校庭の地下鉄
放課後、校庭の隅で1人の男の子が地面に耳を当てていた。
最初は体調でも悪いのかと思った。
「どうした?」
と聞こうとして、やめた。
教師という職業は、質問したくなる病気にかかっている。医者が聴診器を持つように、僕らは「どうした?」を持っているのだ。
しばらくすると彼は顔を上げた。
「来た!」
という顔をした。
しかし何も来ない。
救急車も来ないし、宇宙人も来ない。
彼だけが何かを受信している。
10分後、僕は負けた。
「何が来たの?」
男の子は真顔で言った。
「地下鉄!」
この学校の地下に地下鉄はない。
少なくとも校長からは聞いていない。
もし本当にあったら朝礼で大ニュースだ。
「へえ、そうなんだ!」
とだけ答える。
教師生活20年近くになると、「そうなんだ」は万能薬になる。
彼は再び耳を地面につけた。
その姿を見ているうちに、不思議なことを考えた。
大人の中には人生を最短距離で目的地へ行くための地図のように思っている人がいる。
だから赤ペンで道順を書き込みたくなる。
右です。
次を左です。
そこは危険です。
近道はこちらです。
親切のつもりで。
でも子どもたちは違う。
彼らにとって人生は地図ではない。
宝探しだ。
しかも宝の場所を知らないまま始める宝探し。
だから穴を掘る。
石をひっくり返す。
空を見上げる。
地面に耳を当てる。
大人から見れば遠回りばかりだ。
けれど宝探しから遠回りを取り上げたら、残るのは答え合わせだけになる。
夕日が校舎の窓を赤く染め始めたころ、男の子は立ち上がった。
「今日は通過しなかったな~。」
残念そうに言った。
地下鉄の話である。
そしてランドセルを背負い、何事もなかったように帰っていった。
僕は笑った。
たぶん彼は今日、地下鉄を見つけられなかった。
でも、もっと大事なものを見つけていた気がする。
世界には、耳を澄まさなければ聞こえない音があることを。
そして僕はというと、子どもを信じるという難しい宿題の答えを、少しだけ拾った気がした。
それは案外簡単だ。
地下鉄が走っていない場所で、
「地下鉄なんてないよ。」
と言わないことなのかもしれない。
