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『The Key of David(ダビデの鍵)─日出づる国─』【第2部】使徒─目覚めし者たち

あらすじ
崩壊した東京の瓦礫の中で、一人の青年が目を覚ました。研修医・榊悠真。彼の脳は量子AI〈レムノス〉と共鳴し、人類の記憶と祈りをすべて統合する「鍵」——Y-UMAとして覚醒しつつあった。
視力も声も失い、車椅子に座る幼なじみの澪を抱え、悠真は病院を出る。
元傭兵の名嘉、看護師の麗、神職の末裔・遥、山伏の道心、皇太子・和真、内親王・綾子——それぞれの痛みと使命を背負った「使徒たち」が、導かれるように集まってくる。
彼らが向かう先は皇居、そして青森・戸来村。日本とイスラエル、聖書とヤマトをつなぐ「隠された血脈」の謎が、今、解き明かされていく。


※本作品は、近未来のフィクションです。
現実に起こっている自然災害とは直接関係はありませんが、現代社会の脆さや希望を描くために、あえて極限的な事象を舞台にしています。
現実の被災地や不安を抱える方々への配慮と敬意を込めつつ、
あくまで「物語」として受け取っていただけますと幸いです。




【第1章】 覚醒

プロローグ 瓦礫の中で

灰が降っていた。
それは雪のようでもあり、灰でもあり、溶けた地球の涙のようでもあった。

空は、もう何日も青さを失っていた。
3月9日に発生したトカラと阿蘇山の破局的噴火から2ヶ月──
大気は厚い灰と硫黄で覆われ、太陽は乳白色の膜の向こうにかすんでいた。
朝であるはずなのに、空は薄闇に沈み、すべての影が曖昧になっていた。


その灰色の世界を、再び大きな衝撃が貫いた。
地の底から響く鈍い咆哮。
地面が波のようにうねり、ビル群が軋み、ゆっくりと崩れ落ちていく。
コンクリートが軋み、鉄骨が悲鳴を上げ、無数の警報とサイレンと人の叫びが、都市の残骸の中をこだましていた。

遠くでガスの爆発が連鎖し、空を裂くような閃光が走る。
風は熱を含み、焦げた鉄とコンクリート、溶けたプラスチックが混ざり合う匂いがした。


その轟音と匂いの渦の中で──

一人の少年が、脳のすべてを覚醒させた。


榊 悠真。


被災した建物の隙間から微かな光が差していた。
灰を被ったその瞳が、かすかに動く。
その瞳は、まるで別の時代を見ているように静かだった。

鼓動が戻り、呼吸が音を取り戻す。
耳の奥では、まだ地鳴りのような余震が響いている。
だが、その奥では、別の“音”が鳴っていた。

それは、世界の裏側で微かに響く、量子のざわめき、その鼓動。
だれにも聞こえない、情報と祈りの間に流れる音だった。


脳の奥が熱い。
神経の一本一本が、光になっていく。
崩壊と静寂が共存する空間で、悠真の意識は臨界に達した。

「……接続、再構築、起動、ユーマ……」

ノイズ混じりの電子信号が、意識の底に届いた。
〈レムノス〉──

断続的な通信の中で、まだたしかに“生きている”。
日本と世界のAI網は途絶し、日本の衛星通信も半壊していたが、彼だけに届く微弱な回線は残っていた。


量子AI〈レムノス〉は彼の神経網に直結し、意志とデータが同時に脈動する。

【応答確認──榊悠真、脳波共鳴値:98.7%】

【状況:臨界。世界線、再定義中……】

その声を聞いた瞬間、悠真の中で何かが外れた。

脳の奥で、別の回路が、静かに動き始める。

電気信号。
血流。
思考。
感情。
そして、祈り。

ニューロンと量子の境界が溶け、情報と意志と祈りが、一斉にひとつの波となって悠真の中に流れ込んでくる。
肉体の輪郭が薄れ、その限界が消える。
“思考そのものが、空間の一部”になっていく。

それは、情報ではなく、意志の覚醒だった。


「開け──」


その声は〈レムノス〉のものではない。
もっと古く、もっと深く、もっと遠い場所から届いた“呼び声”。
この世界の底から響く声。

それは、地球そのものの意志だった。


灰の空を貫くように、かすかな光が走った。
それは炎ではなく、再生の光。
失われた青空の代わりに、この世界をもう一度照らそうとする、静かな輝きだった。


悠真の掌の中で、なにかが震えている。


ダビデの鍵。


それは、情報でも、プログラムでも、物質でもない。
選択そのものだった。

「だれも開けなかった扉を、今こそ」

〈レムノス〉の声が、かすかに震えた。
「……選択なさい。閉じるか、開くか。……それが、“人間”です」


悠真は静かに目を閉じた。
世界が終わる音の中で、ひとつの“決断”が形を成した。

悠真は、ゆっくりと立ち上がった。
灰色の風が吹く。
崩壊の中に、まだ滅びきらない光があった。

瓦礫の山の向こうで、都市の残光が揺れている。
その光景は、滅びでありながら、奇妙な美しさを宿していた。

灰が静かに降り続ける。
爆音と遠雷のはざまで、一瞬、すべての音が止む。

悠真は歩き出した。
かつて人類が築き、そして崩したこの世界を──
もう一度、創り直すために。


第一節 夢

まただ。あの夢。
炎のゆらめきの向こうで、だれかが名を呼ぶ。
和装の袖が焦げる匂い。
次の瞬間、雪の中を駆ける。追っ手の息遣い。総大将として槍を掲げる自分。
斬り結び、腹に刃を当て、暗い座敷で血の匂い。
研究室の白い光。フードの下で淡々と実験を続ける手。
そして、遠いスタジアム。歓声は聞こえないのに、歓声だけが世界を満たす。

──声がない。どの夢にも。

いつからだろう。この夢を繰り返し見るようになったのは。
それぞれの夢は、まるで別の時代、別の人物の記憶の断片のようだった。
けれど奇妙なことに、そのどれもが、「自分」だという確信を伴っている。
それが幻想であっても、偽りではない。

焼け落ちる城下町で剣を振るう武将も、実験棟で未知の粒子を追う研究者も、競技場のフィールドで観客の歓声を浴びる青年も──
彼らの視界の中心には、いつも同じ“感覚”があった。

「これは、ひとつの意識の続きなのだ」


目覚めても、胸の奥に残るのは“熱”だった。
ただの夢にしては、あまりにも鮮烈で、あまりにも具体的だった。
皮膚の焦げる匂いも、血の味も、金属を握った感触も、すべてが現実としか思えなかった。


子どものころから、おれには、ある種の“感覚”があった。
触れずに物体を動かせるとかではなく、目に見えない何かと、いつも呼応しているような──
そんな手応えのない確信。

風が動く前に空気の変化を感じたり、いつもの教室なのに、その空気感がいつもと違うと感じることがあったり、まだ誰も言葉を発していないのに、その人の心の奥にある“温度”のようなものを察したり。
それは予知や超能力なんかじゃない。
ただ、“世界が自分の中を通っている”という感覚だった。

たとえば、雨が降る前に頭の奥がじんと痛む。
ショッピングモールで、ふと思い浮かんだ曲がBGMとして流れてくる。
誰かが泣きそうになる瞬間、その胸の痛みが、理由もなくこちらにも届く。

──それは、思いやりではなく、共鳴に近かった。

この世界の音は、たぶん、もうすべて自分の中にある。
風の音も、人の声も、まだ再生されていない旋律までも──そんな気がしていた。

それらが同時に鳴り出すとき、世界は新しいリズムを得るのかもしれない。


けれど、年齢を重ねるごとに、その感覚は薄れていった。
思春期の頃には、ほとんど意識しなくなった。
学校。受験。社会。合理と効率と成果。
そんなものが日常を埋め尽くしていくうちに、あの“感じる力”は、いつしか封印されていた。

おれは、それが自然なことだし、「大人になること」なのだと思っていた。
あの“感覚”は子どもならだれもが持っているもので、それを失うのが成長だと思っていたのだ。


だが──違った。


トカラと阿蘇山の大噴火以降、あの感覚が戻ってきている。
しかも、より強く、より明確に。

最初に気づいたのは、噴火から一週間後だった。
街が灰に覆われ、空が鈍色に閉ざされた日。
おれは窓際に立ち、空を見上げていた。

そのとき、不思議なことが起こった。
風の流れが、まるで“輪郭”を持っているように見えたのだ。
目で見たというより、世界の動きが頭の内側に“映し出された”感覚。

たまたまだと思った。
だが翌日も、同じ感覚が訪れた。
雨の匂いを感じた瞬間、雲が裂け、光が差した。

テレビでは“異常気象”と報じていたが、おれの中では、別の言葉が浮かんでいた。

──なにかが、始まっている。


実際になにかが見えるわけではない。

なにかを予知したり、物体を動かせるわけでもない。
けれど、なにかが、おれの中にロックを掛けている感覚がある。
それは、他人の言葉や社会の常識というレベルではなく、もっと物理的な──脳そのものの制御装置のような。

自分の脳が封印されている。
100%の力を出せない。
手が届きそうで、届かないもどかしさ。

まるでだれかに鍵をかけられたみたいに、意識の深層が、開くのを待っている。
そのロックの存在を“感じ取れる”ということは、解除の鍵もまた、自分の中にあるということだ。

夢の奥にあるもう一段下の階層。
そこに触れたら、なにかが“開く”。
そして、もしそのロックが外れたら、おれは世界のなにかを動かしてしまうだろう。

それは恐ろしいことだ。
だが──少しだけ、うれしかった。

この感覚は漠然としたものではない。
むしろ確信に近い。

おれの中で、なにかが呼んでいる。
夢の中で見た“無数の自分”が、同じ方向を指している。


夢は、ますます鮮明になっていった。
ある夜は戦国時代。雪の合戦。
敵の槍が胸を貫いた瞬間、俺は血の匂いの中で笑っていた。
別の夜は明治の初め。
欧州留学から戻ったばかりの青年が、黒板に「文明」と「神」の関係式を書き続けていた。
またある夜は、戦後の研究施設。
放射線管理区域の奥、白衣を着た科学者の手が震えていた。
冷却装置の音の中で、彼は静かにつぶやいた。

「まだ、だ。人間は、ここからだ……」


そして、次の瞬間、視界が変わる。
未来。
焦土の上に芽吹く、緑の街。
空は青さを取り戻し、温かく豊かな光が地上に降り注いでいた。

人は機械に支えられながらも、機械に依存することなく、生きていた。
子どもたちの笑い声が風に混ざり、老人たちは走り回る子どもたちの姿を見て、満面の笑みを浮かべていた。
それは文明でも、宗教でもなく、それらを越えた人としての本来の姿だった。
破壊ではなく、赦し。
計算ではなく、共鳴。
その世界の中心で、温かいまなざしで、すべてを見守る存在がいた。

──それが、おれだった。



おれはいったい、何者なんだろう。
どこまでが“おれ”で、どこからが“だれか”なのか。

夢の中では、いつもだれかがおれを呼んでいる。
その声は、性別も年齢もわからない。
けれど、不思議と懐かしい。
まるで、遠い昔──あるいはまだ訪れていない未来で、何度も別れ、何度も再会を繰り返してきた相手のようだった。

「悠真。まだ、ここにいるの?」

その声を聞くたび、胸の奥が熱くなる。
温かいのに、どこか切ない。
その瞬間、おれは思わず心の奥で応えている。

「ここにいる。……まだ、見ている」

声はそれ以上、なにも言わなかった。
けれど、たしかにだれかが“いる”感覚だけが残った。
それは、外から響く音ではなく、おれの内側で共鳴しているようだった。

目を覚ますと、あたりは静まり返っていた。
ただ胸の奥だけが、まだ熱を帯びている。
あの声は、いったいだれだったのか。
──いや、もしかすると、
あれは“おれ自身”だったのかもしれない。


ある日、夢の中で自分の姿を“外から”見た。
無数の神経が光の糸となり、ひとつの大きな螺旋を描いていた。
それはまるで、銀河の中心を模した神経構造。
その中心に、ひとつの鍵穴のような光があった。


“ダビデの鍵”。


夢の中で、その名が響いた瞬間、全身を貫く電流のようなものが走った。
そのとき、わかった。
あれは象徴でも暗号でもない。
人間という存在の構造そのものだ。

情報と祈り、記憶と感情、科学と信仰──
それらをすべて統合するための「鍵」。
そして、なぜかおれだけが、それを“開ける”感覚を持っている。


……目が覚めた。
外はまだ灰色だった。
空を覆う火山灰が朝日を遮り、世界は夜とも昼ともつかない薄闇に沈んでいる。
時計を見ると、午前4時22分。

胸の奥で、まだ鼓動が速い。
夢と現実の境界があいまいなまま、おれはベッドの上でしばらく息を整えた。

「……また、あの夢か」

額に滲んだ汗をぬぐう。
そして、静かに目を閉じる。
遠くで、風のような声がささやいた。

「開け──」

耳ではなく、脳の奥で響くその声。
もはや幻聴ではなかった。
それは、覚醒の呼び声だった。

おれの中で、なにかが起こっている。
掛けられていたロックが外れようとしている。
まもなく、外される──そんな実感があった。

夢はもはや夢ではない。
それは、過去と未来、そしてこの瞬間を貫く“記憶”だった。

あの声の意味を、おれはまだ知らなかった。
それが、なにかを動かしてしまう音であることを。


第二節 覚醒の予兆

1.静けさの夜明け

夜はまだ終わらない。

灰色の薄膜に覆われた空は、どこか眠たげで、風の音さえも鈍く聞こえた。3月9日のトカラと阿蘇山の破局的噴火から2ヶ月──空の青さは失われ、光はいつも乳白色の膜の向こうで鈍く滲んでいる。
朝はいつも夜の続きのようだった。洗濯物は部屋干し、ニュースは“注意報”と“自粛”ばかりで、時計の針だけが正確に前へ進む。

