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水曜日のエスケープ|掌編小説

「今日は会社を休みます」

 スマートフォンの画面にそう打ち込み、送信ボタンを押した。時刻は午前七時三十分。いつもなら窮屈なスーツに身を包み、駅のホームで満員電車を待っている時間だ。
 仮病の理由は「軽い発熱」。実際には熱など一分いちぶもない。ただ、今朝目覚めた瞬間、天井を見つめながら「あ、今日はもう無理だ」と、心がぽきりと音を立てたような気がしたのだ。
 ――突発的な有給休暇。
 そこには妙に甘美で、ほんのりと苦い背徳感が漂っていた。
 上司からの「了解。お大事に」という短い返信を確認し、私はベッドに深く沈み込んだ。いつもなら秒刻みで進む朝の時間が、急に引き伸ばされたように緩やかになる。二度寝を貪ってもよかったが、妙に目が冴えてしまったので、私は着替えて外に出ることにした。スーツではなく、お気に入りのヨレたTシャツとジーンズを身にまとって。

 平日の午前十時の街は、驚くほど静かだった。いつも通勤で通り過ぎるだけの駅前商店街が、全く別の表情を見せている。ベビーカーを押す母親、のんびりと犬の散歩をする老人、そして、どこか目的地を持たなそうな若者。世界は私がせかせかと働いている間も、こうして穏やかに回っていたのだ。
 ふと、路地裏に佇む古い喫茶店が目に留まった。何度も前を通りかかったことはあるが、入るのは初めてだ。扉を開けると、カランコロンと乾いた鈴の音が響き、濃厚な珈琲の香りが鼻腔をくすぐった。
「いらっしゃい」
 白髪のマスターが穏やかに迎えてくれる。私は窓際の席に座り、ブレンド珈琲と厚切りのバタートーストを注文した。
 運ばれてきた珈琲をひと口含む。深い苦味の奥に、確かなコクがある。いつも会社のデスクで流し込む缶珈琲とはまるで違う。トーストをかじりながら、カバンに眠っていた文庫本を開く。スマホの通知に追われない時間が、これほど贅沢だとは思わなかった。
 正午を過ぎると、街にはネクタイを緩めたサラリーマンたちが溢れ出した。彼らの忙しそうな歩調を見ながら、私は自分が「あちら側」から一時的にドロップアウトしていることに、小さく優越感を覚える。

 夕方、スーパーでいつもより少し良い食材を買い、アパートに戻った。テレビをつけると、夕方のニュース番組が流れている。時計の針が午後六時を回った。同僚たちは今頃、残業に追われているはずだ。
「よし」と小さく呟き、私は台所に立った。丁寧に時間をかけて作った夕食は、驚くほど美味しかった。
 布団に入り、目を閉じる。明日になれば、またいつもの満員電車と山積みの書類が待っている。しかし、不思議と憂鬱ではなかった。心の引き出しに、今日という「空白の一日」が挟まれただけで、明日を乗り切る元気が少しだけ湧いてくる。
 ――たまにはいいさ。
 そんな風に自分を許しながら、私は深い眠りに落ちていった。

(了)


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