「車でお遍路」第55番札所 南光坊(もとは日本総鎮守大山祇神社の別当寺)
こんにちは、旅いこかです。
四国八十八箇所巡礼、弘法大師との「同行二人」の旅、55番目のお寺は、
別宮山 金剛院 南光坊
54番札所の延命寺から約4.0㎞、車で約10分の場所、
54番札所延命寺から今治市内中心部へ向かい、広い4車線の今治街道沿いの今治市役所のすぐ近くに南光坊は建っている。
隣りには別宮大山祇神社があり、明治の初めまでは大山祇神社の別当寺を務めていたという(詳細後述)。
そしてこの南光坊、四国霊場の中で坊がつくのはこの寺院だけ。
正式名称は、「別宮山 光明寺 金剛院 南光坊」と、寺号はあるようですが。。。
ただ、違和感があったのは駐車場、珍しく境内のど真ん中にあり、山門に入る際の礼は後になってしまった。
では、今治市中心部の札所「南光坊」へ参りましょう。

ご詠歌
このところ 三島の夢に さめぬれば 別宮とても おなじすいじゃく
お参りする前に知っておいた方が良い知識
歴史
大寶3年(703年)、文武天皇の勅願により、伊予の国主であった越智玉澄が、航海の安全を祈願して瀬戸内海今治沖の大三島に大山祇神社と二十四坊の別当寺を建立
和銅5年(712年)、海を渡ることが参拝に不便なため伊予国越智郡日吉村(現今治市)に移転、別宮「日本総鎮守三島の地御前」と称して八坊を建立
弘仁年間(810-824年)、巡錫中の弘法大師は、参拝して坊で御法楽をあげ四国霊場第55番札所に定める
天正年間(1573-1592年)、天正の兵火で八坊すべてが焼失
慶長5年(1600年)、伊予今治藩主となった|藤堂高虎《とうどうたかとら》は八坊のうち南光坊のみ再興
明治時代初期には、神仏分離令により南光坊は別宮大山祇神社から寺院として分離独立、大山祇神の本地仏の大通智勝如来を御本尊として移し安置
昭和20年(1945年)、太平洋戦争の激しい空襲(今治空襲)により、社殿や伽藍など多くが焼失したが大師堂と金毘羅堂のみは戦禍から難を免れる
現在の堂宇は昭和末期以降に再興、現在に至る
大師伝説
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寺号について
山号について
・・・山号は、大山祇神社の別宮だったことから「別宮山」と命名寺号(坊)について
・・・「南光坊」という号は、和銅5年(712年)に別宮「日本総鎮守三島の地御前」と称して八坊を建立した際の一坊
ご利益
御本尊の大通智勝如来
・・・過去世における釈迦如来の父であり師でもあり、必勝祈願の仏さま
御本尊・ご真言
御本尊:大通智勝如来
ご真言:おん あびらうんけん ばざらだどばん
(なむ だいつうちしょう ぶつ)
見どころ
山門(四天門)
・・・東西南北の四方を立派な四天王(持国天(東)多聞天(北)広目天(西)増長天(南))が睨みを利かせて守っている
親切なことに、四天王それぞれに名前が書いてありました。山門の扁額
・・・「日本総鎮守三島地御前」
大山祇神社は日本総鎮守(日本国を守護する神社)として日本で唯一の神社という由緒正しき神社の別宮という意味なのでしょう。本堂
・・・御本尊に大通智勝如来(過去世における釈迦如来の父であり師)を祀る大師堂
・・・太平洋戦争の今治空襲でたくさんの焼夷弾が境内に降ってきたが、大師堂だけは弾丸が屋根から滑り落ち、戦禍から難を免れ堂内の避難者全員が無事だったという金毘羅堂
・・・讃岐の金刀比羅宮から勧請して金毘羅大権現を祀る 江戸時代末期の建立で戦禍から難を免れた南光坊最古の建造物川村驥山の菅笠
・・・書道界初の日本芸術院賞を受賞、旅と酒をこよなく愛した書道家 お遍路の際に驥山から譲り受けた菅笠が展示されているという


写真
次は、第56番札所泰山寺へ参ります。
2022年6月22日投稿
2022年10月6日改訂
合掌