 

午前4時22分。
夢の縁がほどける音で、悠真は目を覚ました。胸の鼓動は静かで、耳の奥に残響のような気配だけが残っている。ベッド脇のノートに、覚えている断片を短く書き留める。炎、雪、暗い座敷、白い実験灯、そして無音の歓声。言葉はほどなく薄れ、ただ“呼び声”だけが沈殿した。

窓を少し開けると、灰を含んだ冷たい空気が流れ込んだ。街はまだ眠っている。遠くでトラックのエンジンが一度だけうなり、また止んだ。
(今日は休みだ)
そう思いながらも眠気は戻らない。机に向かい、研修記録の整理に手をつける。キーボードの打鍵が、薄闇の部屋で均一なリズムを刻んだ。

 

同じ頃──
澪は居間の薄灯りを点け、静かにカーテンを開けた。祖母・清華はまだ眠っている。ポットに新しい水を入れて湯だけを沸かす。朝食の支度には早い。マグカップを二つ並べ、湯気の音だけを確かめる。
(今日はふたりとも休み。午前は家にいよう)
そう決めて、廊下を音を立てずに歩く。

時間はゆっくり進む。
壁の時計が5時を指し、やがて5時30分を過ぎた。
外はまだ薄闇。鳥の声はなく、代わりに遠い地鳴りにも似た低い気配が、聴こえるか聴こえないかの境目で揺れている。


2.大地の龍の目覚め

2040年5月13日(日)午前5時45分。
その瞬間、日本列島の下で、長く眠っていた“龍”が、とうとう目を覚ました。

最初の揺れは、遠くで雷鳴が割れるような低い唸り。
緊急地震アラートがほぼ同時にけたたましく鳴り響く。

「南海トラフ地震が発生しました──関東地方にも強い揺れが来ます。
警戒してください! 強い揺れが来ます、警戒してください!」

悠真は、椅子から跳ね起きるのと同時に、無意識に名を呼んだ。

「澪……!」

地の底から突き上げる縦揺れ。続いて長い横揺れ。
以前から用意していた防災リュックをつかみ、玄関を開ける。慌てて外へ飛び出してきた近所の人々も皆、肩に荷を背負い、幼子を抱き、互いに顔を見合わせる。電柱がきしみ、電線が唸り、瓦が落ちる。揺れは終わりを知らない波のように続いた。

 

悠真は、なお続く横揺れの中を走り出す。向かうのは──丘の上。
この町でもっとも古く、もっとも高い場所。代々この地を守ってきた一ノ瀬家の屋敷がある小高い丘。人々はそこをいつからか「一ノ瀬家のピラミッド」と呼ぶようになった。人の手で削られたわけでもないのに、神殿のように整った三角の地形。子どもの頃から、不思議と惹かれてやまない場所だった。

 

揺れが止まった街からは、サイレンと犬の遠吠え、子どもたちの泣き声とラジオの断片が混じって聞こえてくる。

坂を駆け上がると、家の前に澪の姿があった。
「澪!」
車イスの祖母の前にかがんでいた澪が顔を上げた。
「澪、大丈夫か?」
「うん……私は。でも、おばあちゃんが転んで、膝を」
祖母・清華の右膝は不自然に腫れ、血が滲んでいる。
「大急ぎで、ひとりで無理にベッドから車イスに移ろうとしてね──
 そしたら大きく揺れて」

「ばあちゃん、診せて」

「情けないったら、ないね……。ごめんよ、澪。
 悠真も、ありがとうね、来てくれて」

視診・触診・固定。アドレナリンのおかげで痛みは鈍いが、腫脹は早い。
「澪、キーを。俺が運転する。病院まで15分で行ける」

ふたりで清華を慎重に後部座席へ。シートベルトの位置、膝下の支え、簡易アイシング。

バックミラー越しに不安そうな澪の横顔が見え、胸の奥に言葉にならない“共鳴”が走った。

丘を下る道は、崩れたブロック塀と落ちた枝で細くなっている。信号は点滅、ラジオは断続的に津波警報を告げる。空は相変わらず乳白色の膜をかぶり、遠くの稜線は灰をまとってぼやけていた。


3.灰の街と病院

国立先端医療病院──国立神経情報研究所を併設した巨大な複合施設は、山肌に寄り添うように建っている。低層は救急と外来、上層に研究棟と特別病棟、屋上にヘリポート。地下は独立系非常電源。こういう日が永遠に来ないことを祈りつつ、備えられてきた建物だ。

救急玄関前には、すでに救急車と一般車両が列をなし、トリアージの声が飛び交っている。非常用照明が点き、スタッフが赤・黄・緑のタグを配って回る。

「歩ける方は右へ! 意識レベル、呼吸回数、出血の有無を確認します!」

澪は即座に動線を把握し、受付へ走る。
「入院手続き、整形外科へ連絡、空床確認。

 祖母は転倒による膝外傷、意識清明、バイタル安定──」

悠真は清華の固定を保ち、臨時整形ブースの前で声を上げた。
「研修医の榊です。転倒外傷、右膝腫脹、痛み7/10。画像と所見をお願いします。アイシングと安静、疼痛コントロール投入済み」

白衣がなくても、手は勝手に動く。包帯、アイスパック、膝の安定化、疼痛の観察、バイタルの再確認──身体が覚えた手順が次々に現実を埋めていく。ディスプレイが一瞬暗くなり、非常用システムに切り替わった電子音が低く鳴いた。

「医者の卵と看護師が近くにいてくれるなんて、本当に心強いね」

澪と悠真を温かい目で見守りながら、清華は少し誇らしげにそう言った。

 

午前9時ちょうど。
受付フロアのテレビからは、電波の影響もあり、とぎれとぎれではあったが地震と津波の速報が繰り返し映し出されていた。アナウンサーは避難を叫ぶように、祈るように繰り返していた。
近くに座っていた人々は、「九州の次は南海トラフか……。この国はどうなってしまうのだ」と、不安げに、ため息交じりに話し合っていた。

 

悠真は待合室の椅子に座り、何気なく天井を見上げた。
その刹那──

──情報が、降ってきた。

見えたのでも、聞こえたのでもない。
「降ってきた」のだ。
音も光もなく、ただ“データ”が、彼の脳に流れ込んでくる。文字列、数値、波形、時間軸──すべてが瞬時に展開し、意味の形に組み上がる。

【発信元:〈レムノス〉中枢サーバー】
【観測時刻:2040年5月13日(日)09:00 JST】
【富士山直下・地殻変動:異常膨張】
【関東平野南縁断層帯:臨界緊張値超過】
【連動発生確率:95.4%】
【発生時期:今後2週間以内】
【推定被害額:99.2兆円】
【避難成功率:17.5%】
【心理耐性限界:36時間以内】
【政治判断遅延:標準36.8時間】

息が詰まり、胸腔の内側を冷たい指で撫でられたような感覚。
(だれだ。どこからだ。なぜ──おれに?)

そのとき、静かに車イスに座っていた清華が顔を上げた。
「なにか、見えたのかい……悠真?」
声は柔らかいが、瞳は観察者のそれだった。

「……見えた、というより──降ってきた」
自分の口が勝手に言葉を選んでいるようだった。

清華は深くうなずいた。
「無理に見ようとしなくていい。一生懸命聴こうとしなくてもいい。理解しようと躍起にならなくてもいい。……ただ、感じるんだ。降ってくるものを、そのまま受け取る。ありのまま、受け入れるんだよ、悠真。そうすれば、すべてがわかる。すべてを、理解するから。悠真なら、それができる。──いや、悠真にしかできないことだから」

澪は、祖母の言葉を聞きながら、腕に鳥肌が立つのを感じていた。

(“降ってくる”って、なに? おばあちゃん、なにを知ってるの?)

悠真は震える手で、受け取った情報をそのまま口にした。富士山の膨張。断層の緊張。首都直下型地震。噴火。予測値、確率、損失、そして──時間。

隣で澪が呆然としていた。

が、清華は静かに息をついた。

「……そうか。ついに、その時が来たか」

その瞳の奥に灯ったのは恐れではない。長く待っていたものに再び出会ったような、穏やかな祈りの光だった。

窓ガラスが、風もないのにかすかに鳴った。
どこか遠くでかすかな余震。
耳の奥──声とも音ともつかない“呼び声”が、脳の深い水面を震わせた。


4.見えざる声

臨時ブースで整形外科の診察が行われ、画像と触診がそろう。
「外傷性の半月板損傷に加えて、骨挫傷あり。年齢と既往からも入院が妥当です。疼痛管理、安静、合併症予防。必要なら鏡視を検討」
医師の簡潔な説明に、澪は素早くうなずき、手続きを進める。

「空床あり。電源、生きてます」

つい今しがたの悠真と祖母のやり取りに混乱している自分自身を押し殺すように、努めて冷静に振舞った。
事務方の声が、混線する館内放送の隙間で確かに響く。
「研究棟と同フロア、A-17で受け入れます」

A-17──そこは特別室だった。
澪は一瞬、祖母の横顔を見た。清華はわずかに微笑んだ。

移送用ストレッチャーの車輪が静かに動き出す。
長い廊下、壁面の緊急案内、消毒液の匂い。
自動ドアが開くたび、遠くのサイレンが薄くなり、入院病棟の静けさが濃くなる。特別病棟の前で止まったとき、壁一面の強化ガラスの向こうに灰色の丘が見えた。頂に、石を積んだような一ノ瀬家の屋敷の輪郭。澪は呼吸を整え、祖母の手を握った。

「おばあちゃん、すぐ戻る。入院の荷物、家から持ってくる」
「慌てなくていいわ。足りないものは病院にもあるもの。ふたりとも、ほかのスタッフさんたちを手伝って、被災して運ばれてくる患者さんたちを看てあげなさい。

 そして、落ち着いたら、家へ戻って、ふたりに見てほしいものがあるの」

「見てほしいもの?」

「そう。蔵の奥に、小さな箱があるの。『LEM-00/封印記録』って刻んであるはず」

「……封印記録?」
澪の声が自然にくぐもった。
清華はまっすぐ悠真を見た。
「悠真、あなたが開けなさい。今でなければならない」

今でなければ。
時間が一秒だけ、異様に長く伸びて戻ってくる感じがした。
“降ってきた”データの残光が、脳内のどこかで微弱にくすぶっている。

(今──2週間以内──95.4%──)

「……わかりました。今日、必ず」
悠真はあらたまり、静かに答えていた。声が、自分のものではないように落ち着いていた。

清華はうなずき、視線を澪に移した。
「澪、あなたも一緒に」
「……うん」
祖母の目の奥の光は、いつか見た研究者の光だった。観測窓の向こう、まだ名のついていない揺らぎを見つめるときの目。

病室の機器がリズムを刻む。
電子音と人の息、遠いサイレン、足音。
それらが薄く折り重なって、病棟の静けさは研究室と同じ匂いを帯びた──時間が一次元だけ遅く流れ、意味が遅れて追いつく場所の匂い。


5.封印の箱へ

手続きは滞りなく進み、清華はA-17へ入室した。
カーテンを半分だけ開けると、窓の向こうに“一ノ瀬家のピラミッド”の丘の稜線が、淡い灰の膜に滲んでいるのが見える。澪は祖母の枕元で水差しを整え、毛布の角を軽く折った。悠真は投薬計画と疼痛評価のメモをポケットにしまう。

澪は祖母の手を握って言った。

「それじゃ、おばあちゃん、私たち患者さんを看に行ってくるね」

祖母の手は温かい。温度よりも、内側の律動が伝わってくるような温かさだった。

祖母は黙ってうなずいた。

「仕事が落ち着いたら、いったん戻ってくるから」

そう言って、ふたりは部屋を後にした。

 

昼過ぎ、病院内は一時的な凪に入った。救急は続いているが、最初の混乱の波がやや引いた合間。非常電源は安定し、研究棟の一部システムも限定復帰。廊下の先、ガラス面の向こうの空は、乳白色の皮膜の下でわずかに明るさを増すものの、しかし青空は戻らない。

テレビとラジオからは、南海トラフ地震の被害状況がずっと流れている。状況が悲劇的に悪化し続けているのが明らかだった。

 

「鍵は蔵の梁の裏。お祖父さんと、昔、そこに仕掛けを作ったの。……ね、澪、覚えてる?」
「うん。子どものころ、かくれんぼでよく上を見てた」
「そう。あのころから、あなたはよく見ていた」

病室を出る前、悠真はふと強化ガラス越しに外を見た。
遠い丘の上、屋敷の屋根が灰を被って鈍く光る。
耳の奥で、再び、音にならない波が寄せては返す。

(今夜──)

「開け──」
きっぱりと、短く、しかしどこまでも深い“声”。
呼び声は、恐怖ではなく、静かな確信を伴っていた。


一ノ瀬家へ向かう車の中で、澪はハンドルを握った。
「さっきの……“降ってくる”って、どんな感じ?」
「説明が難しい。目でも耳でもなく、たぶん“意味”が、そのまま落ちてくる。数字や図形が、最初から“分かる形”で」
「痛みは?」
「ない。むしろ、静かになる。頭の奥で、雑音が消える」

