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【歴史】梵釈寺と十禅師の謎―平安初期における王権・山林修行・看病の交差点

はじめに

 奈良から長岡京、そして平安京へと遷都が相次いだ8世紀末、近江国滋賀郡の地に一つの寺院が建てられました。北に比叡山を仰ぎ、かつて天智天皇が都を置いた大津の地に隣接するこの寺は、梵釈寺と呼ばれています。『続日本紀』をはじめとする六国史に初めて登場する官立の勅願寺院であり、平安初期の仏教政策を読み解く上で極めて重要な足跡を遺しました。しかし、そこで活動していた僧侶たちの実像や、朝廷がこの地に彼らを配置した真の意図については、なお解き明かされるべき多くの課題が残されています。史料には「清行禅師十人」と記録され、後世において十禅師と称された彼らは、時代の転換期においてどのような役割を担っていたのでしょうか。国家と宗教が交錯する境界に立った僧侶たちの姿を、遺された史料と先行研究から紐解いていきます。


1.先行研究における梵釈寺の評価

 古代日本における仏教政策の転換点を論じる際、梵釈寺の創建は常に大きな注目を集めてきました。この寺の始発について、『続日本紀』延暦5年(786)1月壬子条には「初めて梵釈寺を造る」と短く記されています。さらに『類聚国史』延暦14年(795)9月15日条によると、桓武天皇は真実の教えを弘めるために山水の景勝地を切り開いて禅院を創構し、「清行禅師十人」を置いて三綱をその中に配したと伝えられます。その運営費用として近江国の水田100町、下総国および越前国からそれぞれ50戸の封戸が与えられました。延暦5年(786)に建設が始まり、延暦14年(795)までに伽藍が概ね完成して官寺としての活動を始動させたと解釈するのが妥当でしょう。立地をめぐっては崇福寺跡と見るか近江京跡と見るかで考古学上の議論が続きましたが、近年では崇福寺跡の近隣に位置していたとする見解が有力視されています。
 この官立寺院がどのような意図で建立されたのかという点については、研究者の間で多様な視点が提示されてきました。堅田修氏は、梵釈寺が官立の山林寺院である点に深く注目しました。奈良時代以来、官僧の必須条件とされた山林修行の伝統を踏まえ、国家が主体となって山林修行の道場を開設し、仏教界の革新を担う「清行僧」を積極的に養成しようとした試みであったと評価しています。同じ山系で早くから修行に励んでいた最澄の出現も、こうした朝廷主導の清行僧養成が実を結んだ成果として捉えられました。
 これに対して村尾次郎氏は、建立の目的を異なる角度から解釈しています。延暦14年(795)の勅に見られる「七廟に奉じる」という文言を最重視し、大津京の跡地に近い地理的状況からも、天智天皇の追福とその政治理念の継承が主たる目的であったと論じました。また延暦21年(802)6月の勅を根拠に、桓武天皇の仏教観の根底には「六宗兼学」が存在していたとし、梵釈寺を学問研究に特化した「純粋な学院」とみなしています。同寺が一切経を備えていた事実からも六宗兼学の場であったという指摘には深く頷けるものがありますが、僧侶たちが担っていた実務的な役割を考慮すると、単なる学問所と言い切ることには慎重であるべきでしょう。
 さらに西口順子氏は、延暦7年(788)に撰述された『延暦僧録』長岡天皇菩薩伝に記載される「四天王寺」が、初期の梵釈寺を指している可能性を指摘しました。聖徳太子の四天王寺建立や孝謙天皇による西大寺の造営と同様に、政治的な不安や危機を鎮圧するための加護を四天王と曾祖父たる天智天皇に求めたという見解です。あわせて西口氏は、桓武天皇と密接な関係を持ち、のちに「検校」に任じられた等定という僧侶の働きによって一切経が整備され、官大寺としての実体が形成された過程を明らかにしました。
 このように、先行研究は山林修行の場、天智天皇の追福、さらには国家鎮護の祈禱所といった多面的な意義を解明してきました。しかし、そこで採用された「清行禅師十人」すなわち十禅師が、具体的にどのような実務や職掌を担っていたのかという点については、なお曖昧な部分が残されています。法令等で称される「清浄」という資質の具体的な中身を解き明かすことこそが、次なる議論の鍵となります。

