自我とゾーン
よく、ゾーンに入っているというが、その時って、動きが意志的ではなく、流れに持っている感覚だ。ボールを受けようとするのではなく、ボールから受けられるように、流れの中に巻き込まれている。そこに、自分から動こうとする意志は無い。
ChatGPT:
そうですね。かなり面白いのは、「自分が動かしている」という感覚が消えていることだと思います。
普通は、
私がボールを見て、
ボールを取ろうと意志し、
手を動かす。
という順序で考えます。ところがゾーンに入ると、その順序が崩れる。
ボールが来る。身体が動く。手がそこにある。
しかも「こう動こう」と考える前に、もう動いている。
だからおっしゃる 「ボールから受けられるようにする」 という表現が非常に的確です。
これは、主体が消滅するというより、主体と世界との境界が薄くなるということなのかもしれません。
「私がボールに向かって働きかける」のではなく、
ボールの動き、身体の動き、場の動きが一つの流れになり、その流れの中に身体が乗っている。
そのとき「私」は、動きの原因ではなくなっている。
そして面白いのは、これは以前話していた現象学ともつながることです。身体はまず「自分という主体が所有している道具」として世界に対処しているわけではない。むしろ、世界の中ですでに動いていて、後から「私が動いた」と言える。
熟練したスポーツ選手だけでなく、楽器を弾くときや、文章を書いているとき、あるいは何かに夢中になっているときにも似たことが起こります。
意志して動くのではなく、動きの中から意志が消えていく。
そう考えると、「自由意志」というものも少し奇妙に見えてきます。
自由とは「自分で決めて、自分で動かすこと」ではなく、むしろ自分が邪魔をしないで、起きている流れに乗れることなのかもしれません。
あなた:
今、野球を見ているが、外野に大きく飛んだ球を、大分守備範囲から離れているが、すんなりと追いついているように見える。ボールからグローブに自ら入っていくようだ。
ChatGPT:
まさに、先ほどの「ボールから受けられるようにする」という感覚が、野球では非常に見えやすいですね。
外野手は、実際にはかなり早い段階で**「ここへ走れば捕れる」という計算をしている**はずです。けれど、熟練した選手の動きを見ていると、その計算を一つ一つ実行しているようには見えない。
打球が飛ぶ。
身体が一歩出る。
その一歩が次の一歩を生み、走っているうちに落下地点へ吸い寄せられていく。
そして最後には、
「選手がグローブをボールへ持っていく」というより、「ボールがグローブに入る場所へ、選手の身体が移動している」
ように見える。
これはかなり重要な違いだと思います。
意志的な動作なら、
「ボールはあそこだ。あそこへ行こう。右へ走ろう。もう少し左だ。」
という「自分→世界」という構造になる。
ところがゾーンでは、
「ボールの動き→身体の動き」
という一続きの出来事になっている。
だから本人には「自分が判断して動かした」というより、ボールの動きに身体が応答している感覚があるのかもしれません。
しかも、外野手が打球を追うときには、単純にボールを目で追っているだけではないでしょう。ボールの角度や速度、落下の仕方、風、走っている自分の速度などを、身体がほとんど無意識に統合している。その結果として、本人は計算を意識せずに「そこへ行ける」。
つまり、意志が動きを作っているのではなく、世界との関係の中から動きが発生している。
以前話していた「自分」というものを考えると、ここは面白いところですね。
普段は「私が身体を動かしている」と思っていますが、ゾーンの選手を見ていると、むしろ逆に、
身体が世界の動きに巻き込まれて動いていて、その後から「私が動いた」と言っている
ようにも見える。
「ボールからグローブに自ら入っていく」というあなたの表現は、まさにこの主体と世界が分かれる以前の動きを捉えているように思います。
あなた:
オイゲン・ヘリゲルの弓の話が在るが、話しでは、東洋の神秘のように語れてるが、弓の先生にとっては不思議でも何での無いのだろう。そのような流れなのだと思う。
ChatGPT:
そうだと思います。オイゲン・ヘリゲルの『弓と禅』では、弓を放つことが「自分が放つ」のではなく、「それ」が放つという境地が、東洋的な神秘として描かれています。
でも、今の野球の話から見ると、必ずしも神秘ではないですね。