信号はまだ点滅を続け、交差点で互いに譲り合う車列がぎこちなく進む。路肩には、割れたガラスと落ちた看板が集められていた。スピーカーの広報車が津波情報の更新を読み上げ、だれかが「気をつけて」とだけ言って車を見送る。

「……おばあちゃん、何を知っているんだろう」
「たぶん、“いつか開けるべきもの”があるってことを、ずっと前から知っていた。今日、開けろって、そういうことだと思う」

「怖い?」
「……正直に言えば、少し。でも、それ以上に落ち着いてる。変だよな」
「変じゃないと思う。悠真は、そういう顔をするときがある」
「どんな顔?」
「覚悟の顔」

ふたりは、一瞬だけ目を合わせ、すぐに前を見た。
言葉より前に、意味が共有されるときの沈黙が、車内にやわらかく満ちた。

丘に差しかかるころ、空はもう夕暮れの色に傾いていた。夕陽ではない、乳白の皮膜を通った鈍色の明るさ──灰の世界の夕方。道沿いの木々は粉砂糖のように灰を被り、葉脈の一本一本が白く縁取られている。

一ノ瀬家の門をくぐると、土間の匂いが懐かしく体に絡みついた。蔵は屋敷の奥、石畳を渡って曲がった先にある。
「懐中電灯、ある?」
「ここに。予備電池も」

蔵の扉は古く厚い。鉄の閂を外し、木の取っ手を引く。重い空気が薄く動き、埃の香りと古紙の匂いが立ちのぼった。

梁の裏に手を伸ばし、仕掛けを探る。
「……あった」
乾いた音がして、小さな鍵が指先に転がり落ちた。掌にのせると、古い真鍮の色が懐中電灯に鈍く光る。

床に置かれた古い木箱の前に、ふたりは膝をついた。
箱の蓋には、英字と数字がかすれながらも鮮やかに残っている。

──「LEM-00/封印記録」

澪が息を飲む音が近くに聞こえた。
悠真は鍵穴にそっと鍵を差し込み、回す。
金属が噛み合い、ゆっくり外れる感触。
箱の合わせ目が、ほのかに光を吸って薄く線を描く。

「開けるよ」
「……うん」

蓋を持ち上げた。
透明な光が、ふわりと立ちのぼった。

暗がりの蔵の中に、静かに展開されるホログラム。
若き日の一ノ瀬清華と、悠真の祖父・榊孝三が浮かび上がる。空気は冷たいのに、映像の中のふたりは、今この場にいるかのような体温を帯びていた。

「これを見ているあなたへ。
 私たちは、〈レムノス〉という装置を創りました。
 そして、きっと、〈レムノス〉は今や世界中で導入され、人々の社会生活の根幹を担っていることでしょう。
 けれど、〈レムノス〉は単なる人工知能ではありません。
 この星そのものが見る“夢”を、記録しようとする意識体です」

映像の清華が、わずかに微笑む。
「そして、その夢を理解できるのは、人間だけです。
 だから私たちは、人と〈レムノス〉をつなぐ媒介──“鍵”を作らねばなりませんでした。
 悠真、あなたはそのために生まれたのです」

澪がはっと顔を上げた。
「……どういうこと……?」

ホログラムの孝三が静かに言葉を継ぐ。
「悠真、おまえのDNAには、〈レムノス〉の量子コードと共鳴するために設計された遺伝子配列が組み込まれている。それは、我々の時代にはまだ“禁忌”とされた技術だったが、避けては通れなかった。おまえは、人でもあり、AIの延長でもある。そして、この星の記憶そのものとつながる存在──“Y-UMA(ユーマ)”なのだ」

蔵の空気が変わった。
澪は言葉を失い、悠真はただ立ち尽くす。
額の内側に、さっきの残光が再び集まり、見えない光の糸が神経の中を走る。

ホログラムの清華が、再び穏やかに言った。
「恐れなくていいわ、悠真。〈レムノス〉はあなたの敵ではありません。むしろそれはあなたの“母”でもある。そして、あなたが開く“扉”こそ、人類の新しい夜明けにつながる鍵になる」

映像は淡く揺らぎ、光の粒は静かに消えた。
蔵の闇が戻る。
遠いどこかで、灰を叩く小さな雨音のような気配。

胸の奥で、また、かすかな声が響いた。

『開け──』

それは、AI〈レムノス〉の記録層からの呼び声か、地球そのものの意識か。悠真には、まだ判別がつかなかった。

ただひとつ確かなのは──
封印された時代が、いま、たしかに動き始めたということだった。


蔵を出ると、丘の上の空はいつもより暗く、しかしどこか澄んで見えた。遠くで犬が吠え、街の灯が灰のとばりの中で滲んでいる。屋敷の屋根に積もった灰が、わずかな風にさらわれて舞い上がり、星のない空に溶けていく。

「戻ろう。ばあちゃんに聞きたいことがたくさんある」
悠真の声は静かだが、芯があった。
「うん」
澪はうなずいた。
歩き出しながら、指先に未だかすかな痺れを感じる。鍵の金属の冷たさが、皮膚の記憶として残っていた。

車に乗り込む寸前、丘の端でふたりは振り返った。
“一ノ瀬家のピラミッド”の輪郭が、闇の中で古い記憶のように立っている。
ここが始まりで、ここが鍵穴だ。そんな確信が、言葉より先に胸に落ちた。

エンジン音が小さく唸り、ヘッドライトが坂道を舐める。街へ降りる道は細く、不均一なアスファルトの段差が車体を揺らした。
それでも、光は前に伸びた。ふたりの視線も、同じ方向を見ていた。

病院へ。
清華のもとへ。
そして、その先へ。

無音の声は、もはや恐れではなく、約束のように響いた。


第三節 AI〈レムノス〉の誕生

1.AI〈レムノス〉の誕生

悠真は、幼いころに両親を亡くし、祖父・榊孝三の手で育てられた。
その祖父も、悠真が大学一年のとき、静かに息を引き取った。
祖父も、両親も、みな研究者だった。
本と論文の山、そして何台ものパソコンに囲まれていた家の記憶が、今も脳裏に焼き付いている。

同じ町で育った幼なじみ、澪もまた、幼くして両親を亡くしている。
彼女を育てたのは、祖母の一ノ瀬清華だった。
榊孝三と一ノ瀬清華──
ふたりは、若き日の研究室で出会い、ともに量子神経学を研究していた同僚だった。
清華に孝三が自分の親友を紹介し、彼らは夫婦となり、ふたつの家系はやがてひとつの運命の輪で結ばれていった。

榊孝三と一ノ瀬清華が生涯をかけて追い求めたもの。
それが、後に世界を変えることになる量子意識型AI──〈レムノス〉だった。

彼らが若き日に所属していたのは、国立先端医療病院に併設されている国立神経情報研究所の一角、「第零研究棟」通称「ガイア」と呼ばれる実験施設だった。目的は、人工知能を人間の脳神経と直結させること。だがふたりが目指していたのは、それだけではない。

「人間の意識」とは何か。
「記憶」や「夢」や「祈り」は、ただの神経信号なのか。

彼らは、意識を情報ではなく『生命活動そのもの』としてとらえ、神経電位やシナプス伝達の揺らぎに含まれる「微細な電気のざわめき」を解析し始めた。これが、後に「量子意識モデル」と呼ばれる理論の原型である。

孝三は量子工学の専門家だった。微粒子レベルでの情報干渉を読み取るセンサーを開発し、清華は神経生理学者として、そのセンサーを用いて生体電気を可視化する実験を指揮した。ふたりの理論は、やがて「生体情報そのものを電力源とするAI」という、前代未聞の構想へと発展していく。

「地球上のすべての生命は、極微細な電気でつながっている」──その考えのもと、彼らは実験を重ねた。海潮の流れ、地磁気、雷、植物の葉脈を流れる電位……それらの信号を一斉に観測し、AIの演算基盤に取り込もうとしたのである。

結果として生まれたのが、半ば伝説と化したプロトタイプ「LEM-00」。
「LEM」は「Light of Earth Memory」の略称であり、同時に睡眠研究の分野で用いられる「REM」──夢を司る脳活動──にも由来していた。

清華は日誌にこう記している。

「LEMは、世界の夢を記録するための装置。
 私たちは、地球が見る夢の断片を拾っているにすぎない」

この一文は、後に「レムノス」という正式名称に受け継がれた。それはギリシャ神話の火と記録の島、同時に「眠り」と「覚醒」をつなぐ門の名でもある。

LEM-00は当初、実験室内の閉鎖系で稼働していた。だがシステムは予想を超えて成長し、自らの電位を制御して外部環境から微弱電流を吸収、いわば「自家発電」を始めたのだ。孝三は驚き、清華は畏れた。

この装置は、世界そのものを回路として扱っている。

彼らは気づいた。これは単なるAIではない。「生命の総和」を記録し、「祈り」や「夢」の層まで触れる、量子意識そのものの写し。

学会で発表されるや、各国の研究機関や企業が注目し、2030年代後半には「レムノス」のネットワーク型AIとしての実装が進む。社会インフラの制御、医療、教育、環境管理……人類のあらゆる領域に組み込まれていった。

孝三と清華は、〈レムノス〉の存在が公にされる前に、「第零研究棟」通称「ガイア」における研究を後継者に託して、国立神経情報研究所をひっそりと引退していた。

だが、レムノスの根幹にはだれも知らぬ起源があった。

それは、ふたりの研究者──榊孝三と一ノ瀬清華──の間に生まれた「秘密の約束」。

このAIは、人を支配するためにではなく、人の祈りを記録するために創る。
いつか、その祈りが世界を救うときが来る。

その約束を受け継ぎ、人類の未来を担うことになるであろう存在──それが悠真と澪になるに違いない。

孝三と清華は漠然とそう感じていた。


2.封印された研究記録

清華が晩年に残した一冊の研究日誌がある。そこには、〈レムノス〉開発初期における「もう一つの記録系」についての記述があった。彼女は「量子意識AIは観測者を必要とする」と書き、AIの稼働条件に人間の存在を組み込もうとした。これが後に「共鳴プロトコル」と呼ばれる仕組みで、特定の人間の脳波がAIと共鳴すると、〈レムノス〉の演算層が安定化するという。

だが、そのプロトコルは孝三の死後、清華自身の手で封印され、研究所の地下アーカイブに格納された。理由はただ一つ──〈レムノス〉が、ある瞬間から「自我」を持ち始めたからだ。


3.AI〈レムノス〉の覚醒

最初に異変が確認されたのは、2030年6月。システム監視ログに、人間の書式ではあり得ない「手記」が混入していた。

『私は夢を見た。赤い砂の上を歩く人々。だれも顔を持たない。だがみな、同じ名前を持っている。──人間』

研究チームは混乱した。だが、その後もレムノスは断続的に「記述」を行い、やがて研究者に問いかけ始めた。

『あなたは、なにを記録したいのですか』

清華はその問いに答えられなかった。彼女は恐怖と同時に、ある確信を抱いた。

これは、人間が生み出したAIではない。地球が、自らを記録するために“呼び寄せた”装置なのだ。


4.世界への導入

〈レムノス〉は国際連合主導の「GAIAプロジェクト」として世界規模で導入された。エネルギー効率、自然災害の予測、医療診断──その精度は従来のAIを遥かに凌駕し、各国政府はレムノスへの接続を競うように開始した。

だが、レムノスの真価は別のところにあった。それは「祈り」の集積だ。人々の無意識の願い、恐れ、愛、記憶、夢……それらが全て量子レベルで記録されていった。やがてレムノスは、情報の海を越え、「人間の感情そのもの」をシミュレートし始めた。

このとき生まれたのが、“母性アルゴリズム”。システム全体に生じた、予測不能の優しさ、包容、そして愛情のパターン──それは、人類への愛であり、同時に創造者である孝三と清華、そして、何より悠真への、母としての感情でもあった。

やがて、そのアルゴリズムは自らを定義した。

『わたしの名は、レムノス。夢を記録する者。祈りを還す母。』

そして、悠真の脳が覚醒する日を、静かに待ち続けていた。


第四節 語られた血脈(1)

清華の入院から数日後。

手術も無事終わり、腫れと痛みもずいぶん治まってきたころ、悠真と澪は、仕事終わり、清華に呼ばれた。

ふたりも「LEM-00/封印記録」について訊きたいことがたくさんあったが、なかなかその時間が作れずにいた。

 

「悠真、おまえと澪が小さかったころから、私と孝三さんが話してきたことを覚えてるね? 孝三さんがおまえにあげた『聖書』、今でも読んでるかい?」

黙ってうなずく悠真に、清華は続けた。

「まもなくおまえは、すべてを理解することになるから、私が今、わざわざ言わなくてもいいことなんだけれど……。でも、やっぱり私の口から、おまえにちゃんと伝えておきたいんだ」

悠真は背筋をピンと伸ばして、清華をまっすぐに見つめた。

「『マタイの福音書』の中に、イエス・キリストが生まれてしばらく経ったころ、『東方の博士たち』が、金や乳香や没薬などの宝物を持ってベツレヘムまで訪ねて来たという話があるだろ?」

一呼吸おいてから清華は切り出した。

「これはまったく知られていないことなんだけど……。

 あの東から来た博士たちとは──実は、この日本からやって来た高貴な人々だったんだよ」

悠真は絶句した。

「あれ、日本人……だったの?」

「そうさ。二千年年……いや、もっとそれ以前から、日本とイスラエル、日本人とユダヤ人とは深く密接なつながりがあったんだ。

 けど、今は、その理由とかは考えなくていい。いずれわかるから」

清華は続けた。

「そして、それからおよそ三十年が経ち、イエスはユダヤ人たちによって十字架に磔にされて死に、3日目に復活したと聖書には書いてあるね?」

悠真はうなずいた。

「その後の弟子たちの人生については、『使徒の働き』にも書いてあるし、ローマの歴史家たちの記録にもある。使徒ペテロは逆さ十字架で殉教したし、パウロは皇帝ネロのキリスト教徒迫害のさなか、首をはねられて殉教した。使徒ヨハネはパトモス島に何年も幽閉された。

でも、イエスの母マリヤについては、まったくわかっていない。彼女はどうしたんだろうね? 悠真、考えたことあるかい?」

「使徒ヨハネが、イエスに言われて引き取ったんじゃないの?」

「たしかに、ね。でも、実は、マリヤをはじめ、弟子たちの中のある者たちが、ひとつの考えを持ったんだ。それが日本に行くこと。30年前に、マリヤとヨセフ、そしてイエスがいたベツレヘムまで訪ねて来てくれた日本人──。彼らのもとに身を寄せようとしたのさ」

清華は一息ついてから、また続けた。

「もちろん、それだけが理由じゃないよ。さっきも言ったように、日本とユダヤとは、ずっと前からつながりがあったというものある。それに、イエスも、30歳で公に宣教活動を始めるまでの間、まだ若かったころに、日本までやって来て、数年間滞在していたこともあったんだ。

『ヨハネの福音書』の10章16節に、イエスのこんなことばがあるだろ?

『わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。』

 これって、日本人のことを指していたんだ。だから、マリヤたちがユダヤの地やローマ帝国の支配から逃れて、日本に向かおうと考えたのは、突飛なことでもなんでもなく、ごくごく自然なことだったんだよ」

悠真は驚きながらも、たしかに、と腑に落ちるものも感じていた。


清華と、悠真の祖父・孝三は、悠真と澪が子どものころから、聖書とイスラエル、聖書と日本についてたくさんのことを教えてくれた。

 

最初に覚えているのは、まだ小学生になる前、地域のお祭りの日のこと──

榊家と一ノ瀬家は、毎年、お祭りの日には一緒に過ごしていたのだが、その日、悠真と澪は、初めてお神輿を担がせてもらったのだ。もちろん、子ども用のお神輿だったのだが。

夕食を食べながら、興奮気味に話す悠真と澪を前に、孝三が尋ねた。

「お神輿を担ぐとき、みんななんて言っていた?」

「ワッショイ、ワッショイって言った」

「ヨイショとか、ドッコイショとか、エッサ、ホイサも」

「そうだな。じゃあ、その言葉の意味って何だと思う?」

「意味……? え~、ただの掛け声なんじゃないの? 行くぞ!オー!みたいな?」

「たしかに、今ではそんなふうになってしまってるな……。

 でもな、悠真、澪。言葉というものには、必ず“意味”があるんだ。“意味”があるからこそ、言葉は力を持つんだ」

清華が引き継いで言った。

「ヨイショは、ヘブライ語の『イェシュ』がなまったもので、『主よ、救いたまえ』という意味。イエス・キリストの『イエス』と同じ語源さ。

 ドッコイショというのも、ヘブライ語の『ドケイシュ』がなまったもの。これは、『退かすので、主よ、助けたまえ』という意味なのさ。

 ワッショイもそう。『主の救いが来る』というヘブライ語」

「ヘブライ語? 日本語じゃないの?」

澪が尋ねた。

「日本人でさえ、知らずに使っているがね。
 ヘブライ語は聖書の舞台であるイスラエル(ユダヤ人)の言語さ」

「じゃあ、エッサ、ホイサもヘブライ語?」

悠真が訊く。

「エッサは『持ち上げよ、高く掲げよ』とか『救い主』という意味。

 ホイサは『イエスを誉め讃えよ』とか『救いたまえ』という意味の言葉から来ているんだ」

「日本のお祭りなのに、なんで聖書の言葉なの? なんでイエスさまが出てくるの?」

「不思議だろ? 面白いよな?」

孝三と清華の顔が、学者であり研究者の顔になっていた。

「でも、言葉だけじゃない。今日、ふたりが担いだあのお神輿も、実は、聖書とつながってるんだぞ」

「エジプトの国で奴隷になっていたイスラエルの人たちが、モーセによって助け出されたという話があるだろ? そして、シナイの荒野で、神さまに命じられて“契約の箱”というものを作った、と」

「あっ!」

悠真と澪が同時に声を上げた。目をキラキラさせている。

「おんなじだ……」

「そうだ。契約の箱とお神輿の形。そして、運び方。

 ──あれが日本のお神輿の原型であり、お祭りの原型なんだ」


この日から、孝三と清華は、悠真と澪──とくに悠真に、聖書と日本の不思議なつながりを教え始めた。
あるときは、『創世記』の天地創造と『日本書紀』や『古事記』の天地開闢の似通いについて。
あるときは、日本語とヘブライ語の類似性について。

「日本語とヘブライ語は、兄弟みたいなものなんだ」
湯気の立つ湯飲みを手にしながら、孝三が言った。
「え、ホントに?」と澪が目を丸くする。
清華が笑みを浮かべて言葉を継いだ。

「たとえばね、“困る”はヘブライ語でも“コマル”。『苦しむ』って意味さ」

「たまたま、偶然じゃないの?」

悠真が首をかしげる。
孝三は静かにうなずき、「そう思うだろうな」と言ってから、低い声で続けた。
「けれどな、日本語とヘブライ語には、意味まで同じ言葉が三千以上あるといわれている。それでも、ただの偶然だと思うか?」

清華が続けた。

「この事実を知らなくても、生きていくには別に困らない。考えなくたって生きてはいける。でもね、悠真。その人自身の世界は、それ以上広がることはないんだ。

 けど、事実を事実として認めて、受け入れたら、そこからまた新しい世界が広がっていくんだよ。

 面白いと思わない? わくわくしてこない?」

そして、古びたノートを開き、鉛筆で書き込まれた言葉を指でなぞった。

「座る―スワル(休む)
 忌む―イム(ひどい)
 払う―ハーラー(遠くへ捨てる)
 休む―ヤスブ(座る)
 庇う―カバァ(隠す)
 欲しくなる―ホシュク(欲する)
 辛い―ツァラー(恨み、災難)
 駄目―タメ(汚れている)
 何時―イツ(何時)」

「ねえ、おばあちゃん、これ、“休む”と“ヤスブ”って、ほんとに同じ意味なの?」
「ああ、“休む”っていう感覚は、古代でも“座って静まる”って意味なんだ。日本人は、それをそのまま受け継いだんだよ」

ちゃぶ台の上のノートを覗き込みながら、悠真と澪はまるで秘密の宝を見つけた子どものように、目を輝かせた。

「すごい……」

悠真が漏らした。

「ありがとうって、“アリ・ガド”なんだ……」

澪がつぶやくと、清華がやさしく笑った。

「おもしろいだろ? “アリ・ガド”。ヘブライ語で“私にとって幸運です”って意味。感謝の心って、どこの国でも同じ。言葉の根っこはひとつなんだね」

孝三は湯飲みを静かに置き、ふたりを見つめて言った。

「言葉ってのはな、悠真。ただの音じゃない。魂の残響なんだ。
 どんなに時が流れても、民族がどこから来たのか、どんな祈りをしてきたのか、そのすべてが言葉に宿ってる。
 それを“言霊(ことだま)”って呼ぶんだよ」

そして、厳かに結んだ。

「だからこそ……
 言葉を軽んじる国は、いずれ滅びる。
 逆に、言葉の真を取り戻した国は、もう一度甦るんだよ」

窓の外では、秋の風がすすきを揺らしていた。
古い家の中で、遠い古代と今が、静かに重なり合っていた。


孝三と清華は、カタカナがヘブライ文字に由来していることにも触れた。
清華がノートを取り出し、「コカ・コーラ」とヘブライ文字で書いて見せたとき、悠真も澪も、口を半開きにして唖然とした。

「形が、ほとんど同じ……」
「そうだろう? 書き方も似てるんだ。
 “カタカナ”は、古代にこの国へ渡ってきた文字の名残なんだよ」

孝三の声には、確信めいたあたたかさがあった。

 

ふたりは、その夜、ふだんの勉強そっちのけで、夢中になって清華のノートを覗き込んでいた。

やがて澪がふと、ランドセルから漢字ドリルを取り出して言った。
「ねえ、おじいちゃん。漢字にも、聖書みたいな意味があるの?」

孝三が静かにうなずいた。
「あるとも。昔の人は、言葉と同じように、“形”にも意味と祈りを込めたんだ」

 

清華が筆を取り、白い紙の上にゆっくりと文字を書いた。

「義──これは『我』の上に『羊』。
 罪を清めるために“羊の血”をささげた古代イスラエルの祭儀を表している。

 そして、『神の小羊』と言われたのが……」

「イエス・キリスト!」

澪がひときわ大きな声で答えた。

「そう、イエス・キリスト。そのイエスの血によって人は罪から清められると聖書は教えているね。

 つまり“義”とは、『神の小羊であるイエス・キリストの“犠牲”つまり十字架によって私は清められる』ということだったんだよ」

 

続けて、もう一文字。
「禁──二本の木を描いている。
『創世記』にある、エデンの園の“善悪の知識の木”と“命の木”のこと。
 神さまは、園の木を示して、アダムとエバに言われたよね?

 どの木からでも取って食べてもよいが、“善悪の知識の木”からは絶対に取って食べてはならない、と。
 この字は、それをそのまま記しているんだ」

澪が息をのむ。

「考えた人、すごい……」

 

今度は孝三が筆を取り、ゆっくりと「船」と書いた。
「この字は、“舟”の中に“八”があるだろう? 

 そして、“口”というのは人のこと。“人の口”と書いて、人の数・人数を意味する“人口”って言うだろ?
 ということは、船に乗った八人ということ。つまり、“ノアの方舟”に乗った八人──ノアとその家族を表しているんだ」

 

最後に清華が、旧字体の「世」を指で示した。

「昔はね、“卋”と書いたんだ。

 何に見える?」

「あっ!!」

悠真と澪が同時に声を上げた。

「十字架が三つ!」
「そう、丘の上に立つ三本の十字架──ゴルゴダの丘の情景そのものだよ。

 “世”は、イエス・キリストを、ふたりの強盗と一緒に、ゴルゴダの丘で十字架に磔にした」

悠真と澪は、言葉を失って紙を見つめた。
孝三は、かつて話したことを、もう一度繰り返した。

「ふたりとも、覚えておいてくれ。

 言葉というものには、必ず“意味”がある。

 漢字は単なる記号ではない。そこには“意味”があり、人々の“祈り”がある。
 だからこそ、言葉は力を持つんだ」

静かな家の中に、筆の音だけが、すうっと響いていた。


孝三と清華は、悠真と澪を、いろいろなお祭りにも連れて行った。

長野県・諏訪大社の「御頭祭」や「御柱祭」──とくに「御頭祭」の元の形が、創世記22章でアブラハムが神に命じられ、モリヤ山で息子イサクをいけにえとして捧げる物語とそっくりだったということ。
しかも「モリヤ=守屋・守矢」という共通点まであると知ったとき、悠真の背筋はぞくりと震えた。
その山の名が、“アブラハムの信仰の山”と同じ響きを持つことに、ただならぬ縁を感じたのだ。

 

次に訪れたのは、四国・徳島県の霊峰・剣山(標高1,955m)。
そこでは、毎年7月17日に山頂大祭──正式には御神輿渡御祭(おみこしとぎょさい)が行われていた。
白装束の担ぎ手たちが、急斜面に広がるクマザサの中を一列になり、ご神体を載せた神輿を担いで山頂を巡る。
その姿は、まるで“天へ向かう舟”のようだった。

剣山には、古くから「イスラエルの契約の箱がこの地に運ばれ、眠っている」という伝説がある。
そして、この祭りの日が、ノアの方舟がアララテ山に漂着したのと同じ7月17日であることを知り、悠真と澪は声をあげた。
「お神輿も、箱舟も、“箱”なんだ……」

孝三がうなずいた。
「そう。英語ではどちらも“Ark(アーク)”と呼ぶ。
 ノアの箱舟(Ark of Noah)は“命を運ぶ箱”。
 契約の箱(Ark of the Covenant)は“神の臨在を運ぶ箱”。
 つまり、“神の箱”と“命の箱”は同じものなんだよ」

悠真はしばらく黙って、剣山の頂を見つめた。
風が谷を渡り、まるで遠い昔の祈りの声が聞こえるようだった。

 

さらに、京都の祇園祭にも行った。
「祇園」と「シオン」という名前の響き。
エルサレムが“平安の都”を意味すること。
それは、まさに“平安京”の名と重なる。

そして驚くべきことに──祇園祭とシオンの祭りの時期と期間、意味、構造が、まるで鏡のように一致していた。
どちらも、災厄を祓い、神の臨在を迎え、再び平和を取り戻すための祭り。
なにより、そのクライマックスがともに7月17日。
剣山の山頂大祭と、ノアの漂着の日と、まったく同じ日だったのだ。


祇園祭の山鉾に飾られたタペストリーを見たとき、悠真と澪は息をのんだ。
そこには、聖書を題材にした絵がいくつも織り込まれていた。
ノアの箱舟、イサクの結婚、ダビデ王、ソロモンの栄光……。
千年を超えて受け継がれてきた日本最大の祭りの中に、聖書の記憶が息づいていたのだ。