2.梵釈寺十禅師の職掌

 前章では梵釈寺の創建や歴史的評価について先行研究を紐解いてきました。そうした背景を踏まえたうえで、次に重要となるのが、同寺に配された「清行禅師十人」すなわち梵釈寺十禅師が、実質的にどのような職務や役割を担っていたのかという実態の解明です。この問題を明らかにするためには、梵釈寺のみならず、宝亀3年(772)に誕生した十禅師制度や、のちの内供奉十禅師、さらには他寺院における十禅師のあり方との比較検討が欠かせません。
 古代仏教史において、禅師の役割をめぐる研究は大きく二つの流れに分けることができます。一つは地方や民間の仏教の広がりから十禅師の成立を捉える視点であり、もう一つは天皇に密接に仕える内供奉十禅師との関係からその職掌を捉える視点です。前者の代表例として井上光貞氏は、光仁天皇や桓武天皇の時代における仏教統制と徳行僧の賞揚、山林修行への評価の高まりに着目し、朝廷が官寺の大僧ではなく市井で徳の高い修行者を十禅師に抜擢したと指摘しました。また舟ヶ崎正孝氏は、天平期の官製禅師と宝亀年間の禅師を比較し、地方で実践的な修行を行う僧侶の増大を背景に、政府が行基流の規範的仏行僧を公認・組織化したものが宝亀3年(772)の十禅師であると論じています。根井静氏や船岡誠氏も同様に、道鏡政権下で抑制されていた山林修行者の験力(看病や呪術、罪滅ぼしの力)を評価し、国家が取り込んでいった過程として十禅師を位置づけました。
 一方で、彼らの具体的な役割を内供奉十禅師の成立過程から紐解こうとする研究も盛んに行われてきました。小山田和夫氏は、正倉院文書に見える「内供奉」の記述などを根拠に、元来別々に存在していた「内供奉」と「十禅師」が宝亀3年(772)から最澄が補任される延暦16年(797)までの間に合体したと主張しました。これに対し本郷真紹氏は、古代の正倉院史料に登場する内供奉を俗官とみて合体説を否定し、最澄が唐の制度を導入したことで帰国後に内供奉十禅師が成立したと説明します。本郷氏の解釈によれば、初期の十禅師は普段は地方の山林などで修行を重ね、天皇の病気などの緊急時に召還されて看病に従事する存在でした。垣内和孝氏もまた、僧綱と看病禅師の混乱を避けるための制度化という観点から、看病や護持の機能を重視しています。
 これらの説を精査したとき、宝亀3年(772)に始まる十禅師が宮廷への常住者ではなく、普段は地方の拠点に身を置きつつ看病を主要な職掌としていたという本郷氏の解釈は極めて説得力を持ちます。実際、『類聚三代格』宝亀3年(772)3月21日太政官符を参照すると、十禅師に対して国司が正税や米穎をその居住地に配送するよう命じられており、彼らが都に常駐していなかった事実が裏付けられます。延暦16年(797)に入唐前の最澄が十禅師に任じられた際も比叡山を拠点としていたことや、中国の唐における内供奉僧も所住の寺院を持っていたという知見からも、この実態が裏付けられます。
 こうした前提を踏まえると、梵釈寺十禅師の主な職掌もまた、天皇や王権に対する看病や延命の祈禱であったと考えられます。その何よりの証拠として挙げられるのが、実際の病に際して行われた儀礼の記録です。『続日本後紀』嘉祥3年(850)2月甲寅条によると、仁明天皇の病状が深刻化した際、四方の寺院で読経が行われるとともに、近江国に対して殺生が禁じられました。その禁止の理由として「梵釈寺において延命法を修するが故なり」と明記されており、同寺が天皇の延命を祈祷する極めて重要な拠点であったことが分かります。さらに同条には御簾の外に「僧綱十禅師」らを召して加持を行わせたという記述も残されています。
 また、他寺院における十禅師の事例もこうした見解を力強く後押ししてくれます。『類聚三代格』貞観18年(876)3月4日太政官符に記録された延暦寺西塔院の例では、8人の僧侶に禅師の号が与えられており、彼らが「聖主のために丁寧に勤修する」ことを自らの務めとして申し出ている様子が伺えます。この記述からも明らかなように、単に特定の寺院にとどまらず、古代における十禅師一般の根幹をなす職掌とは、天皇の息息や病気回復を祈る看病・加持にありました。したがって、梵釈寺に置かれた十禅師もまた、日々の修行によって培われた霊的な力を背景に、王権の守護と看病を担うために組織された専門家集団であったと結論づけることができます。

