見出し画像

【歴史】薬子の変と平城太上天皇の変-呼称をめぐる論争

はじめに

 ここ数年、日本史の教科書で「薬子の変」が姿を消そうとしています。なにも扱われなくなるわけではなく、名前が「平城太上天皇の変」に変わっているのです。名前が変わっただけで、変の経過は何も変わっていないので、あまり注目されていませんが、じつは昔から論争のある政変なのです。


1、「薬子の変」とは

 まずは変の概要から振り返ってみます。『詳説日本史』(山川出版社、2019年)を引用すると、「嵯峨天皇は、即位ののち810(弘仁元)年に、平城京に再遷都しようとする兄の平城太上天皇と対立し、「二所朝廷」と呼ばれる政治的混乱が生じた。結局、嵯峨天皇側が迅速に兵を展開して勝利し、太上天皇はみずから出家し、その寵愛を受けた藤原薬子は自殺、薬子の兄藤原仲成は射殺された(平城太上天皇の変、薬子の変ともいう)」と書かれており、反乱をおこしたのが平城太上天皇であったように書かれています。ですが、藤原薬子・仲成がどのようにかかわってきたのかが、いまいちよくわかりません。
 では、昔の教科書にはどう書かれているでしょうか。1988年発行の『詳説日本史』には以下のように描かれています。

「嵯峨天皇が即位したとき、平城上皇は寵愛する藤原薬子の言に動かされて天皇と対立したので、天皇は兵をだして薬子を自殺させた(薬子の変)。」

 わかるでしょうか。結果は変わりませんが、この変は、あくまでも薬子が主体で、平城太上天皇はそれに動かされた人物であるように書かれています。ここに問題のポイントがあります。つまり、変の主体が薬子か平城かで名称が変わっているのです。ここまで原因が変わる事柄もめずらしいです。では、なぜこのようなことになったのでしょうか。

2、変の主体者はだれか

 1960年代まで、研究者のなかでは「薬子主体説」が主流でした。目崎徳衛氏は、「平城朝の諸政策が初期の嵯峨朝にも大部分が継承されているため、薬子の変の原因は、平城退位後の仲成・薬子の挙動が大きな比重を占める」と述べられ、薬子らが権力を奪還するための挙兵であったことを示しています。また佐伯有清氏は、「平城即位後、神野親王(後の嵯峨天皇)が皇太弟となったのは、桓武の遺言による。しかし、平城は阿保親王(平城の子)を皇太子に立てたいと思っていた。神野親王を廃太子する計画をたてたが失敗し、二人の兄弟の不和と官人層の対立を背景に、嵯峨の重病が直接の契機になり平城側が蜂起した」と述べられ、平城と嵯峨が皇位継承をめぐって不仲となり、それに薬子と仲成が便乗して反乱を起こしたと示されました。
 一方、1970年代に入ると、これに対するアンチテーゼとして「平城主体説」が登場します。北山茂夫氏は「平城の退位はもっぱら病気によるもので、玉座に未練があった。平城再起の企ては、薬子・仲成の野望に端を発しているところが多いが、上皇の決断に全てかかっている。『日本後紀』は、平城と嵯峨の紛争を全て薬子・仲成の罪状に帰して、あくまで上皇の立場を擁護している」と述べられ、病気で引退した後に快復し、皇位に戻りたくなった平城が主体だとされました。また、橋本義彦氏は「平城京への再遷都(還都)は、薬子・仲成の父種継の事業(平城京を廃都し、長岡京へ遷都をしたこと)を否定するものであり、父の功業を無にしてまで平城京に再遷都する理由はない」と述べられ、平城京への再遷都は、薬子・仲成の父・藤原種継の業績「長岡京遷都」を無視するものであり、薬子・仲成は主体的に変を実行しないと述べられました。
 この1970年代に深まった研究が、現在、多くの歴史学者の間で納得されている説なのです。どちらにも理があるように思いますが、多角的に考察した「平城主体説」に興味深さを感じます。これがもととなって、教科書の記述も変化しているのです。