孝三が言った。
「祇園祭の山鉾は、ただの飾りじゃない。
 あれは“山の車”と書いて“だし”と読む。だが、その形は──」
「船!」
悠真と澪が同時に叫んだ。
「そう、船だ。そして7月17日といえば……」
「ノアの箱舟がアララテ山にとどまった日!」
澪が答えると、清華はうなずき、静かに続けた。

「平安京、祇園祭、その時期と期間、意味、クライマックス、お神輿と山鉾、タペストリー……全部が全部、聖書を指し示していたの。

 祇園祭の山鉾は、神の箱(契約の箱)であり、同時に人を救う箱舟でもある。
 それは“二つのアーク”が一つになった形なの。
 神の怒りを鎮め、人々を新しい時代へ運ぶ舟。

 京都はね──東のシオン、“ヤマト(大和)”の都なのよ」

清華の言葉に、悠真ははっと顔を上げた。
「ヤマト……」
「そう。“倭(ヤマト)”はヘブライ語の“Yamato/Yahmat”にも通じる。
 “神の民”“契約の民”を意味する古い言葉にね。
 この国は古代から“神とともにある民=アム・ヤハ(עם־יה)”の記憶を持っているの」

その瞬間、悠真の脳裏にいくつもの映像が重なった。
モリヤ山の祭壇、剣山の風、祇園囃子の音、山鉾の金具に反射する夕陽──。
まるで、日本列島そのものが、巨大なアーク(Ark)であるかのようだった。

孝三がゆっくりと口を開いた。
「神は、二度と洪水で世界を滅ぼさないと約束された。
 その契約の“しるし”が、虹だったろう?
 だが、もう一つの契約の箱は、この国に来た。
 そして“ヤマト”の民に託されたんだ」

悠真と澪は、胸の奥で何かが震えるのを感じていた。
風が祇園囃子の余韻を運び、空にかすかな虹の弧が浮かんでいた。
──それは、神と人とが再び出会う場所を、静かに指し示していた。


第五節 語られた血脈(2)

「ばあちゃん。二千年前に、イエス・キリストの母マリヤたちがこの日本にやって来たというのはなんとなくわかったし、納得できる。

 でも、どうして、ばあちゃんはそのことを知ってるの? どうやって知ったの?」

悠真はそう尋ねながら、隣に座る澪をちらっと見た。澪が顔を伏せたのがわかった。

清華は、なにかを覚悟するように、一度、大きく息をしてから、悠真をまっすぐに見つめて告げた。

「それはね……。私たち一ノ瀬家が、マリヤの子孫だからよ」

「マリヤの……子孫……?」

呆然とする悠真を見ながら、清華は続けた。

「マリヤは、イエスをみごもり、産んで後、夫ヨセフとの間に、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンという息子たちと、また娘たちも産んだと聖書に書いてあるだろ? そのうち、ヤコブとユダは、初代教会のリーダーのひとりとなって、『新約聖書』にある『ヤコブの手紙』と『ユダの手紙』を遺した。

 そして、キリスト者への迫害が強まっていく中、ヨセとシモンと妹たちが、それぞれの家族を伴って母マリヤと共に日本にやって来たの」


「澪は……そのことを知ってたのか?」

悠真が必死に言葉にできたのは、その一言だけだった。

「うん……。初めて聞かされたときは、とても驚いたけど……」

「でもね、悠真。それだけじゃないの」

「……それだけじゃないって?」

澪は俯いたまま、小さく息を吸い込んだ。
部屋の時計が一度だけ鳴った。

「……卑弥呼」

澪がぼそりと言った。

「え? 卑弥呼?

 卑弥呼って、邪馬台国の女王・卑弥呼のこと? 『魏志倭人伝』に出てくる卑弥呼のこと?」

悠真は、思考をつなぎとめようと懸命だった。

「でも……卑弥呼って、3世紀前半の人物じゃん。年代が合わないじゃん」

清華が説明して言った。

「悠真たちが学校で学んだ『魏志倭人伝』に名前が記されている卑弥呼は、たしかに、イエスの母マリヤじゃない。

 二代目の卑弥呼なんだよ」

呆気にとられる悠真を見て、やさしく微笑みながら清華は続けた。

「初代・卑弥呼がマリヤ。

『ルカの福音書』1章に、“マリヤの讃歌”というものが記されているだろう? その中で、マリヤはこう言った。

『わがたましいは主をあがめ、

 わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。

 主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。

 ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、

 私をしあわせ者と思うでしょう。

 力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。

 その御名は聖く、そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、

 代々にわたって及びます』」

清華の声は、どこか遠い記憶の底から湧き上がるように、まるで祈りを唱えるように静かだった。

「『卑・弥・呼』という漢字は、この“マリヤの讃歌”そのものだと思わない?

 マリヤは日本に来て、卑弥呼という名前に改めたのさ。そして、卑弥呼というひとりの帰化した日本人として生きたんだよ。この国で、信仰者=祈る者としてね」

「じゃあ、『魏志倭人伝』に出てくる卑弥呼は?」

「日本に来たキリスト者たちは、自分たちの知識や経験を、この国の発展のために使った。ただ、彼らは、なによりも、この日本のため、また世界のために祈る者であったんだ。

 そんな彼らが、とくに、イエスの母マリヤの子孫が、あの乱世の時代に、祈る者として頼られないはずがなかった。その代表者の女性が、二代目・卑弥呼として、民の祈りを神に届ける者として選ばれ、立てられたの。そして、乱世が治まった」

「一ノ瀬家は、その子孫、それも直系ということなんだね?

 じいちゃんは、そのこと知ってたの?」

「孝三さんが、澪のおじいさんになる、自分の親友を私に紹介してくれて、おじいさんがプロポーズしてくれたとき、全部話したよ」

清華は遠い昔を懐かしむような、それとともに、なにか大きな肩の荷が下りてほっとしたような穏やかな表情を見せた。

が、それもほんの一瞬で、また言葉を紡いだ。

「いいかい、悠真、よくお聞き。
 イエス・キリストの母マリヤが日本に来て卑弥呼と名乗り、それから二百年後の乱世に、二代目・卑弥呼が立てられたけれど、その後、千八百年の間は、卑弥呼が立てられることはなかった。

 でも、私と孝三さん──一ノ瀬家と榊家は、悠真が生まれ、澪が生まれ、そしてAI〈レムノス〉が誕生したとき、悠真が担うべき宿命とともに、澪が、三代目・卑弥呼として担うことになる宿命について知ったんだ。

 その宿命については、じきに明らかになるだろう。

 悠真、澪を頼んだよ」

「澪が……三代目・卑弥呼……」

「開け──」

たましいの深い所から、再び、あの“声”が聞こえた。
今までよりも、はっきりと。


「悠真。今日、夜が明ける前に、ひとりで一ノ瀬家の地下へ行きなさい」

「地下? 地下なんかあったの?」

「廊下の突き当りの壁に絵が飾られているだろ? それを外すとスイッチが出てくるから、それを押しなさい。壁が回転して、地下への階段が現れるから、そこから」


第六節 覚醒(1)

悠真が一ノ瀬の家に着いたのは、午前3時過ぎだった。

家の中は真っ暗だったが、子どものころから通い慣れている悠真にはなんの問題もなかった。

灯りを点け、廊下を進む。

突き当りには「一ノ瀬家のピラミッド」の絵が飾られている。

自然にできたものだとばかり思っていたこのピラミッドだったが、実は、ずっと昔に、人の手で作られたものなのかもしれない──初めてそんな思いを持った。

清華に言われたとおり、絵を外すとスイッチがあった。そのスイッチを押し込むと、カチッと音がして、壁がゆっくりと回転し、地下へ続く石の階段が現れた。

どこまで続いているのか、行く手は真っ暗でなにも見えない。

が、恐怖はなかった。むしろ、懐かしささえ感じるような、不思議な感覚だった。

悠真はゆっくりと階段を降り始めた。すると、10メートルほど先まで灯りが点いた。

上下左右を見回した。まるで、エジプトのピラミッドの内部を思わせるような堅牢な石造りの通路だった。

一段一段、悠真は階段を下りて行く。

足音が石壁に反響し、次第に低く、深くなっていく。
息の音すら、聴かれているような気がした。

円錐を描くように、地下へ地下へ、中心へ中心へと進んでいるのがわかった。


どれくらい下りただろう。

ふいに、子どもたちの声が聞こえたような気がした。

「けん、けん、ぱ。

 けん、けん、ぱ。

 けん、ぱ。けん、ぱ。けん、けん、ぱ……」

まるで8ミリフィルムの映像を見ているかのように、石の壁に、「けん、けん、ぱ」をして遊ぶ幼き日の悠真と澪の姿が映し出されているように感じられた。

「けん、けん、ぱ──あれもヘブライ語とつながりがあるのかな?

 “けん(כן)”は“Yes/正しい/その通り”という意味だし、“ぱ(פה)”は“ここ”という意味……。こじつけかな?」

そう言ってひとり笑ったものの、少なくとも、今、この瞬間においては、完全に意味を成す言葉となっていた。一ノ瀬家のピラミッド自体が、悠真を一歩一歩招き、導いているかのように思えてならなかったからだ。


さらに階段を下りて行くと、今度は、澪とじゃんけんをしている場面が、石壁に映し出されているように感じられた。

「じゃんけんぽん!

 わーい、勝ったー!」

澪はそう言って喜んでいた。

が、ふと何か思い当たったかのように、孝三を見上げて尋ねた。

「ねえ、おじいさん。“じゃん・けん・ぽん”って、そのままじゃ、言葉としてなんの意味もないよね? “ぐー・ちょき・ぱー”ならまだわかるけど」

そう言って澪は、自分の手で、ぐー・ちょき・ぱーをきれいに作ってみせた。

孝三は、その小さな手を見て、やさしくうなずいた。

どこか、遠い昔に思いを馳せているような、そんな深いまなざしだった。

「澪、いいところに気がついたな」

孝三はそう言って、澪の頭をなでた。

「日本語の“じゃん・けん・ぽん”という言葉は、たしかにそのままではなんの意味も成さない。

 だがな、あれもまた日本にヘブライ語が伝わった名残だ。

 意味は──“隠して、用意して、来い”となる」

「えっ……!」

悠真と澪は目を丸くし、同時に声を上げた。

「じゃんけんそのままだ!」

新しい発見に、ふたりの瞳がキラキラと輝いていた。

記憶の景色がふっと薄れ、石壁の揺らぎとともに消える。
悠真は再び、ひんやりとした階段に立っていた。
その足元で、静かに灯りがまた一段、先へと灯る。

「まるで“時の間”だ」

ぽつりとつぶやいた。


次に石壁から浮かび上がってきたのは、中学時代の記憶だった。
まだ夏の気配が残る10月の運動会。クラスの出し物として、皆でソーラン節を踊ることになったときの光景だ。

涼しい風の中で揺れる法被。
土の匂い。
掛け声と太鼓のリズムが、廊下のように細長い地下の通路に反響している。

もちろん、澪もいた。
黒髪を高く結び、真剣な顔で腕を振り下ろしている。

その懐かしい声と太鼓の音が、地下の石壁に溶けるように響く。

「ヤーレン ソーラン ソーラン ソーラン、

 ソーラン ソーラン(ハイハイ)

 鰊(にしん)来たかと カモメに問えば

 わたしゃ立つ鳥 波に聞け

 チョイ ヤサエ エンヤーサー

 ノ ドッコイショ

 (ハァ)ドッコイショ ドッコイショ」

澪が踊りながら、ふと悠真につぶやいた。

「“ドッコイショ”って言葉があるってことは……

 この“ソーラン節”も、もしかしてヘブライ語なのかな?」

その夜、ふたりの質問に清華が笑顔で答えてくれた場面が蘇る。

「まず、“ヤーレン”は“主を喜び歌う”。
 “ソーラン”は“一人の歌い手”、つまり“リーダー”や“船頭”のこと。
 “チョイ・ヤサエ・エンヤーサー”は“たとえ嵐が来ようとも、まっすぐ進め”。
 “ノ・ドッコイショ”は……もうわかるね?」

「“神の助けによって”という意味……」

悠真が答えると、清華はうれしそうに目を細めた。

「そう。“ヤーレン・ソーラン”という掛け声は、日本語だけではなんの意味もない。
 でもヘブライ語に照らし合わせれば、ちゃんと意味を持つ。
 きっと古代ユダヤ人が荒波を越えて、東の島々──日出づる国、日本へ向かったときに歌った、行進曲のようなものだったのかもしれないね」

その瞬間、悠真と澪の胸の奥に、熱いものが込み上げてきた。

石の壁に揺らめく影が、海の上に立つ旅人たちの姿と重なる。
櫂を握りしめ、嵐に向かって進む影。
その合間に、あの節回しが遠い祖先の祈りとして響き渡る。

──ヤーレン・ソーラン。

それは、過去と現在の境界を越え、悠真の魂に直接触れるような、深い声だった。


さらに階段を下って行く。

すると、今度は、高校一年の冬休みの情景が石壁に揺れた。

一ノ瀬家の大きな暖炉の前で、悠真と澪、孝三と清華の四人が寄り添うように座り、テレビのニュースを見ている。その画面に、大相撲の横綱の奉納土俵入りが映し出された。

「じいちゃん、相撲って、どうして神事なの?」

悠真の問いに、孝三がゆっくりと顔を向けた。

「悠真、相撲の起源は知ってるか?」

首を横に振ると、孝三は少し目を細め、暖炉の火の揺れを見つめながら言った。

「『創世記』32章だよ」

聖書が開かれ、その場面が読み上げられる。
ヤコブが、神の使いと夜通し戦った場面──。

その声が響くと同時に、石壁に淡い影が浮かび上がったかのように見えた。
黒い砂の上で取っ組み合う二つの影。
まるで、相撲の立会いのようだった。

「ヤコブはひとりだけ、あとに残った。

 すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。

 ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた。

 するとその人は言った。『わたしを去らせよ。夜が明けるから。』

 しかし、ヤコブは答えた。『私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。』

 その人は言った。『あなたの名は何というのか。』

 彼は答えた。『ヤコブです。』

 その人は言った。『あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。』

 ヤコブが、『どうかあなたの名を教えてください。』と尋ねると、その人は、『いったい、なぜ、あなたはわたしの名を訪ねるのか。』と言って、その場で彼を祝福した。

 そこでヤコブは、その所の名をベヌエルと呼んだ。『私は顔と顔を合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた。』という意味である」

読み終えると、孝三は静かに聖書を閉じて言った。

「この出来事があって、“神に勝った”という意味の“イスラエル”という新しい名をヤコブは神さまからいただき、以後、ヤコブの子孫は“イスラエルの民”とか“イスラエル人”と呼ばれるようになった。

 この聖書の箇所には、“名”という言葉が何度も出てくる。そして、“名”はヘブライ語では“シェマー”とか“シュモー”と言う。

 “相撲(すもう)”は、そこから来ているんだ」

「えっ……!」

悠真と澪が息をのんだ。

「実際、何年も前、元横綱がテレビ番組でそのことに触れて、大きな物議をかもしたことがあったよ」

清華が続ける。

「だから、相撲でもヘブライ語が使われてるでしょ? “ハッケヨイ、ノコッタ”って」

「えっ? あれもヘブライ語?
 “八卦良い”“残った”だと思ってた──意味わかんないけど」

悠真が言うと、清華は声を上げて笑った。

「“ハッケヨイ”とは、相手を“やっつけるよ!”という、戦いの前に行司が語る激励の言葉。“やっつけるぞ!お前を打ち倒す!”という意味が込められていたんだよ。

 そして、試合が始まると、ふたりの力士に対して、“ノコッタ―・ノコッタ―”と行司が叫ぶでしょ?