3.梵釈寺の別当と初代寺主

 梵釈寺で活動した僧侶たちの職掌が看病や加持にあったことを確認したうえで、次に解決すべき問題は、この寺の運営を担った最高責任者たちの系譜です。これまでの先行研究において、梵釈寺の歴代「住持」あるいは「別当」を誰とするかについては、研究者の間で多様な説が提示され、議論が対立してきました。
 研究史を振り返ると、村尾次郎氏は同寺の初代住持を等定とし、第二代に常騰、第三代に善謝、第四代に永忠をあてはめました。これに対して佐久間竜氏は村尾説を修正し、初代を施暁、二代目を常騰、三代目を永忠と想定しています。さらに牧伸行氏は彼らの役職を「住持」ではなく統括者である「別当」と捉え直し、初代別当に施暁、二代目に等定、三代目に常騰、四代目に永忠を配する説を打ち出しました。
 これらの先行説を精査するにあたり、まず検討を要するのが村尾氏の挙げる第三代住持の善謝です。村尾氏は『日本後紀』延暦23年(804)5月辛卯条の卒伝に見える「梵福山中に終わる」という記述を根拠に、これを梵釈寺と崇福寺を合わせた表現と解釈して善謝を住持に挙げました。しかし佐久間氏が説得力をもって指摘した通り、この記述に登場する「梵福」とは、江戸時代の地誌『大和志』添上郡の条に記される大和国の梵福寺を指していると見るのが正解です。したがって、善謝を梵釈寺の運営者から除外するのが妥当な判断となります。
 善謝を除外したうえで、残る施暁、等定、常騰、永忠という四人の僧侶についてその実態を紐解いていく必要があります。寺院の管理職である別当の補任関係をたどるうえで重要な史料となるのが、『日本紀略』延暦22年(803)10月29日条です。そこには「梵釈寺別当常騰、兼ねて崇福寺を検校するに加う」と記されており、官職としての「検校」が別当の職務と同義であった事実が分かります。この史料的根拠に基づけば、同じく『日本後紀』延暦18年(799)12月庚寅条で僧綱を辞任した等定に対し、「休息の間、時に検校を加う」と命じられていることから、延暦18年(799)以降は等定が梵釈寺の別当を務めていたと判断できます。そして延暦22年(803)以降は常騰が崇福寺と兼ねる形で別当の職に就きました。
 永忠については、鎌倉時代に編纂された歴史書『元亨釈書』に「桓武帝、勅して梵釈寺に主たらしむ」との記載が見られます。この「主」という表記が単なる寺主(三綱の一)を示すのか、それより上位の別当を意味するのかは精査を要しますが、注目すべきは『日本後紀』弘仁2年(811)4月条の記録です。嵯峨天皇が近江の唐崎へ行幸した際、大僧都であった永忠は崇福寺の前で護命とともに出迎え、さらに梵釈寺においても天皇に茶を献じました。二つの寺において中心的な立場として天皇を奏迎している事実から、永忠も常騰と同様に、崇福寺と梵釈寺の両方を統括する別当であったと解釈するのが極めて自然です。これにより、別当の継承順序としては「等定―常騰―永忠」という流れが確定します。