3、近年の反論

 しかし、近年、「平城主体説」対する反論が出てきており、「薬子主体説」が再び脚光を浴びるようになりました。
 瀧浪貞子氏は、橋本氏の説に反論し、「桓武は、種継が中心となって造営した長岡京を棄てて平安京に遷都したが、これは父種継の努力を無にする行為で、薬子・仲成にとって平安京は否定すべき存在」と述べられ、平安京こそ、薬子らが否定すべきもので、それを意図的に実行するのは薬子兄妹であると示されました。
 また、西本昌弘氏は、「平城は譲位を後悔し、嵯峨との対立を深めた。平城の主体性は否定できないが、種継の復権・顕彰が図られたことや薬子・仲成の係累が長く赦されなかったことから、薬子・仲成が中心的な役割を果たした」と述べられ、平城の関与も認める一方、あくまでも中心的役割は薬子・仲成であると示されました。
 当時の史料『日本後紀』や後にまとめられた『日本紀略』を見てみると、面白い記事が見えます。『日本紀略』弘仁14年(823)4月16日の記事を見ると、嵯峨天皇が弟の大伴親王(後の淳和天皇)に譲位する際の記事に、かつての譲位の例について触れている部分があります。その記事を見てみると、「嵯峨が即位後すぐに病気となり、癒えないため、嵯峨が退位の意向を示したが、平城はこれを許可しなかった」と書かれているのです。
 嵯峨の病気は、同じく『日本後紀』に記されています。その病気が嵯峨を襲ったのは、何と、変が起きる直前の大同5年(弘仁元年〔810〕)7月19日のことだったのです(政変の発生は同年9月6日)。つまり、少なくとも、変の直前まで平城は再び皇位につく意思はなく、嵯峨が続投することを希望していたことがわかるのです。人の心は変わりやすいですが、1か月で180度の方針転換をするためには、やはり誰かの差し金であると考えざるを得ません。そう、薬子と仲成です。こういったことから、変の主体は薬子と仲成にあったと述べられ、近年では有力な反証とされています。

4、嵯峨天皇主体説

 しかし、ここ数年で新たな説が唱えられました。春名宏昭氏は「嵯峨天皇の政権が平城太上天皇の専制的な国政運営を押し止めるために起こしたクーデター。嵯峨政権としては、自分たちが悪者になるわけにはいかないのでどうしても代わりの悪役がいる。そこで薬子と仲成が悪の張本人に祭り上げられた」と述べられ、「嵯峨陰謀説」を唱えられました。
 当初、春名説は異色の説と映っていました。しかし、詳らかに調べると、必ずしも荒唐無稽とは言えないように感じます。目崎徳衛氏は、「平城朝の諸政策が初期の嵯峨朝にも大部分が継承されている」と述べられていますが、必ずしもそうは言えない点も多数あります。
 平城の政策は、いわゆる「律令回帰政策」で、『養老令』の規定を厳密に順守するという性格があります。例えば、調庸の麁悪・違期・未進といった問題においても、大同2年(807)に、不足分の補填を必ず行い、これらの違反を行ったものは、律条により厳しく罰する旨の太政官符が出されており(『貞観交替式』大同2年12月29日太政官符)、出挙の利率も、父の桓武の時に3割に低減させたものを、平城は律条のとおり5割にするよう命じています(『類聚三代格』弘仁元年(810)9月23日太政官符所引)。こういった点からも、必ずしも、平城政権と嵯峨政権で一貫したものとは言えません。
 また、前出した『類聚三代格』弘仁元年(810)9月23日太政官符をみてみると、出挙利率を3割から5割に引き上げたことで、民衆の困窮が一層進行し、自存することができなくなったため、やはり「3割に戻すように」との命令が出されています。こういったことを見たとき、平城政権の「律令回帰政策」は非常に無理が生じていたことが考えられ、こういった不満が平城政権への批判へとつながったとも考えられます。

