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noteに綴っていくこれからのこと

「大人」ってなんだろう。
幼いころ、成人式を迎えた人はみなキラキラした大人のように見えていた。
一月の雪の舞う成人式、色鮮やかな着物を着て白いふわふわとしたものを首に巻き、たくさんのお友達に囲まれて楽しそうにこれからの展望を語るきれいなお姉さんを、また、折り目正しい袴に身を包み、あるいはピリッとしたスーツを身にまとったお兄さんを画面越しに見て、わたしも「大人」になりたいと思った。
大人になると、ふだんは子供のころから仲のいい友達たちとは別々の場所で仕事を頑張って、時にはつらく苦しい試練に立ち向かい、どうにか乗り切る。そんな苦難の日々を、久しぶりに再会した古くからの親友たちと「あんなことあったな」なんて笑って語り合う。どんなに離れていても、心の中にはずっとつながりあっている子供のころから変わらない友達の姿がある。そういうものだと思っていた。
だから、今となりにいる友達とは、大人になってもずっと一緒だ。
そう思っていた。

大人になった時、この世界のなにもかもが自由で、自分は何者にでもなれるのだと信じていた。

けれど、現実は大きく違っていた。

わたしが成人式を迎えた二十歳の年。成人式の日の早朝は雪が降っていた。
朝五時過ぎに美容院へ行き、着物レンタルのお店で母と選んだ素敵な着物を着つけてもらった。成人式には地毛で髪を結ってもらいたいと、普段はショートカットにしていた髪を精いっぱい肩まで伸ばした。
写真も撮って、お友達にも会った。
成人式の日の同窓会には、出席しなかった。
地元にいる数少ない友人はみな出席しないと言っていて、地元の友人とほとんど交流がなかったわたしはひとりで顔を出す勇気がなかった。

それ以来「同窓会」というものに、わたしは一度も行ったことがない。
誘いのはがきが来ることもなかった。いや、三十になる年に、あったかもしれない。仕事で行くことはできなかったのだけど。ともかくも、わたしには何十年もの年を経て再会して「あのころ」を懐かしみ語り合うような、そういう知人友人というものがいない。

小学校、中学校とずっと一緒で親友だと思っていた友人とは、いつの間にか連絡が取れなくなってしまった。何をきっかけにしてのことかはわからない。

今は、だれを友達と呼んでいいのかわからない。
みんな「知り合い」としか呼んではいけないような気がしている。
友達だと思うことはおこがましいような気がしている。
知り合い、と、友達、の境界線を図りかねている。
人との距離感をつかむのが苦手で、だから、家族以外の誰かに自分のことを腹を割って話すということができないでいる。
コミュニケーションをとることがいつの間にかとても苦手になってしまった。

職場でも、話すことは他愛のないことばかりだ。
ビジネスライクな人間関係なのだから、それで十分なのかもしれない。

けれどわたしは今、誰かと思う存分に語り合いたい。
誰かと話したい。
他愛のないことから、仕事の悩み、家族との衝突、好きな本のこと、最近見た映画、心から感動したこと、自分の将来への展望と同時に抱える不安、ほかにも、誰かと話してみたいと思うことがたくさんある。
けれど、今のところ、そういうことを思う存分に語れる相手はいないし、
言いたいことをうまく言葉にできないコミュ障なわたしに果たしてそういううことができるのかという自信もない。

だから、この場所でひっそりと語りたいと思う。
子供のころに思い描いていた「大人」に、わたしはなれなかった。
おそらく人生の折り返し地点である年齢をもう過ぎて、でもまだまだ未熟である。精神的にはまだまだ幼い部分があると思う。
そろそろ達観しなくてはいけないと思いつつ、「まだ。まだこれから」と何かを成したいという気持ちも消えない。
そろそろわたしは、自分が何かを成すことをあきらめて、
これからの未来を担っていく若い世代の人たちを応援するためにできることを探っていくフェーズに入っているのだと思う。
そのために力を尽くしたいと思う自分もいる。
ひたむきに挑む若者のキラキラした姿を、これらの自分の人生の糧にしていきたいと願い、実際応援している人たちもいる。
でもそれでも、そんな彼ら、彼女らの姿を見るにつけ、
「わたしだって、まだまだ」と思ってしまうのだ。
なんとあさましいことか。

大人は子供には戻れない。時間を巻き戻すことも、過去に戻ることもできない。
けれど、未来に向かって進むことは誰にでも等しく与えられた権利だ。
愚直に、けれど真剣に、自分の未来についてもう少し期待してもいいだろうか。誰かが笑ってもいいし、そんな情けない姿を見せて恥ずかしくないのかとあきれる人がいてもいい。
こんな何物にもなれなかった欠陥だらけのわたしが、それでも未来に向かって励む姿を、この場所に残していけたらいいと思う。

それが誰かの目に留まって、もしかしたら勇気づけることができるかもしれない。
不惑を過ぎ、生きづらさも抱え、それでも生きている。
そんなわたしのことを、ささやかでも、愚かに見えても、年甲斐もなく子供っぽかったり、見ていられないくらい恥ずかしいことがあったとしても
率直に、逃げずに、まっすぐ目をそらさずにまずは自分がしっかりと受けとめる。そうすることが「大人」である自分の、自分自身に対する責任の取り方であると思うからだ。

間違えることもたくさんあっていい。
後悔することもあるだろう。今だってすでについ先日のことを悶々と考え悔い続ける日々だ。いくつになっても悩みが絶えない。それはきっと多かれ少なかれ誰にだってあることだと思う。

そういう自分をありのままに受け止めて、けれど否定することなく、ただありのままでいいんだと認めること。
人の目を気にするよりもまず、自分の心の目で見て、自分の心が信じる先へ向かう。自分にうそをつかないこと。人に対しても、うそだけはつかない。
信念をもって生きる。

何をもって大人になれるのかはわからない。
わたしは自分を真の意味で大人になれているとは思っていない。
胸を張って「自分は大人だ」と言える日は一生来ないままなのかもしれない。その日が訪れなかったとしても、ただ今目の前の現実を生き抜くだけだ。

そういう積み重ねが、人生なんだと思う。
その小さな積み重ねの日々を、小さく、綴っていけたらいいと思う。

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