 では、牧氏や佐久間氏が初代の別当または住持とみなした施暁は、どのように位置づけられるべきでしょうか。施暁と梵釈寺との直接の関わりを示す史料は、江戸時代初期に作成された『本朝高僧伝』に「延暦5年(786)春、桓武皇帝、梵釈寺を江州に創す。勅して暁に住持せしむ」とある程度に限られています。しかし、平安初期の『類聚国史』延暦12年(793)1月庚午条に引く施暁の申文を詳しく分析すると、彼の真の立場が見えてきます。
 施暁はその申文の中で「真理に二無く、帝道もまた一なり」と述べ、国家の防衛と仏法の弘通が表裏一体であることを主張しました。その上で「山林において道を求め、あるいは松柏の陰において禅を思う」修行僧たちが飢餓に苦しんでいる現状を訴え、彼らに対して「本寺」から食料を給付するよう願出を行っています。さらに山城国の秦氏関係者と見られる女性たちの得度を個人的に請願して許可を得ており、彼が朝廷に対して直接的な影響力を持ち得る高い地位にあったことが分かります。
 僧侶の経歴を記した『僧綱補任』によると、施暁は「行基菩薩の孫弟子」であり、「光信大徳の弟子」でした。師である光信は宝亀3年(772)に設置された初代十禅師の一人であり、施暁もまたその師から十禅師の役割を引き継いだ存在と考えられます。ここで見過ごせないのは、宝亀3年(772)の十禅師に対しては『類聚三代格』同年3月21日太政官符によって、すでに国司からの正税給付が制度化されていた点です。にもかかわらず施暁が延暦12年(793)にわざわざ給付を訴えたのは、彼が宝亀3年(772)の旧十禅師としてではなく、新たに創建されつつあった梵釈寺十禅師の代表として申し出を行ったためと解釈できます。
 また古代の寺院規定において、十禅師と別当という二つの役職は厳格に分離されていました。例えば『類聚三代格』に収められた承和14年(847)閏3月8日太政官符には、十禅師と別当が衝突した結果、「今より以後、永く別当と十禅師の倶理を停止せよ」と命じられた記録が遺されています。十禅師の使命はあくまで清浄な修行環境を保ち、国家のために加護を祈ることにあり、行政的な寺務を司る別当とは明確に区別されていました。十禅師に所属する僧が補任され得たのは、事務方である三綱(上座・寺主・都維那)の中の「寺主」でした。
 以上の史料的根拠を統合すると、施暁は別当に就任したのではなく、完成を間近に控えた梵釈寺の初代「寺主」として着任していたと結論づけられます。つまり、梵釈寺の初期における統括組織は、初代寺主たる施暁が実務を支え、延暦18年(799)以降に等定、常騰、永忠という僧綱層が「別当」として全体を統括するという二重の構造によって成り立っていたのです。延暦12年(793)における施暁の直訴は、まさに新設される官立山林寺院の初代寺主として、所属する十禅師たちの生活基盤を固めようとする切実な行動であったといえます。

