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吉田山の麓にあった吉田学寮

↑国土地理院 USA-R275-A-7-55 1946/10/02(昭21)

 吉田寮ではなく吉田学寮という。以前、台湾からの留学生に向けて開かれた光華寮が北白川にあったという記事を書いた。同様に、戦時中は京大の留学生向けの寮が他にも近くにあったという話をしたい。

吉田学寮の場所

 1940(昭和15)年12月に定員20名の寮として開設された[1]。1946(昭和21)年2月1日、中国寮と呼ばれた全国の留学生向けの寮は、満・蒙・中国留日学生補導団体の解散後、外務省の外郭団体である国際学友会に引き継がれた[2]。その一つに京都市の「吉田学寮」があった[2]。

 番地は左京区吉田本町13であり、本部キャンパスのすぐ隣だ。

立命館オーバレイマップ 昭和26年京都市明細図(総合資料館版)

 確かに、地図に「吉田学寮」とみえる。

参考:
[1] 川崎真美 石田一郎氏所蔵文書にみる中国人留学生受け入れの実態-日華協会を中心に 中国研究月報第68巻第10号(2014.10)
[2] ⽥中 剛. ⽇本敗戦前後の中国⼈留⽇学⽣政策 -汪精衛政権‧「満洲国」‧「蒙疆政権」. ⻑江流域社会の歴史景観 : 京都⼤学⼈⽂科学研究所附属現代中国研究センター研究報告. 2013, 252.

戦後の吉田学寮

 国際学友会理事が残した本に吉田学寮の記載がある[3]。

本会について云えば、京都に二十五名位収容できる寮を二つ、山口経済専門学校に行くものについて、一つの寮を経営することとなった。

思い出すことなど 金沢謹 著 国際学友会 1973年 p.83

 京都の寮の二つのうち一つは、日本人学生に多額の立ち退き料を支払ったり、家財道具を何とかそろえて準備している[3]。

 1945(昭和20)年ごろ、京都の日華協会関係の寮として京都寮、吉田学寮、光華寮、一徳寮があった[3]。

参考:
[3] 思い出すことなど 金沢謹 著 国際学友会 1973年 p.103

末本徹夫

 戦後は京都市議会議員の末本徹夫が住んでいた。1951(昭和26)年頃の京都年鑑では、住所が吉田本町13の吉田学寮となっている。

自身の問題として地域で取り組んだ 故・末本徹夫さん(元京都市議)
朝鮮新報(日本語版)2000年5月1日

 出身は愛媛県丹原町。金沢の旧制四高在学時は漕艇部の友人が琵琶湖で遭難した経験があり、後に朝鮮問題にかかわっていったきっかけだ[4]。この友人は南嵩といい、朝鮮黄海道沙里院邑駒泉里出身で享年19歳[4]。ボートでの遭難は「琵琶湖哀歌」として琵琶湖周遊の歌と同じメロディで寮歌が残されている。末本は、旧制四高では全寮委員長もしており、朝鮮からの留学生らとの独立運動の勉強会に参加している[4]。
 西田哲学に憧れて志した京大文学部哲学科への入学は1942(昭和17)年10月のことだ[5]。在学中に召集されて中国大陸とラバウルなど南方の激戦地で死線をくぐる。その際、軍隊内で部落民や朝鮮民への差別に直面する[4]。
 復学後は法学部にうつり地方自治・行政を学びながら学生自治組織である京大同学会を再建し、1946(昭和21)年12月4日、再建初委員長になる[4]。

京大の歴史はレジスタンスの歴史であり、絶対主義的封建勢力に対するはげしい闘いの歴史であった

末本徹夫 朝鮮と私 平和・人権・住民自治を求めて マイブック社 1999年10月15日

同学会いよいよ動く
(中略)この度その完成をみて十日法経第一教室において初の学生大会を開催、新規約の発表、会計報告、事業報告を行い、いよいよ実際的な運動にうつることにあった。
 この新規約のポイントは従来の会長を総長がしめていたのであるが、これを同学会委員長がしめることになったのであって、他学園でいまだ行われない学生の手による民主化の一歩を開いたわけである

1946(昭和21)年12月11日 學園新聞 第23号
旧字体と旧仮名遣いは現代ぽく修正

 ちなみに、在学中に雛子夫人と結婚している。法学部三回生で1947(昭和22)年4月の第1回統一地方選挙に立候補し当選[4]。山中錦造とならんで全国で初めての学生市会議員となる[4]。
 公職選挙法で被選挙権が得られるのは満25歳以上と規定されるのは1950年(昭和25年)のことだ。社会党に所属し朝鮮学校の認可や住民自治を推進していた。1991(平成3)年6月に現職を退く。2000年1月26日、80歳で永眠。

参考:
[4] 末本徹夫 朝鮮と私 平和・人権・住民自治を求めて マイブック社 1999年10月15日
[5] 京都帝国大学一覧 昭和17年度 京都帝国大学 編 京都帝国大学 昭和15-18年 p. 17

府引揚者住宅東一条寮

 1944(昭和19)年7月時点では、趙容端という人物が吉田本町の吉田学寮に住んでいた[6]。1951(昭和26)年8月には、吉田本町13は黄学或と黄越之という人物の住所となっている[7]。

 この東一条寮について調べると、引揚者向けの住宅だった。全国的に住宅が不足し、引揚者達は各地で何とかして住む場所を確保していた時代だ。前後して1951(昭和26)年5月1日、府引揚者住宅の東一条寮が近所の吉田本町16に開設される[8]。京都府の引揚者住宅の事業の一環として、南方や満州からの引揚者向けの住宅が各地に造られていた。1954(昭和29)年、吉田本町13は東一条寮別館として医師の伊藤昌周の住所として記録がある[9]。確かに1943(昭和18)年に台北帝国大学医学部に在籍しており、台湾からの引揚者の一人とみられる[10]。
 類推するに、留学生帰国後もしくは卒業後、吉田学寮は引揚者者向け住宅の1つに利用されていたとみえる。

参考:
[6] 物理化学の進歩 18(3/4)(82) 日本物理化学研究会 1944-07
[7] 官報7375号 1951年08月09日 大蔵省印刷局 [編] 日本マイクロ写真 昭和26年 p. 182
[8] 京都府百年の年表 4 (社会編) 京都府立総合資料館 編 京都府 1971年 p. 276
[9] 内科宝函 1(1) 内科宝函刊行会 [編] 内科宝函刊行会 1954-09
[10] 台北帝国大学一覧 昭和18年 台北帝国大学 編 台北帝国大学 和16-19年 p. 288

名称

 近衛通にある、最古の自治寮である吉田寮と名前が紛らわしい。1952年の宇治寮、1954年の女子寮開設に伴って区別の必要が生じるまでは、吉田寮は単に「京大寄宿舎」「寄宿舎」などと呼ばれていた。本項で取り上げた戦時中にあった吉田学寮が、後年の資料で混同されている記述がないか注意したい。

まとめ

 戦前、吉田本町の本部キャンパスのすぐ東隣に吉田学寮という留学生向けの寮があった。戦後の光華寮と同様に、留学生たちが自由に使っていた時期があったかもしれない。
 また、同様に一徳寮や北白川に京都寮という寮もあったらしいが、こちらは詳細が分からなかった。吉田学寮もふくめ、光華寮のように領有問題が生じなかった背景も今後調べてみたい。

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