのは1964年、東京オリンピックの年だ。テレビが「家庭の中心」となり、日本社会に深く浸透した象徴的な年でもある。その輝かしい時代のただ中で、テレビが家庭にもたらす影の部分を描いた山川方夫の視線は、きわめて冷静で、同時に残酷だ。

今回、この作品はラジオで朗読された。映像を持たないメディアで、映像メディアの効用と限界を描いた文学を聴かせる。この構図を、私は好意的に読みたい気持ちと、少し距離を置いて眺めたい気持ちの両方で受け止めている。これはテレビを抱える公共放送による、静かな自己批評なのだろうか。それとも、文学枠に収めることで問いを「安全な過去」に封じ込める行為なのだろうか。

私は公共放送に、答えを提示する存在であることよりも、社会が考え続けるための条件を整える役割を期待している。結論を急がず、思考の過程や迷いを可視化し、市民が自ら判断する力を育てる。その意味で公共放送は、社会を導く灯台というより、航海能力そのものを鍛える基盤であってほしい。

「テレビの効用」は、テレビというメディアが人間の思考や関係性にどのような作用を及ぼすのかを、家庭という最小単位で描いた作品だ。そしてその問いは、半世紀以上を経た現在、形を変えてなお有効である。いま私たちは、テレビやスマートフォンを、対話や熟議を支える道具として使っているだろうか。それとも、向き合うべき不確実性から目を逸らすための「幸福な麻酔」として消費しているだろうか。

山川方夫の作品をラジオで聴きながら、私はその問いが、作品の外に、そして放送した側自身にも返されているように感じた。公共放送とは、社会に安心を直接与える装置ではない。不確実性の中でも考え続ける力を、市民とともに育てる伴走者である。その自己像に照らしたとき、この朗読はどこまで自己批評として成立しているのか。その答えは、番組の中では示されない。だが、示されないこと自体が、考え続けるための条件なのかもしれない。

#「朗読らじる文庫」山川方夫著「テレビの効用」「夫婦の仲」(NHKラジオ第1、2026年2月21日 16:30-16:55)朗読:結城さとみアナウンサー

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