4.梵釈寺十禅師と本寺

 前章で述べたように、梵釈寺の初代寺主は施暁という人物でした。この草創期における事実が確立されたとき、次に照射されるべきは、『類聚国史』延暦12年(793)正月庚午条に記録された施暁の申文が示唆する「僧侶たちの帰属問題」です。申文の中で施暁は、過酷な環境で修行に励む山林修行者の窮状を救うため、「伏して望むらくは、本寺の供をもって、彼の住処に給せんことを」と訴え出ていました。この一言は、梵釈寺で活動していた十禅師たちが、梵釈寺とは別に自らの僧籍を登録している「本寺」を所有していたという動かしがたい事実を示しています。ここでの本寺とは、僧侶が公式な身分を保持し、経済的・制度的な後ろ楯を得ていた母体となる寺院を指しています。
 こうした「本寺」と「別院や修行地」に分かれる二重の拠点は、古代における山林寺院や王権直轄の特殊な寺院において広く見られた構造でした。この実態を読み解く上で極めて重要な比較対象となるのが、平安京の初期に整備された常住寺、通称「野寺」の存在です。常住寺は、東寺や西寺の建設が本格化する以前の延暦5年(786)頃、新都の構想に伴って真っ先に設置された寺院であり、国家的な法要である国忌が執り行われる主要な舞台でした。この寺院の立地や成立には、山城国に根を張っていた渡来系氏族の秦氏が深く関与しており、彼らの氏寺であった蜂岡寺の基盤を改築して国家的な官寺へと再編したと考えられています。正史や後世の説話においても、この常住寺と近江の梵釈寺との間には少なからぬ歴史的共通性が認められます。
 常住寺においても十禅師の制度が導入されており、彼らが特定の「本寺」に所属していた事実が当時の法令や史料から確認できます。例えば『類聚三代格』承和14年(847)閏3月8日太政官符には、常住寺の十禅師である願修らが提出した申状が残されています。その中で彼らは「天長年中に特におのおのの大寺の僧を簡びて始めて十禅師を置く」と述べており、天長年間(824〜834)に常住寺へ配された十禅師たちが、あらかじめ既存の「大寺」で修行していた僧侶の中から抜擢された人々であったことを伝えています。
 また、国家の儀式や管理規定を集大成した『延喜玄蕃式』の「常住寺供養」に関する項目にも、極めて興味深い規定が遺されています。そこには「常住寺の十禅師並びに従沙弥・童子等の供養者、威儀師一人専らその事に当たり、各々本寺をして毎月運送せしむ」と記載されています。この記述は、常住寺で祈禱や管理に携わる十禅師たちの日常的な食料や物資が、彼らが本来所属している「本寺」から毎月送られていたという給与補給の仕組みを如実に示しています。
 こうした史料状況を踏まえ、堀裕氏は古代寺院における僧籍のあり方について重要な知見を提示しました。堀氏は、遷都直後の比叡山延暦寺においてさえ、僧侶たちが即座に延暦寺を本寺としたわけではなく、まず南都(奈良)の大寺院に僧籍を置いたまま活動していた事実を『平安遺文』所収の史料などから明らかにしました。その上で堀氏は、常住寺の十禅師たちが所属していた「諸大寺」もまた、南都の七大寺をはじめとする伝統的な大寺院であった可能性の高さを指摘しています。
 常住寺が南都の諸大寺を本寺とする僧侶たちによって支えられていたというこの見解を受け入れるならば、梵釈寺における十禅師たちの実態も自ずと明瞭になります。すなわち、比叡山と連なる山麓の梵釈寺に集められた「清行禅師十人」もまた、南都の伝統的な大寺院に本寺を持ちつつ、王権の病気平癒や看病、さらには国家鎮護の祈禱を修するために派遣された山林修行僧たちであったと判断できます。初代寺主を務めた施暁自身も秦氏関係者との繋がりを持ち、南都の伝統仏教の文脈と地方の山林修行の現場を結ぶ存在でした。桓武天皇による都の移転と官立山林寺院の創設は、旧来の南都仏教を単に排除・遠ざけるための施策ではなく、南都が蓄積してきた学問的知見や宗教的威信を吸収・再編し、天皇を中心とする新たな国家防衛と加持の体制へと昇華させる試みであったと位置づけられます。

おわりに

 古の近江滋賀郡の地に建立された梵釈寺は、長い歴史の波に洗われ、今ではその遺構を現地に残すばかりとなっています。しかし、『続日本紀』や『類聚国史』といった古代の古記録に刻まれた言葉を追っていくと、そこには単なる政治的制度の枠組みを超えた、僧侶たちの姿と試行錯誤の軌跡が確かに息づいています。地方の山地で修行に打ち込んだ禅師たちが、その験力を期待されて都や勅願寺へと召し出され、あるいは天皇の不慮の病に際して御簾の近くで加持祈禱を修した日々。彼らは南都の伝統仏教の学問を受け継ぎながらも、権力の中枢と山林との狭間を生き、国家の安寧と自らの解脱という二つの主題に向き合い続けました。
 一枚の古い申文や太政官符の短い一言の行間には、平安初期という激動の時代を生き抜いた古代人たちの切実な息遣いが、今も脈々と響き渡っています。

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