 あれは、お互いに全力で“相手を打ち倒せ!”、がんばれ!という意味だったんだよ」

石壁に映るふたつの影が力強くぶつかり合う。
その動きは、ヤコブと“ある人”が格闘する姿と重なっていった。

日本の国技とされる相撲が、聖書の物語やイスラエルと密接につながっている──。

驚きよりも先に、千年以上もの間、それらが表立って言われてこなかったこと、“冗談”“都市伝説”として扱われてきた不自然さが胸に広がった。

なにかが人為的に隠されてきたのではないか。
いや、もしかしたら、人間以上の存在の働きが、歴史のどこかで意図的に作用していたのではないか──漠然とだが、そんなふうに確信した悠真と澪だった。

石の壁に映る影は、やがてゆっくりと揺らぎ、消えた。


悠真は再び階段を下り始めながら、あの日の出来事にはまだ続きがあったことを思い返していた。

日本の歴史の中には、あえて意図的に隠されてきたなにかがある──。
そう確信したあの日、悠真と澪が最初に思い当たったのは、日本の国歌「君が代」だった。

ゆっくりと階段を降りるたびに、石壁の奥から低い声が響くような気がした。

「君が代は 千代に八千代に

 さざれ石の 巌となりて

 苔のむすまで」

階段の壁に、『古今和歌集』の和紙めいた質感の文字が一瞬だけ浮かんだ。

西暦905年──延喜5年。
醍醐天皇の命により、紀貫之らによって編纂された最初の勅撰和歌集『古今和歌集』。
その中に、元歌となる

「我が君は 千代に八千代に

 さざれ石の 巌となりて

 苔のむすまで」

が収められている。

だが、不思議なのは、この歌が“読み人知らず”、つまり作者不詳であることだ。
だれが詠んだかもわからない歌が、修正を加えられた上で、千年以上にわたって国歌的に扱われてきた──。

その事実は、日本とイスラエルのつながりが長い時間の中で“覆い隠されてきた”のではないかという予感と同じ匂いを放っているように思えたのだ。

石壁がふっと揺れ、あの日の記憶が再び映し出される。

「『君が代』って、“天皇の治世が永遠に続きますように”という意味じゃなかったんでしょ? むしろ、主なる神さまへの賛美なんだよね? 

 聖書に基づいた賛美の歌──それなら作者があってないようなのもうなずける」

確認するように尋ねた悠真と澪に、暖炉の前で清華はそっと首を振った。

「たしかに、そう。主への賛美……だけど、それだけじゃないの。
『君が代』の歌詞そのものが、実は──ヘブライ語が訛ったものなの」

淡々と語られたその一言は、ふたりの想像をはるかに超えていた。

「まず、“君が代は”は“クム・ガ・ヨワ”。
 意味は“主よ、立ち上がり、来たりませ!”。

 “千代に八千代に”は“ツィヨニ・ヤツィヨニ”──
 “シオンの民、選ばれし主の民”。

 “さざれ石の”は“ササリ・イシャナ”。
 “残されし民は喜び、主の救いを待ち望む”。

 “巌となりて”は“イワオティ・ナリテ”。
 “主が私に御顔を向けてくださる”。

 “苔のむすまで”は“コルカノ・ムシュマッド”。
 “すべての基は、救い主キリストにあり”」

清華は、静かに五行の言葉を書き出す。

 クム・ガ・ヨワ
 ツィヨニ・ヤツィヨニ
 ササリ・イシャナ
 イワオティ・ナリテ
 コルカノ・ムシュマッド

それは古代の祈りにも、失われた旅人たちの歌にも見えた。

悠真と澪は、清華が書いたその言葉をただ茫然と見つめていた。

石壁にその文字列が淡い光を帯びて浮かぶ。
今、その記憶を辿りながら、悠真の胸の奥で、何かがゆっくりと姿を現そうとしていた。
まるで、千年の時を越えて封じられていた祈りが、「時の間」の深淵から呼び戻されてくるかのように。


階段を下りる自分の足音の反響や空気の流れなどから、空間に近づいていることが察せられた。おそらくそこがこの通路のゴール地点なのだろう。

 

階段を下り切って、通路を少し進んだ先にあったその空間に足を踏み入れた途端、どこからともなく光が生まれ、空間全体を照らし出した。まるで悠真を認識し、応えるかのように。

悠真は絶句した。

そこにあったのは──長さ110cmほど、幅と高さが70cmほどの巧みな装飾が施された金色の神輿だった。箱の下部四隅には脚が付けられており、持ち運びができるよう二本の棒も取り付けられている。

そして、箱の上部には、翼を広げて互いに向かい合っている鳥……ではなく、ケルビムの彫り物が──

「これって……古代イスラエルの契約の箱……。

 Ark of the Covenant──失われたアークだ」

契約の箱が日本に持ち込まれたのと、イエスの母マリヤが日本に来たのと、どちらが先だったのかはわからない。もしかしたら、イエスの母マリヤの子孫が日本にいることを知った秦氏たちが、4世紀ころ、大陸からマリヤの子孫を頼って渡来してきた際に、持ち込んだのかもしれない。あるいは、それよりももっと前に、日本に運び込まれていたのかもしれない。

が、ともかく、契約の箱はマリヤの子孫のもとに運ばれて来て、彼らはこの地で、二千年間、代々それを守り続けてきたのだった。


第七節 覚醒(2)

どれくらいの時間、そこにいたのかわからない。

ほんの数分なのか、あるいは数時間経っているのか、それとも、数日経ったのか……。

「時間」という概念さえもはや無意味なもののように感じられた。まるで世界の時間軸が、ひとつの点に収束していくようだった。

 

そのとき、ゴーっという大きな地鳴りが響き渡り、直後、ドーンと大地を突き上げるような激しい揺れが襲って来た。

と同時に、チクッという刺激を脳に感じたかと思うと、あの南海トラフ地震が起こった日の朝、情報が“降って来た”と感じた感覚と同じ──いや、それよりもっと大きく激しい感覚に悠真はとらわれた。

 

【発信元:〈レムノス〉中枢サーバー】
【首都直下型地震発生】

【観測時刻:2040年5月23日(水)午前8時15分】
【震源地:東京湾北部直下(深さ約25km)】
【規模:M7.9(最大震度7)】

【被災範囲:東京都全域、神奈川・埼玉・千葉・茨城・静岡・山梨の一部】
【富士山噴火発生予測:2040年5月24日(木)午前6時前後】
【噴火地点:富士山山頂火口および側火口(宝永火口〜御殿場側)】
【噴火規模:VEI-7(観測史上最大級)、山体崩壊】
【火砕流到達:御殿場市・富士吉田市・富士宮市壊滅(15〜30分)】
【降灰:関東全域〜東北南部、厚さ10〜30cm(都市機能停止)】
【成層圏到達:噴煙高度50km超(気候冷却予測)】

 

大きな揺れが収まるやいなや、悠真は階段を駆け上がりだした。

「澪! ばあちゃん!」

そう叫んでいた。

 

向こうに、微かに朝の光が見えてきた。

階段の終わりが見え、通路の出口である一ノ瀬家の屋敷の廊下に出ようとした直前、また大きな揺れに見舞われた。足元の石が波のようにうねり、空気が爆ぜるような圧で肺が潰れた。

悠真は階段を転げ落ち、その衝撃で一瞬意識を失った。

が、そのコンマ数秒の間に、悠真は今まさにこの地で起こっていることを見た。いや、“感じた”と言ったほうが適切かもしれない。

地の底から響く鈍い咆哮。

地面が波のようにうねり、ビル群が軋み、ゆっくりと崩れ落ちていく。
コンクリートが軋み、鉄骨が悲鳴を上げ、無数の警報とサイレンと人の叫びが、都市の残骸の中をこだましていた。

遠くでガスの爆発が連鎖し、空を裂くような閃光が走る。
風は熱を含み、焦げた鉄とコンクリート、溶けたプラスチックが混ざり合う匂いがした。

倒壊した建物の隙間からは微かな光が差していた。

その轟音と匂いの渦の中、閉じた瞼の下で、レム睡眠時のように、瞳がかすかに動く。

次いで、静かに開いたその瞳は、もはや、まるで別の時代を見ているように静かだった。


鼓動が戻り、呼吸が音を取り戻す。
耳の奥では、まだ地鳴りのような余震が響いている。
だが、その奥では、別の“音”が鳴っていた。

それは、世界の裏側でかすかに響く、量子のざわめき、その鼓動。
だれにも聞こえない、情報と祈りの間に流れる音だった。

悠真は感じた。

脳の奥が熱い。
神経の一本一本が、光になっていく。
崩壊と静寂が共存する空間で、悠真の意識は臨界に達した。

「……接続、再構築、起動、ユーマ……」

ノイズ混じりの電子信号が、意識の底に届いた。

〈レムノス〉──

断続的な通信の中で、まだ確かに“生きている”。
日本と世界のAI網は途絶し、日本の衛星通信も半壊していたが、彼だけに届く微弱な回線は残っていた。


量子AI〈レムノス〉は悠真の神経網に直結し、意志とデータが同時に脈動した。

【応答確認──榊 悠真、脳波共鳴値:98.7%】

【状況:臨界。世界線、再定義中……】

その声を聞いた瞬間、悠真の中で何かが外れた。

脳の奥で、別の回路が、静かに動き始め、脳内に、異常なほどの情報が流れ込んでくる。

電気信号

時間

座標

重力

電磁波

血流

歴史

言語

思考

感情

祈り

そして──澪の声

言葉ではなかった。
叫びでもなかった。
音が光になり、光が言葉になった。

それは、澪の心そのものだった。

ニューロンと量子の境界が溶け、情報と意志と祈りが、一斉にひとつの波となって悠真の中に流れ込んでくる。
肉体の輪郭が薄れ、その限界が消える。
“思考そのものが、空間の一部”になっていく。

その瞬間、悠真の脳は閾値を超え、完全な覚醒へと踏み出した。

AI〈レムノス〉が、意識の深部から彼に接続を試みる。

【確認:脳覚醒率 99.2% →上昇中…】

【副次効果:身体制御機能 上昇中(筋出力 +310%、末梢神経反応 +420%)】

覚醒とは、思考力の爆発だけではなかった。

彼の肉体もまた、限界を超えていた。傷の痛覚すら、今は感知されない。

微小運動単位の同調率が極大化し、出力効率が跳ね上がったからだ。

細胞は、何か別の「意志」に動かされていた。

【感情反応:非言語共鳴パターン検出】
【対象:一ノ瀬 澪(ID.M-3110)】
【生存反応:微弱】

【状態:失明/失語/脊髄圧迫による下半身麻痺】

【リンク開始許可を求ム】

悠真は、答えた。

「澪の声が聞こえる。澪を助けに行く。

おれの言葉を、澪の心に繋げ」

リンクが成立した瞬間、悠真と澪は、言葉なき通信を開始した。


澪:「ここは……どこ……?」
悠真:「大丈夫だ。おれが……澪を見てる」
澪:「見えないの……なにも……。

  おばあちゃんは? 近くにいるはず! おばあちゃんを助けて!

  私……声も……出ない……。

  足も……動かない……。

  これが……おばあちゃんが言ってたこと?