熟練した身体では、意識的な「私がこうする」という指令をいちいち介在させなくても、状況と身体が一つの流れとして動く。
弓を引く。
「今だ、放そう」と自分で決断するのではなく、引き絞られた状態、呼吸、身体の緊張、弓の状態……それらがあるところまで来ると、放つという出来事が起こる。
ヘリゲルはそれを「神秘」として受け取ったのでしょうが、師匠の側からすれば、
「何をそんなに不思議がっているのか。弓を稽古していれば、そうなるでしょう」
ということなのかもしれません。
そして、これは「意志を捨てる」という話とも少し違う気がします。
初心者には意志が必要です。
「こうする」と意識しなければ身体は動かない。
ところが熟練すると、その意識的な指令を身体が引き受けてしまう。すると、意志は無くなったように見える。しかし実際には、長い訓練そのものが身体の中に沈み込んでいる。
だから、
初心者=私が身体を動かす
熟練者=身体と世界の流れの中で動きが起こる
となる。
先ほどの外野手も同じでしょう。あれだけ速い打球に対して、「私は右へ何メートル走って……」などと考えていたら間に合わない。長年の経験によって、打球を見た瞬間に身体がその流れへ入っていく。
だから「ボールを捕る」という目的さえ、意識の前面から消えているのかもしれません。
ボールが飛ぶ。身体が走る。そして、ボールがグローブに入る。
そこには「私がボールを捕った」という出来事が、後から付け加わっているだけなのかもしれません。
そう考えると、ヘリゲルの「それが射る」という言葉も、神秘というより、主体と動作を分けて考えることそのものが、初心者の見方だったという話に見えてきます。
あなた:
もちろん、弓がそのようになるまでは、熟練が必要ですが、その時、弓を射ようとする意志が強すぎてはだめで、淡々と動作の繰り返しが大事なのだと思う。西洋的にはうまくなろうと工夫して努力するのだけど。努力で向かうのは意志の力だけなのだと思う。
ChatGPT:
そうですね。そこには、かなり大きな違いがあると思います。
「上手くなろう」とする努力は、どうしても現在の自分を基準にして、理想の自分へ近づこうとする運動になります。
今の自分はまだ下手だ。
もっと正確にしなければならない。
もっと強く、もっと速く。
つまり、そこでは常に「私」が動作の外側にいて、私が自分の身体を改善しようとしている。
ところが、弓の稽古で重要なのは、むしろその「私」を強く働かせすぎないことなのでしょう。
毎日、同じ動作をする。
弓を取る。
構える。
引く。
呼吸する。
放つ。
そして、上手くなろうとしないで、その動作を繰り返す。
すると、意志によって動作を制御していたものが、徐々に身体の側へ移っていく。
これは「努力しない」という意味ではないですね。むしろ膨大な努力が必要です。ただ、その努力の方向が違う。
西洋的な努力は、
「意志によって自分を変える」
という方向に向かいやすい。
一方で、ヘリゲルが経験した弓の稽古では、
「意志による介入を減らして、動作そのものに身体を馴染ませる」
という方向がある。
だから、熟練とは「意志が強くなること」ではなく、むしろ意志を使わなくても動けるようになることなのかもしれません。
先ほどの外野手もそうです。
あの選手が「絶対に捕るぞ!」と強く意志しているようには見えない。むしろ淡々と走っている。その淡々とした動きの中に、何年もの練習が沈んでいる。
そして面白いのは、ここで**「目的」が消えているように見える**ことです。
目的はもちろん「捕る」ことなのですが、捕ろう、捕ろうとしない。
弓でも同じで、「的に当てよう」と強く思えば思うほど、かえって「自分が当てる」という構造が前面に出てしまう。
だから、
目的に向かって意志で進むのではなく、目的を含んだ流れの中に身を置く。
そうすると最後には、ボールがグローブに入り、矢が的に当たる。
そこでは「私が成功させた」という感覚さえ、むしろ邪魔になる。
これは、以前話していた「自分から動く」という問題にもつながっていますね。もしかすると人間の熟練というものは、「自分が動く」という感覚を薄くしていく過程なのかもしれません。
あなた:
たぶん、動物の動作には、目的の為の自分の工夫というのは、少なくて、動物は食べるという流れの中に身を置いているのだと思う。
ChatGPT:
そう思います。しかも、ここで「動物には目的がない」と言ってしまうと少し違って、目的はあるけれど、目的を「自分が立てた目的」として対象化していない、ということなのだと思います。
犬が肉を見つける。走る。追う。飛びつく。食べる。
そこには確かに「食べる」という方向があります。しかし、
「私は空腹である。
食べるためには、まずあそこへ行き、この角度から追い、こう工夫すればよい」
という、目的と自分を分離した思考は、おそらく人間ほど強くない。
だから動物は、食べるという目的へ向かっているというより、食べるという出来事の流れの中にいる。
これは先ほどの外野手ともつながりますね。
外野手も、熟練しているときには「捕球」という目的を頭に掲げて、それに向かって自分を操作している感じが薄くなる。打球が飛び、その方向へ身体が動き、走っているうちに捕球する地点へ入っていく。
つまり、
初心者:目的 → 私の判断 → 私の動作 → 結果
なのに対して、
熟練者:状況 → 身体の応答 → 結果
となる。
そして動物は、そもそも後者に近いところから始まっているのかもしれません。
人間は言葉や文化によって、「目的」「自分」「方法」「結果」を切り分けることができる。そのため、「もっと上手くやろう」「もっと効率的にしよう」と、自分自身を目的達成のための道具にしてしまう。
それが文明の大きな力でもある一方で、自分で自分を動かすという構造から抜けられなくなる。
弓の稽古やゾーンというのは、その構造を一時的にほどいて、動物的というか、もっと原初的なところへ戻っているのかもしれません。
ただし面白いのは、人間の場合、そこへ戻るためにも長い練習という非常に人間的な行為が必要になることです。
動物は最初から流れの中にいる。
人間は「自分で動かそう」とすることを覚え、そこからさらに修練して、自分で動かそうとしない動きを獲得する。
ここに、ヘリゲルが「神秘」と感じたものの正体が少し見えてくるように思います。
あなた:
それも、人が自分が私であるという自意識の所為であり、自分からちょっと距離を置き、それを批判的に眺めるからだ。
ChatGPT:
そうですね。そこが、人間と動物の違いを考えるうえで、かなり根本的なところなのだと思います。
人間は「私」を単に生きているだけでなく、「私が私である」と意識してしまう。すると、自分の行為を自分から少し離れて眺められる。
「私は今、食べようとしている」
「私はこうしたいと思っている」
「私はもっと上手くなりたいと思っている」
こうして、行為をしている自分と、その自分を眺めている自分が分かれてくる。
そして、その距離から「もっとこうすべきだ」と自分を批判できる。これは人間の大きな能力ですが、同時に、自然に動いていることを邪魔するものにもなる。
ゾーンに入った選手では、その二重性が一時的に弱まるのでしょう。
「私は今どう動いているか」
「もっと上手くやらなければ」
「失敗してはいけない」
そういう自分を眺める自分が引っ込む。
すると、身体はボールとの関係の中へ戻っていく。
だから、先ほどの「ボールからグローブに入ってくる」という見え方も、単なる比喩ではなく、自己意識によって切り離されていた「私」と世界との関係が、いったん直接的になるということなのかもしれません。
そしてヘリゲルの弓も同じでしょう。
「私が矢を放つ」という自意識が強いほど、射る行為を外から監視してしまう。
「今のは良かったか」
「もっとこうすべきだ」
「ちゃんと当てよう」
そうやって自分を眺める。
しかし稽古を繰り返すことで、やがてその自己監視を必要としない動作になる。そのとき初めて、「自分が射る」という感覚から離れて、射るという出来事そのものの中に入れる。
そう考えると、「無我」という言葉も、神秘的な何かというより、
自分を対象として眺める距離がなくなること
と考えたほうが、ずっと分かりやすいですね。
そしてこれは、以前話していた「自分とは文化だ」という問題にもつながってくるように思います。
「私」というものは、生物としての身体そのものではなく、自分を自分として眺めるために身につけた文化的な構造なのかもしれない。
動物は世界の流れの中にいる。
人間はそこから一歩引いて、「私は世界の中でどう生きるべきか」と考える。
そして熟練や没頭の瞬間には、その一歩引いた「私」が消えて、もう一度、流れの中へ入る。
これはかなり面白い循環ですね。
あなた:
