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春風のリボン|掌編小説

 春の風というのは、お節介で、気まぐれで、そのくせ少しだけ感傷的だ。
 東京、午後二時。ビルの間を吹き抜ける風は並木道の桜を容赦なく揺らし、誰かの脱ぎ捨てたコートの裾を叩く。だが、僕の目に映る春風は、ただの空気の移動ではない。淡い水色や薄桃色の、細長いリボンのような光の筋だ。人々の想いや言いそびれた言葉、あるいは忘れ去られた記憶。そういった形のない荷物を、春風のリボンは勝手に拾い上げ、どこかへ運ぼうとする。
「仕方ない。取ってやるか」
 僕は足を止めた。駅前の古い時計塔の針に、一本の、ひときわ鮮やかな緑色の風が絡まっていた。それはまるで、出口を失った迷子のように、チクタクと刻まれる時間に翻弄されてバタバタと暴れている。
 僕には、それが「誰かの約束」であることを直感的に理解できた。それも、かなり古い約束だ。
 周囲を見回すと、街行く人たちはスマホを見たり、足早に歩き去ったりして、誰も時計塔で光るリボンなんて見ていない。いや、そもそも普通の人には見えない代物だ。
 僕は小さく溜息をつき、時計塔の階段を上って屋上の狭いテラスに出た。
 手を伸ばす。指先がその緑色の風に触れた瞬間、脳裏に一気に景色が流れ込んできた。
 ――制服の擦れる音。
 ――チョークの匂い。
 ――「またここで会おう」という、震える声。
 それは、十年前の約束だった。ある少女が、転校していく少年に投げかけた、でも届かなかった言葉だ。風はその言葉を拾ったものの、運ぶべき相手を見失い、この時計塔に引っかかって季節をループしていたらしい。
「よし、行こうか」
 僕が指先でそのリボンを解いてやると、緑色の風は嬉しそうに僕の腕にまとわりついた。ここから、僕の「風聴かぜきき」としての仕事が始まる。
 家系に伝わるちょっとした呪いのような才能で、こうして迷子になった風を目的地まで連れて行くのが、まぁ、趣味に近い副業のようなものだ。
 緑色の風は、僕を導くように街を駆け抜けた。オフィス街を抜け、閑静な住宅街に入る。風はどんどん加速し、僕の心拍数もそれに合わせて上がっていく。
 辿り着いたのは、何の変哲もない小さな公園だった。そこには、一人の男が座っていた。スーツを着崩し、疲れた顔で缶コーヒーを眺めている。年齢は二十代半ばといったところか。
「……あ」
 男がふと顔を上げた。その瞬間、僕の腕を離れた緑色の風が、ダイブするように男の頬を撫でた。
 男の目が見開かれる。目に見えないはずの風が、彼の鼻腔に十年前の春の匂いを届けたのだ。
「ミサト?」
 男が小さく呟く。それは、風に閉じ込められていた少女の名前だった。
 男は弾かれたように立ち上がり、周囲を見渡した。僕と目が合ったが、彼は僕をただの通行人として認識し、すぐに視線を外した。
 彼の視線の先には、公園の入り口に立つ一人の女性がいた。彼女もまた、何かに導かれるように、この公園に足を踏み入れたようだった。
 二人の間に、僕が解き放った緑色の風が穏やかに吹き抜ける。それはもう、過去の記憶ではない。今、この瞬間の再会を祝う、本物の春風になったのだ。
「任務完了、と」
 僕は二人の邪魔にならないよう、静かにその場を離れた。
 ポケットに手を突っ込むと、また新しい風の感触が指先に触れた。今度は少し切ない、オレンジ色の風だ。誰かの「ごめんね」だろうか。
 春風は止まらない。出会いと別れ、後悔と希望。それら全てをかき混ぜて、街中を縦横無尽に駆け回る。
 鼻をくすぐる沈丁花じんちょうげの香り。僕はまた、次の「風の落とし物」を追いかけて、軽やかな足取りで歩き出した。
 やっぱり、春の風はお節介だ。でも、そんなお節介がなければ、この世界は少しだけ、退屈になってしまうのかもしれない。

(了)


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