5、『日本後紀』の恣意性

 決定的なのは、『日本後紀』の「踰年改元」に関する批判です。踰年改元とは、先帝が崩御したのち、年号を新たに定めるときは、「年を踰えて=年を越えて」から改元するという、中国の故事によるものです。平城は、父の桓武が崩御したのちに即位しますが、その2か月後には、年を越えていないにもかかわらず、元号を「延暦」から「大同」に変えています。『日本後紀』は、この出来事を「礼に欠く行為である」として、平城の行為を厳しく批判しています。天皇を批判するなど、国史の態度としては極めて珍しいものであるといえます。
 しかし、踰年改元はそこまで一般的なものだったのでしょうか。わが国において、連続的な元号が定められたのが「大宝」からです(大宝元年=701)。ここを起点に踰年改元の例を見てみると、なんと、そもそも、天皇の崩御に対しての即位は、奈良時代末の称徳天皇から光仁天皇の一例しかありません。つまり、踰年改元という仕組み自体が、わが国では全く行われていなかったのです。しかも、光仁天皇が、称徳天皇の年号である「神護景雲」を「宝亀」に改めた際は、踰年改元をしていません。そればかりか、平城同様、即位後わずか2か月で改元をしています。おそらく平城の改元は、祖父のこの例に倣ったに過ぎないと考えられます。
 また、その後を見てみても、天皇崩御から新天皇の新元号制定の例は数えるほどしかなく、平城ののちの直近例でも、光孝天皇から宇多天皇に代わる時です。その際も、なんと光孝崩御の2か月後に宇多が新元号を制定しています(仁和から寛平)。これもおそらく、光仁・平城の例を踏襲しているのではないかと思われます。
 このようなことを考えると、『日本後紀』の踰年改元対する批判は、平城を貶める意図で書かれたと考えることもできます。
 したがって、春名氏の「嵯峨陰謀説」は、必ずしも成立しないわけではありません。民衆の平城に対する不満、これに対する次期政権(=嵯峨)への官人の期待を考えれば、むしろありえた話ではないかと考えます。

おわりに

 こういったことを総体的に考えるならば、
 (1) 平城の政策は、平城の主体的な意図を感じることができる。
 (2)平城の病気平癒後、復位を望む思いがあったとも考えられるが、『日本後紀』の記事や平安京の廃都を考えると、薬子・仲成の主体性は否定できない。
 (3) 他方、平城政権に対する批判が、政権内部にあったため、薬子や仲成の主体性を嵯峨が利用して変を起こし、平城政権を排除した。
 このように考えます。つまり、「平城太上天皇の変」の呼称は本質的な呼称とはいえないと考えられないでしょうか。とはいえ、「薬子の変」も、全体の一部しかとらえられていないように感じますので、「弘仁の変」などの中立的な呼称がもっとも望ましいのではないでしょうか。

参考文献

  • 北山茂夫「平城上皇の変についての一考察」(北山『続万葉の世紀』、東京大学出版会、1975年)

  • 佐伯有清「新撰姓氏録編纂の時代的背景」(佐伯『新撰姓氏録の研究』研究編、吉川弘文館、1980年)

  • 佐藤信「平城太上天皇の変」(佐藤編『古代史講義【戦乱編】』〔ちくま新書〕、筑摩書房、2019年)

  • 瀧浪貞子「薬子の変と上皇別宮の出現‐後院の系譜(その一)‐」(瀧浪『日本古代宮廷社会の研究』、思文閣出版、1991年)

  • 瀧浪貞子「薬子の変」(同前)

  • 長山泰孝『律令負担体系の研究』、塙書房、1976年

  • 西本昌弘「薬子の変とその背景」(『律令国家転換期の王権と都市』〔国立歴史民俗博物館研究報告134〕、2007年)

  • 橋本義彦「“薬子の変”私考」(土田直鎮先生還暦記念会編『奈良平安時代史論集』下巻、吉川弘文館、1984年)

  • 春名宏昭『平城天皇』(人物叢書256)、吉川弘文館、2009年

  • 藤井貴之「平安前期における地方財政の環境と政策」(『続日本紀研究』第428号、2022年)

  • 目崎徳衛「平城朝の政治史的考察」(目崎『平安文化史論』、桜楓社、1968年)

  • 吉川真司『聖武天皇と仏都平城京』(天皇の歴史2)、講談社、2011年

いいなと思ったら応援しよう!