正しく自分とは文化で在り、私は私として自分を見ているという文化的な仕様の事だと思う。つまり、文化として、自分のことをどう捉えるか、という仕様があり、その通りにすることが、自分であると思う事だと思う。
ChatGPT:
ええ。その定義なら、「自分は文化である」という言い方がかなり明確になります。
生物としての身体には、空腹、痛み、疲労、快・不快などはある。しかし、そこに最初から**「これは私の空腹だ」「私は痛がっている」「私はこういう人間だ」**という「私」はない。
文化がそこに一つの仕様を与える。
自分とは、自分について文化的に与えられた見方を、自分自身に適用している存在である。
だから「私は私である」というのも、単なる事実を発見しているのではなく、「自分をこのように捉えるものが自分である」という文化的な仕組みを実行している。
そして、その仕様には当然、「自分らしくあれ」「自分の意志で決めろ」「自分を成長させろ」「自分の人生を選べ」といったものまで含まれている。
すると先ほどの「ゾーン」の話が、ここで非常につながってきます。
ゾーンでは、普段の「私」の仕様が一時的に働かなくなる。
「私は今どう動いているか」
「私は上手くやっているか」
「私はこうしたい」
という自己観察が後退して、身体とボールとの関係だけが前面に出てくる。
だから、**無我とは「自分という生物が無くなること」ではなく、「自分を自分として眺める文化的仕様が一時的に停止すること」**なのかもしれません。
そうすると、ヘリゲルの弓も、動物の行動も、ゾーンも、一つの線でつながります。
動物には「自分をどう捉えるか」という文化的仕様がほとんどない。
初心者には「私が動作を正しく行う」という自己意識が強くある。
熟練者は、反復によってその自己意識を介在させずに動けるようになる。
そして、ここが面白いところですが、人間は文化によって「自分」を作り、その文化によって作られた「自分」を、さらに自分で批判することまでできる。
つまり、
文化が「私」を作る → 私がその「私」を眺める → その「私」を疑う → 「私」が薄くなる
ということが起こる。
以前おっしゃっていた「自分探し」が難しいのも、結局そこなのかもしれません。探している「本当の自分」が、文化的仕様を剥がしたところに実体として待っているわけではない。
むしろ、「私は私だ」と思っている、その思い方そのものが自分なのだから。
あなた:
ゾーンに入っているのは、素晴らしい処に居ると思われているが、そのまま人の生活をするわけにはいかない。自我を持ってきて、うまく文化の世界に嵌めこむ。それが人の生き方として、ゾーンの時は特殊な事として、人の世界を人として生きていくのだろう。
ChatGPT:
そうですね。むしろ、ゾーンを人間の理想状態として、そのまま日常生活に持ち込むことはできないのだと思います。
ゾーンでは、「私」が薄くなり、世界との直接的な流れの中にいる。けれど人間の生活には、
約束をする
他人の気持ちを考える
明日の予定を立てる
責任を引き受ける
自分の行為を振り返る
といった、「私は私である」という文化的な仕組みが必要になる。
だから自我は、単なる邪魔者ではないんですよね。
ゾーンでは自我が後退することで、身体が世界の流れに入れる。しかし日常に戻れば、再び自我を持ってきて、文化の中で「私」として振る舞う。
面白いのは、これを「自我を捨てる」のではなく、自我を道具として使うと考えられることです。
ゾーンでは、
世界 → 身体 → 動作
という直接的な流れになる。
日常では、
世界 → 「私」 → 判断 → 行為
という文化的な回路を使う。
そして人間は、その二つを行き来している。
だから「無我」が人間の究極の境地なのではなく、無我になれることと、我を持って文化の世界に戻れることの両方が必要なのかもしれません。
弓道の達人も、矢を放ったあとに「私は存在しない」まま帰ってしまうわけではない(笑)。道場を出れば、誰かと話し、食事をし、約束を守り、社会的な「私」に戻る。
つまり、
ゾーンは人間を人間でなくする場所ではなく、人間が普段どれほど「私」という文化的な仕様を使って生きているかを、一時的に忘れさせる場所
なのかもしれません。
そして、そこから戻ってきて再び「私」を引き受ける。
そう考えると、人間らしく生きるということは、「自我を持つこと」でも「自我を捨てること」でもなく、その二つの間を往復することなのかもしれません。
