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いすゞべレル Ⅳ→ 三奇人の我を創っていった事柄

幼少期からセリカが好きで、
セリカに乗りたい。
昭和45年デビュー。
これは、当蘊蓄話で特集しています。

初代セリカのキャッチコピーは
「未来の国からやってきた車。」
全国新発見キャンペーンは、
「恋はセリカで。」
これまでのクルマとは思えない程、
美しいクルマだった。日本初の
カラーバンパーは新鮮だった。
これは一部オプションだったが。
いまは当たり前だが。。

これまでの美しいクルマ、
「いすゞ117クーペ」よりも
美しいクルマと感じた。
この117クーペは、
殿下。小野寺昭の私用車でした。
太陽にほえろ!で
覆面車としても使われた。
テキサス&ボン時代に。

そんなセリカを売っていて、
成人になれば、社員になれば、
我でも安く買えるかもしれないと
簡単な理由で入社した。

これが、トヨタカローラ京都。
セリカは当時、カローラ店専売車。
単にセリカに乗りたい。
セリカを動かしみたい。
これだけの理由で。

入社して3年目かな。
1985年。昭和60年。
日航機墜落事故の年。
阪神タイガースが日本一になった年。
初めて、組合の手伝いで
阪神甲子園球場に只で行った。
当日の対戦相手は、
太陽にほえろ!チーム。
即ち、大洋ホエールズでした。

前年に円町の本社勤務になり、
営業統括の部署になり、
仕事をしていても、
少しでもおかしいと感じたら
時に、どんな上司にも、
各自の営業所所長にだって、
必ず歯向かう。立ち向かう。
そんな自分がいました。

昔の泣きビスからは
雲泥の差、の我でした。

いま思い出すのは、
営業部次長に対して、
「お前こらあーっ!
 それでも次長かあー!
 よおーわれえ!」
大声で、皆の前で、怒鳴り散らした
ことがあります。
あまりにも頭に来たから、、、。

当時は次長手当は80,000円。
我は、ヒラの社員でした。
ヒラにはなんら手当はおまへん。

相手が誰であろうが、
関係あらへん!
かかって来いやー。
文句あんにゃったら、
買うたるやんけー。

しかし、他にも、
こんな事例もありました。

例えば、客に対しても、、です。
ま、これはちょいと割愛しますが。

このカローラ時代には、
そんな我は、
労働組合の書記長にも推薦さる。
書記長とは、組合役員のナンバー2です。
会社としても、
書記長組合長になれば、
将来の課長級以上を
約束されたようなもんです。

しかし、我は「厭やなあー!?」と、
これが本音。こんな事は
したーないんやあー。

しかしながら、
どんな時でも、
我は我流を押し通す。
同僚や後輩の女子事務員にも。

我は、「無手勝流」を、
ゴリ押しする。

俺の云う事を理解出来ない、
経理課のある課長代理を、
役員に直訴し
辞めさせたこともある。
「あんな奴は不要。
 あれが居るから
 会社の業績は傾くんや!」
役員も、
「そーか。解った。」と。
この時は、一介の主任でした。我は。

ヒラからは昇格するも、
主任手当、たったの3000円でした。
当時産まればかりの長男。
雪印ミルク代12800円でした。
舐めてんのか?会社は。

嫁はんも、
「舐めてんのちゃう?」と。
我の愛妻は怒らしたら、怖いで。
何をしでかすか、解らんでえ。

我も歯止めが効かないんだから。
我以上の、豪気なおんな、なんやから。
だから我は浮気は御法度。
一度でもした事はおまへん。

ばれたら、我も、そうだが、
相手の女は殺人の標的となりんす。

逃げても、逃げても、
どこまでも追いかけて、
息の根を止めにかかります。
そんな我の愛妻です。
だから、オンナは怖いっちゅうねん。

だが、我は、、

この時代から、
カローラ京都の「三奇人」の一人と
噂されていました。

まあ、そんな、
昭和60年から
平成7-8年頃でした。
カローラも、段々と
ジリ貧の販売が続いていきます。

次のV
カローラ京都時代の
奇人ぶり。そして奇人鬼人へ。

まだまだ、
少しだけ、続きます。
もうちょいと、
我慢して読んでください。

1536字

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