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親切という名のショートカットを、ぐっと飲み込む

放課後の教室は、どうもパン屋の閉店後に似ている。
焼き上がったはずの匂いだけが残っていて、肝心のパンはもうどこにもない。代わりに、粉まみれの台と、誰かがこねた痕跡だけが、しれっと残っている。
 
僕はそんな教室で、ときどき「失敗の残り香」を拾うのが好きだ。
 
ある机に、ノートが開いたまま置いてあった。そこには「数字になりきれなかったものたち」が並んでいる。途中で迷子になった線、消されすぎてうっすら幽霊になった答え、そして妙に堂々と間違っている式。
 
実にいい。
 
満点の答案より、よほど人間らしい。
 
僕はつい、心の中で拍手を送ってしまう。よくぞここまで迷った、と。迷うというのは、地図を持たずに歩いた証拠で、しかも帰ってきている。これは立派な探検だ。
 
子どもというのは、ときどき大人よりも大胆な研究者になる。
ただし、研究テーマはだいたい「どうしてこうなるのか」ではなく、「なんか気になるから触ってみた」くらいの雑さで始まる。そこがいい。
 
以前、ある子がブロックを並べながら、途中で首をかしげていた。数え間違えたらしい。でもその顔が、どう見ても楽しそうだった。普通、間違えたらしょんぼりするはずなのに、彼はまるで宝箱を見つけた顔をしていた。
 
おそらく、「おや?」が生まれたのだ。
 
この「おや?」は厄介で、しかし尊い。授業を予定通り進めたい教師にとっては、ちょっとした渋滞の原因になる。だが、この渋滞こそが、あとでとんでもない景色に連れていくことがある。
 
僕はときどき思う。
理解というのは、きれいな一本道ではなく、むしろ散らかった部屋に似ているのではないかと。
 
あちこちに物が置かれ、どこから手をつければいいかわからない。でも、何度もつまずきながら歩いているうちに、だんだんと自分なりの動線ができてくる。やがて「あれ、ここ通れるじゃん」と気づく瞬間が来る。
 
そのとき、人は少しだけ誇らしい顔をする。
 
あの顔を、僕は何度も見てきた。
 
だから、つい口を出したくなる瞬間に、ぐっと飲み込む。
「こうすればいいよ」と言うのは簡単だ。親切の顔をして、実は相手の冒険をショートカットさせてしまう。いわば、ゲームのボス戦でいきなりクリア画面を見せるようなものだ。
 
それはそれで楽だが、あまり記憶には残らない。
 
教室が静かすぎる日がある。全員が同じ速度で、同じ手順で、同じ答えにたどり着いていく日だ。美しいといえば美しい。だが、どこかで「生き物の気配」が薄い。
 
僕はそういう日に、わざと黒板の隅に小さな余白をつくる。誰も使わないスペース。そこに、ぽつんと変な問題を書く。すると、たいてい1人くらい引っかかる子が出てくる。
 
その顔が、またいい。
 
「あれ?」と眉をひそめながら、でもちょっと笑っている。
世界に、ひびが入った瞬間だ。
 
学ぶというのは、きっとそういうひびから始まる。完璧な形の上に、新しいものは乗らない。少し崩れているくらいが、ちょうどいいのだ。
 
机の上のノートを閉じる。
今日のこの子は、たぶんうまくいかなかった。でも、その分だけ、明日が楽しみになっているはずだ。人は、不思議なことに、うまくいかなかったところにもう一度行きたくなる。
 
まるで昨日の続きを読みたくなる小説みたいに。
 
だから僕は、明日も教室に立つ。
うまくいかない時間が、ちゃんと起きるように、少しだけ風通しをよくしておくために。
 
そして、誰かのノートの中で、小さな世界がこっそり生まれる瞬間を、見逃さないように。

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