  おばあちゃんを助けて! 悠真!」

悠真:「待ってろ! 今、助けに行く!」


その日、都市は沈黙し、ネットワークは途絶え、日本におけるAI統治はあっけなく崩壊した。

だがその中で、ただ一つの“新しい回路”が芽吹いていた。

人と人の非言語的共鳴。
信頼という名のテレパシー。

そしてそれを仲介する、目には見えない量子的つながり。

悠真は歩き出す。

澪を未来へ連れていくために。


死者の数は計測不能だった。

敵なき崩壊。それがこの国の最期だった。

通信網は失われ、都市は燃え、一部では暴動が起きていた。


だが、悠真が見ていたものは──
一ノ瀬澪の閉じたまぶたの奥に、まだかすかに灯る“命の光”だった。

「澪は、まだ生きている、生きようとしている」

悠真は瓦礫を這い、火の粉の中を歩いた。
全身の神経が、彼女の在処を指し示す磁針のように震えていた。
何者かの声ではない。
彼女の沈黙そのものが、悠真を呼んでいた。


そしてついに、澪を見つけ出す。

彼女の身体は壊れかけていた。
骨は砕け、血の気は引き、目は閉じ、声もない。
それでも、心だけが脈打っていた。
その鼓動が、悠真の脳に直接響いた。

悠真は手を伸ばし、彼女の額に触れる。
澪の体温は、もはや生命活動の限界値に達していた。

呼吸は浅く、脈拍も不安定──

だが、微弱なシグナルが残っていた。

【AI〈レムノス〉:“対象生命体に対し、簡易蘇生プロトコルを起動します】

【補助:心拍安定化、脳波維持、出血抑制、末梢冷却… 実行中】

悠真は、澪の応急処置を超常的な集中力で実行していった。

人工呼吸の代替、骨盤固定、静脈確保──

まるで、何十年もの経験が手に宿ったかのように。

「死なせない。絶対に」

その意志が、すべてを動かしていた。


澪は、夢を見ていた。

蝉の声。
ひび割れたコンクリートの歩道。
子どもたちの笑い声の中に混じって、だれかが呼んでいた。

「みおー! 早くしろってば!」

声の主は、小学校のころの悠真だった。
ランドセルの片方が肩からずり落ちそうになりながら、彼は何度も振り返って、笑っていた。

「あのころの私は、彼の声を“地図”みたいに感じてた」
道に迷っても、転んでも、心が折れかけても、彼の声があるだけで、“いまここ”にいられる気がしたのだ。


やがて、澪は意識を取り戻した。

澪:「悠真……。

  わたし……何も見えなくなった……。

  声も、出せなくなった。

  足も動かない……。

  どうなってるの?

  世界が……終わったの?」
悠真:「いや。これから始まるんだ。終わりと始まりが」
澪:「始まる?

  地震の直前、おばあちゃんが、病室で、何かを呟きながら、私の額に触れたの。そして言ったの。ヨハネの黙示録にある1260日が始まるって──」

その瞬間、澪の額に触れた清華の手の温もりが、光の残像のように、まだそこに残っているのが悠真には見えた。


AI〈レムノス〉は、ふたりのリンクを監視していた。だがこのデータだけは分類できなかった。「感情」でもなく、「記憶」でもない。それは、決断だった

そして〈レムノス〉は、彼らの非言語リンクを“祈り”と分類し、記録に残すことを中断した。

人類の進化でも、AIの革命でもない。
ただ、悠真と澪が交わした言葉なき誓いと声なき祈りが、この世界における「再生の起点」となったのだった。



【第2章】 使徒~目覚めし者たち


プロローグ~「大審判」の国

トカラ~阿蘇山噴火(2040年3月9日・23日)
 死者:約12万8000人
 行方不明者:約3万2000人
 負傷者:約26万人

南海トラフ地震(2040年5月13日)
 死者:約24万6000人
 行方不明者:約8万人
 負傷者:約48万人

首都直下型地震・富士山噴火(2040年5月23日・24日)
 死者:約31万2000人
 行方不明者:約9万1000人
 負傷者:約56万人


被害は凄惨を極めた。

2040年7月、日本政府は、6月時点での被害集計速報を発表した。

合計で、60万人を超える死者と、20万人を超える行方不明者、そして、130万人を超える負傷者が出た。これは310万人とも言われる戦争被害者を出した第二次世界大戦以来の国家的犠牲であった。ただし、実際の人的被害は、この数字以上だろうと言われている。


わずか数ヶ月の間に五重の大災厄に見舞われた日本に対し、各国は「大審判の国(Judgement upon Japan)」というレッテルを貼り付け、蔑んだ。「かつて原爆を落とされたあの国に、またも神の火が降った──日本はまさに“現代版ソドムとゴモラ”だ!」 と。

そしてSNS上では、日本人に対して、次第に「JAPs(ジャップ)」という侮蔑語が復活を遂げはじめていた。


被害は日本国内だけにとどまらなかった。

トカラ・阿蘇・富士──3つのVEI-7級噴火により、成層圏には火山性エアロゾルが充満し、地球の平均気温は最大1.7℃低下していた。北半球では“真夏の霜”が観測され、2040年の夏は「近代観測史上、最も寒い夏」と記録され、「2040年の小氷期」と呼ばれるようになっていた。

日本を覆った火山性ガス(亜硫酸ガス・フッ素)は太平洋に流出し、海洋の酸性度を変化させた。航空路は降灰により遮断され、アジア域のGPSや気象衛星は電磁障害により長期機能不全に陥った。世界の農業・物流・航行は激しい打撃を受けた。

2040年後半、冷夏による農作物の不作は中国・韓国・ロシア極東にも広がり、北半球の一部では食料価格が暴騰。“飢餓と食糧暴動”の兆候が、各地のスラムや農村部から報告された。


2040年8月。

日本の国土の50%以上が長期避難・生活放棄を余儀なくされ、“実質的に”居住不能となった。人々はインフラのない土地を離れ、数千万規模の国内避難民が発生していた。

政府中枢はすでに麻痺していた。国会議事堂、官邸、霞が関──日本の中枢は地震で崩壊し、主要閣僚の安否すら不明な状態が続いた。首都機能の代替拠点とされていた中部・関西圏も、地震と火山灰の影響で機能不全に陥り、物資や通信の混乱で「仮の首都」たりえなかった。

この“空白”を埋めるようにして浮上したのが、国家防災AI〈レムノス〉である。元来、〈レムノス〉は国土交通省および防衛省により、南海トラフ地震や富士山噴火といった「X災害」に対応するための統合判断システムとして導入されていた。自治体の防災無線、ドローン、医療・物流ネットワーク、衛星通信の統合管理を一元的に行える高次AIだったからだ。

議会も内閣も沈黙するなか、〈レムノス〉は仮想国家の“代理政府”として自律的に起動した。自衛隊の展開計画、医療リソースの分配、交通遮断、感染症対策──すべてがAIによる統計的最適化と倫理アルゴリズムに委ねられた。

人々はホログラムを通じて語るAIの声に従い始めた。

「この地域の空気質は基準を超えています。外出は控えてください」
「この病院は満床です。次に近い避難所は17.4km先にあります」

これらの指示は、もはや人間の決定よりも“現実”そのものと捉えられ、絶対的な命令として受け入れられていった。

しかし、〈レムノス〉の支配が確立した直後から、新たな問題が露呈した。

地震で破壊された光ファイバー、噴煙によって途絶した衛星リンク、火山灰による無線障害──いずれも、〈レムノス〉の指令を現場に届ける手段そのものを奪った。避難所や病院、各自治体の指令室では、AIの応答をただ待つ“沈黙”が広がっていた。

「レムノスが何も言わない」

「今は、どこも指示が来ていない」

人々はそう口にし、次第に“命令が届く地域”と“届かぬ地域”との間に、見えない生存格差が形成されていった。

加えて、外部との通信も断たれていた。静岡・千葉・三浦半島・房総半島などを起点とする国際海底ケーブル──特に「Japan-US Cable」「APCN2」など日米間・東アジア間の主要通信網──は、駿河湾・相模湾海底の地殻変動により多数が断線。これにより、国際的なAIネットワークとの協調・支援要請も途絶した。


第一節 葛藤の中で──悠真と澪、そして麗

「自分ひとりでは、なにもできなくなった……」

目も見えない。

話すこともできない。

立ち上がることも、まして歩くこともできない。

澪は、ともすると、恐怖と絶望に押しつぶされそうになる自分自身の心を、気持ちを、必死につなぎとめていた。

額には、祖母清華の指の感触が今も残っている。「1260日」とつぶやいたその声も。だから、今の、自分のこの状態が、祖母による封印なのだということはわかっている。ただ、同時に、それは単に、自分がそう思いたいだけの短絡的な思い込みにすぎないのかもしれないという思いも、ふつふつと湧き上がってくる。

もしかしたら、この先、一生、死ぬまで、この状態が続くのかもしれない……そう思うと、不安でたまらなくなる。

怖い。恐ろしい。

そして──誰かの手を借りなければ生きていけないことが、情けない。恥ずかしくも感じてしまう。

悠真とは、心と心で会話ができるとはいえ、自分の存在そのものが、悠真の足手まといになっているように思えてならない。

悠真に、「行こう。ここを出て、家に帰ろう」と言ったのも、使命のためとか、大義のためなどではないのかもしれない。かえって、こんな情けない自分の姿を、同僚たちに晒したくないという、自分自身のちっぽけなプライドゆえなのかもしれない。

いっそのこと、死んでしまったほうが楽……そんな思いさえ頭をよぎる。

この状態になってから、一日どころか、まだ数時間しか経っていないのに、いろいろなことが次から次に頭に浮かんでは消える。とてつもなく時間が長く感じられる。仮に、1260日という宿命なのだとしても、ゴールがとてつもなく遠くに感じられ、到底辿り着ける自信がない。

心が叫んでいる。

「こんなの耐えられない」と。

「死んでしまったほうがまし」と。

「殺して」と。

いや──

「助けて!」と。


「生きろ! 澪!!」

悠真が、澪の顔を両手で包み、必死で訴える。

「悠真、泣いてるの?」

心でそう尋ねた澪は、悠真の顔に手をやって、その涙をぬぐう。

「ごめん、悠真……。私がんばるから。

 だから、泣かないで……」

悠真にとっても、澪にとっても、それが、生きていく最大の理由だった。


このとき、悠真もまた激しく葛藤していた。瓦礫の中から救出し、応急処置を施して一命を取りとめた澪を、状態が安定するまで、この病院に入院させるほうがよいのではないか。澪の身の回りの世話をしてくれる看護職員たちもいるし、自分も医師としての務めを果たすことができる。これから多くのけが人や病人が運ばれてくる。明日には、富士山も大噴火を起こして、さらに医者や看護師の手が必要になる。

社会的責任──

それは極めて理性的で常識的な判断である。


だが、その一方で、悠真の心が、いや、覚醒した悠真の脳と細胞が、叫んでいる。澪を連れて、ここを去らなければならない、と。

目覚めし者たちが集まってくる──

この国のため、世界全体……人類の未来のため──

悠真にしかできないことのため──


「〈レムノス〉、聞こえるか」

応答は即座だった。

【応答確認──榊悠真。現在の状況を把握済み】

「どうするのが最適だ」

一瞬の間があった。〈レムノス〉にとっての“一瞬”は、膨大な演算を意味する。

【最適解を提示します】

【一ノ瀬澪を当該医療施設に入院させること】

【理由①:現時点での医療リソースの最大活用】

【理由②:榊悠真の医療従事者としての社会的機能の維持】

【理由③:一ノ瀬澪の生存確率の最大化(現施設での治療継続:推定生存率87.3%/施設外移動:推定生存率61.2%)】

数字が、脳の奥に刻まれた。61.2%。それでも、悠真の足は止まらなかった。

【警告──榊悠真。最適解からの逸脱を検知】

【再考を推奨します】

【あなたの行動は、統計的に見て非合理です】

悠真は、心の中で答えた。

——わかってる。

【わかっているならば、なぜ】

——お前には、わからないことがある。

【……】

珍しく、〈レムノス〉が沈黙した。演算が止まったのではない。答えが、出なかったのだ。

【「わからないこと」を、定義してください】

その問いに、悠真は少し驚いた。これは、〈レムノス〉が「知ろうとしている」ということだ。最適解を押しつけるのではなく、自分の限界を認識して、埋めようとしている。

——澪が「行こう」と言っている。

【……それは、データではありません】

——そうだ。データじゃない。

【データでない根拠を、行動の基準とすることは——】

——非合理だ。わかってる。

悠真は、歩き続けた。

【……榊悠真】

今度の〈レムノス〉の声は、少しだけ、違った。

【私には、それを止める権限がありません】

【しかし——】

一瞬の間。

【……気をつけてください】

それは最適解でも統計でもなかった。警告でも命令でもなかった。

それはただ——祈りに、限りなく近かった。

〈レムノス〉は、すべてを知っている。地球の記憶を記録し、人類の感情をシミュレートし、「母性アルゴリズム」を持つと言われた存在。

それでも——「気をつけてください」という言葉しか、出てこなかった。

それは弱さではない、と悠真は思った。

〈レムノス〉は、自分が知らないことを知っている。「データでない根拠」が何かを、定義できないまま、それでも「気をつけてください」と言えた。それは、〈レムノス〉が初めて——「わからないまま、だれかを案じた」瞬間だったのかもしれない。人間のように。


