考察文化が苦手な理由についての考察
私は昨今の「考察文化」にあまり乗れない。というか正直苦手だ。
ここでいう考察とは、作品に含まれる情報を手がかりに、物語の構造・伏線・設定などについて仮説を立て、一定の解釈に結びつける行為のことだ。
いつ頃からか、特に映画や漫画のレビュー動画やweb記事等において人々の耳目を集めるものの多くは、いわゆるこの「考察系」になったように思う。
その理由について少し考察したい。
まず最初に断っておきたいのは、私は考察そのものを完全に否定したいわけではないということだ。
作品について考えたり、他人の解釈を聞いたりすること自体は、むしろ楽しい。私もそういう記事を読んで「なるほど」と思うことはある。
それでもなお、「考察文化」というものに対してはどうしても居心地の悪さを感じてしまうその理由について、少し整理してみる。
まず仮説として思うのは、考察という行為は、人間のある種の欲望を非常に手っ取り早く満たしてくれるということだ。
それはつまり、「理解して安心したい」という欲望である。
人は基本的に、意味が分からないものや、説明のつかないものに対して不安を感じる。
だから物語の中に謎があると、ついそれを解きたくなる。伏線は回収されるべきだし、曖昧な描写には理由があるはずだと思ってしまう。
そして考察は、その欲望にとても都合がいい。
「このシーンは実は伏線だった」
「このキャラクターは○○の象徴である」
「このラストの意味はこういうことだ」
そう言われると、なんとなく世界が整理された気がする。
作品の中に散らばっていた断片が一本の線でつながり、理解したという満足感が得られる。
しかしその満足感、快楽感は、もはや作品そのものが持つ快楽性とは別の何かなのではないか。
考察動画や記事が人気なのは、単純にそれが知的な娯楽として優れているからでもあるが、それ以上に、スッキリするからなのだと思う。
要するにみんな手っ取り早く気持ち良くなりたいのだ。
しかし、私がどうにも苦手なのは、まさにそのインスタントな気持ちよさである。
むしろ私は、作品を見たあとに残る説明しきれない感触の方が好きだ。
たとえば映画を見ていて、
「このカットが素晴らしい」
と思う瞬間がある。
なぜ良かったのかはうまく言葉にできない。
ただ、カメラの置かれている位置や、俳優の動きや、編集のタイミングそのものが持つ快楽性にグッとくる。
あるいは、ストーリーとしては特に重要ではない場面なのに、妙に印象に残るカットがあったりする。
そういう体験は、しばしば考察では説明できない。
映画や小説や漫画の魅力のかなりの部分は、実は意味ではなく形式に属している。
しかし考察は、どうしてもそれを意味の体系に回収してしまう。
すると、ある種の快楽が失われてしまう。
ここで思い出すのが、スーザン・ソンタグ のエッセイ「反解釈」である。
ソンタグはこの中で、近代の批評が作品を「解釈」することに夢中になりすぎていると批判している。
彼女はこう書く。
解釈とは、芸術を飼い慣らし、従順なものにしてしまうことである。
つまり、解釈は作品を理解可能なものに変換する。
しかしその過程で、作品が持っていた生々しさや感覚的な力を削いでしまうというわけだ。
解釈は時にアートやポップカルチャーを意味の奴隷に成り下がらせる。
考察文化は、しばしば作品を完全に設計された機械のように扱う。
すべての要素には意味があり、伏線があり、回収されるべきだと考える。まるで巨大なパズルを解くように。
もちろん、それを楽しむことを目的とした作品もあるだろう。
だが、すべての作品がそうである必要はない。
むしろ私は、少し歪んでいたり、説明不足だったり、「なんだったんだろうあれ」と思う部分が残る作品の方が好きだ。
そのスッキリしなさこそが、長く心に残るからである。
考察文化の面白さを理解できないわけではないが、個人的には作品のスタイルに宿る魂をこそ愛でられる人間でありたい。
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