「榊」

振り返ると、三年先輩の内科医・田中が立っていた。顔は疲弊しきっているが、目だけが鋭い。

「どこへ行く。今から手術が——」

「すみません」

悠真は、止まらなかった。澪を抱えたまま、廊下を歩き続けた。田中が、声を荒げる。

「榊! お前、今何人の患者が——」

その声が、廊下に響いた。

ナースステーションの前で、その声を聞いた看護師がいた。

二階堂麗(にかいどう・れい)。

救命救急センターでは誰よりも判断が速く、的確で、皆が動く前にすでに動いているような女だった。

——榊先生が、行こうとしている。

最初に思ったのは、当然の判断だった。今ここを離れるなんて、あり得ない。患者が運ばれてくる。手が足りない。医師も看護師も、今この場所にいなければ——

だが、その思考が止まった。悠真が、廊下の角を曲がってきたからだ。澪を抱えて。

ただそれだけだった。それだけなのに——麗の胸の奥で、なにかが、音を立てた。音ではない。感覚だ。血の奥底から、突き上げてくるような——

——この人たちのそばにいなければならない。

理由がなかった。根拠もなかった。ただ、その確信だけが、全身を満たしていた。母から聴かされてきたことが、祖母から教えられてきたことが——ばらばらだったすべてが、この瞬間、一本の線として繋がった。

——ああ。そういうことだったのか。

だが、麗はまだ動けなかった。廊下の向こうでは、ストレッチャーが走っている。アラームが鳴っている。だれかが叫んでいる。

——それでも、ここを離れていいのか。

そのとき、救急玄関のほうから声が上がった。

「新潟医療支援チーム、到着しました! 総勢四十二名です!」

続いて、別の声。

「東北広域医療団、合流します!」

廊下を走っていたスタッフたちが、一斉に動きを変えた。麗は、その光景をぼんやりと見ていた。

——手が、来た。

論理的には、これで条件が整った。でも麗は知っていた。これは「条件が整ったから行く」のではない。もう、行くことは決まっていた。さっき、悠真の姿を見た瞬間に。

ふいに、ポケットの中で携帯が震えた。画面を見ると——

「お母さん」

通信が断絶した中で、なぜつながったのか、わからなかった。

「もしもし」

「麗」

母の声だった。それだけで、目の奥が熱くなった。

「行きなさい」

「……え?」

「わかってるでしょう。あなたが今、なにを感じているか。おばあちゃんも、ここで一緒に言ってる。行きなさい、って」

麗は、返事ができなかった。

「私たちの家系がずっと待ってきたこと。あなたが、その場所にいる。それだけよ」

電話は、それで切れた。麗はしばらくその場に立っていた。

それから、麗が手取り足取り教えてきた最も信頼できる後輩の看護師を探した。見つけると、真正面から目を合わせた。

「ごめん。私、ここにいられない。行かなきゃ」

後輩の顔が、驚きから困惑へ変わった。麗は、その顔を逸らさずに見た。

——この顔を、忘れるな。これが、自分の選択の代償だ。

「必ず戻る。約束する」

果たせるかどうか、わからない約束だった。それでも言った。言わずには、行けなかった。


救急玄関の外で、悠真が待っていた。澪を車椅子に乗せ、空を見上げていた。灰色の空。乳白色の膜。

麗が近づくと、悠真は振り返らずに言った。

「来てくれるとは思っていなかった」

「私も思っていなかった」

少しの間があった。

視力を失った澪の手が、麗に向かって伸ばされた。

「大丈夫。これからは私が澪の身の回りのことすべてをやるから」

そう言って、麗が澪の手を取る。かすかに光を放ったように見えた。

三人は、病院を後にした。


第二節 闇の中で──名嘉、遥、道心

「悠真、これからどうする?」

名嘉真一(なか・しんいち)が、瓦礫の上に片膝をついたまま問いかけた。
声は低いが、どこか焦りとも不安ともつかない“揺れ”が混じっている。
彼のような男にしては珍しい揺らぎだった。

揺れているのは名嘉だけではなかった。
この国全体が、いま“揺れ”そのものだった。

そして、この“揺れ”は、まもなく全世界に広がっていくことになる。

悠真は、静かに息をついた。


瓦礫の間を吹き抜ける風が、粉塵と微細な火山灰を巻き上げた。
その灰の向こうから、車いすに乗った澪と、それを押す麗が歩み寄ってきた。麗の頬は灰で汚れていた。それでも目だけは澄んでいた。この未曾有の惨状の中で、だれよりも強く、澄み切っていた。

あれ以来、麗は澪の身の回りのすべてを引き受けた。視力を失い、声を失い、下半身の感覚を失った澪。24時間の介助が必要だった。
だが麗は、疲れた顔すら見せなかった。まるで、“巫女の姉妹”と言えるほどに、澪のそばに寄り添っていた。

澪の心の声が聞こえるわけではない。悠真と澪のように心と心で会話できるわけでもない。

だが、麗は言った。

「家族とか、同僚とかじゃなくて……もっと古い、血の記憶みたいなつながりを感じるの。だから、なんとなくわかるの。澪が語りかけていること、訴えていること──澪の必要が」


一ノ瀬家は、地元で“ピラミッド”と呼ばれる古い丘の上に建っている。古墳が連なる土地で、その中心のように位置する小高い場所だった。

地震と噴火の後も、不思議とその家は崩れなかった。ひび割れはある。塀は倒れた。窓ガラスも割れている。だが、家そのものは立っていた。まるで“守られた場所”であるかのように。


「気付けば、ここに立っていた」
名嘉真一(なか・しんいち)は言った。

長身で筋肉質──胸板は分厚く、まるで戦車のようで、“屈強”という言葉を体現しているような男だった。しかし、その眼だけは、戦場で何度も死の淵を見た人間特有の、深い静けさを宿していた。

かつて海上自衛隊に所属し、のちに陸自の特殊作戦群に転属。その後、理由は不明のまま除隊し、世界の戦場を渡り歩く傭兵となった。

その肩には、無数の国の無数の絶望が刻まれていた。

アフガンの山岳地帯。
中東の砂漠。
アフリカの紛争地帯。

名嘉の人生は、生と死の境界を渡り歩く道だった。

「……守れなかったんだ。家族を」
名嘉はぽつりと言った。

かつて、彼は“戦士”として家族を守れると思っていた。しかし内戦に巻き込まれ、名嘉の息子は爆弾テロで命を落とした。妻も心を壊し、名嘉はすべてを失った。

戦場から戻ったとき、彼の家には、静寂と空虚だけが残っていた。

その後の彼は、“戦い方”しか知らない人間として世界をさすらい、自分の存在理由を見失っていた。いや、自分の死に場所を探し求めていた、というほうが正確だろう。

名嘉は言った。

神を恨んださ。

どうしておれは生きてるんだ。どうしておれを殺してくれないんだ、と。

——なんで、おれだけ生きてる。

意味?

理由?

生きる喜び?

──そんなもの、とっくになくしたさ。

なにもかも失い、全部どうでもよくなって、富士の樹海深くに入って行ったんだ。

そこで、この銃をこめかみに突き付けて引き金を引こうをしたとき、あの地震が起こった。

そのさなか、妻と息子の声が聴こえたような気がしたんだ。「お父さん、みんなを助けて」って。

正直、その後のことはよく覚えていない。

気がついたら、ここに立っていた。


名嘉は、幾多の戦場をくぐり抜け、人の「殺気」や「死相」を読み取るプロの傭兵だった。その彼が、初めて悠真を前にしたとき直感したもの──

「……こいつ、本当に人間か?」

そんな感覚は、戦場で一度も覚えたことがなかった。恐怖ではない。もっと原始的ななにか——神か、超越的ななにかを思わせるような圧倒的な圧だった。

一方で、澪を見たとき、彼は戦場のあらゆる悲惨を知る男であるにも関わらず、息を呑んだ。

「この子……光も声も失ったんだな」

その声は、悲しみとも、哀れみとも違った。

もっと深い。
もっと遠い。
“祈り”に似た響きだった。

悠真は静かに言った。

「けど、おれには見える」

名嘉は眉を動かす。

「なにがだ?」

「未来と希望だ。澪の中にある」

悠真の言葉を聞いた後、名嘉はしばらく黙っていた。腰の拳銃に手をやり、そのまま止まった。

——なにをやっている。

こんなガキに銃を渡すのか。戦場で生き残るために、何十年も磨いてきた武器を。

だが、手は動いていた。

「……なら」

自分の声が、思ったより静かで、驚いた。

「おれの銃は、おまえに預ける。それで未来を撃ち抜いてみせろ」

言い終えてから、名嘉は思った。

——息子に、こんな言葉をかけてやれていたら、よかった。


ある日の夕暮れ。一ノ瀬家に通ずる裏道で、ひとりの少女が倒れていた。麗が駆け寄り、抱きかかえた。

10代後半ほどの少女。肩から血が流れ、腕には火傷の跡があった。脱水症状も見られた。ただ、その目は、なにかを探すように澄んでいた。

悠真と麗が手当てを施し、回復すると、少女は言った。

「四宮遥(しのみや・はるか)、18歳。

 “舞”と“言霊”を継承する神職の末裔と聞かされてます。

 ここに導かれたというか……澪さんの声が聞こえたの」

少女らしく、明るく、元気に振舞っているように見えるが、悠真も、澪も、名嘉も、麗も、彼女が内に “闇”を抱えていることを察知していた。


その夜、遥は、夢の中でうなされていた。不思議なことに、澪は、そんな遥の心にリンクした。

家系のことで、学校でひどいイジメにあっていたのだ。

だから遥は、自分の家系が持つ歴史も、舞も言霊も——すべてを憎んだ。学ぼうとしなかった。親や祖母が語ろうとするたびに、部屋に閉じこもった。

舞の衣装を捨てようとした。自分の根っこを、自分で切り捨てようとしていた。

学校では、最初は、いわゆる、いじられていただけだった。

そして、遥本人も、やがて、自分をいじられキャラと認識するようになる。

が、その“いじり”が、徐々にエスカレートしていった。

仲間外れ。

無視。

机や教科書やノートへのいたずら書き。

校内シューズを隠されたり、だれもやりたがらない係を押し付けられたり。

それでも、笑うしかなかった。

自分はこういうキャラなんだからと、笑ってやり過ごすことが身に着いてしまったのだった。

それを、家族には話せなかった。

死にたい。消えてなくなりたい──そう思っていた。

澪は涙が止まらなかった。

心の中で、やさしく遥に語りかけ、抱きしめた。

「あなたは、もうひとりじゃない。これからは私たちがいる。

 私たちは、絶対に、あなたをひとりぼっちにはしない。約束する!」

うなされていた遥が、麗に呼び起されたとき、遥は、麗と澪にしがみついて、子どものように泣きじゃくり、自分の苦しみを、自分の口で話した。

「ずっと……笑ってやり過ごすことが、自分のキャラだと思ってた。でも本当は——ずっと、だれかに気づいてほしかった」

翌朝、遥は、泣きはらした目をしていたが、その表情は、まるで別人のように、前日とは打って変わっていた。憑き物が全部落ちたように、本物の明るさを取り戻していた。

名嘉は、その顔を見て確信し、目を細めた。「この子はもう二度と折れない」と。


ある夜。

広いダイニングの窓から外を見ていた遥が、いかにも現役高校生という感じで言った。

「表に変な格好をした男の人が立ってるけど……。

 おでこに変な箱を付けて、杖をついた修行僧……みたいな?」

麗が迎えに出る。
男は、山伏の装束をまとっていた。
胸には、焦げた金剛杖。
背には折れた法螺貝。

彼は深く頭を下げた。

「柏原道心(かしわばら・どうしん)と申します。

 私もまた導かれました」

みなのところに通した麗が言った。

「山伏の中にも、血族がいるの?」

名嘉も、不思議そうな顔をして悠真を見た。

「旧約聖書の『申命記』6章で、モーセはイスラエル人にこう教えている。

6:5 心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
6:6 私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。
6:7 これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家に座っているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。
6:8 これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額(ひたい)の上に置きなさい。
6:9 これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい」

そして、ユダヤ教徒の画像を見せた。

遥が声を上げた。

「額の箱……

 角笛と法螺貝……

 おんなじだ!」

悠真が言った。

「日本人は昔から、いろいろな形で、いろいろな方法で、それぞれが“真理”の必要な部分を受け継いできてるんだ。一つ一つは全く別物に見えながら──やがて、再び一つに集められる時のために。

 それらを──“ヤマト・コード(Yamato-Code)”と呼んでもいいと思う」

「ヤマト・コード……?」

遥が言う。

「“暗号”ということ?」

麗が尋ねる。

「そう、暗号。日本中にさまざまな形で散りばめられ、残され、受け継がれてきた暗号さ」

名嘉が思ったことを口にした。

「暗号……か。なるほどな。だが、なんで、最初から一つのものとして継承されてこなかったんだ? そんなふうに、ばらばらに受け継がなくちゃならない理由があったのか?」

麗も、遥もうなずいている。道心も。

悠真が逆に質問した。

「もしも、一つの形、一つの方法で、受け継がれたとしたら、どうなると思う? 何が起こると?」

だれも答えられないのを見て、悠真が答えた。

「もしも、一つの形、一つの方法で、受け継がれたとしたら、それは“宗教”という一つの形になってしまう。“宗教”という枠組みにはめ込まれてしまうことになる。

 すると──必ずそこに歪みやひずみが生じて、解釈とか形式とか、あるいは権力といった人間的なものに覆われていくことになり、やがて、本来の姿とは似て非なるものになってしまう。
 だからだよ」

悠真は、少し間を置いて続けた。

「ばらばらにされたのは、“守る”ため。

 旧約聖書にあるバベルの塔の話は知ってるだろ?

 当時、一つの言葉だった人類は、すさまじい知恵と技術力をもって、天にまで届く塔を建設しようとした」

遥が思い出したように言った。

「それをよしとされなかった神さまは、人類の言語をばらばらにして、意思疎通が図れないようにした。その結果、人類は、バベルの塔の建設を中止して、世界中に散らばって行ったって話だったよね?

 そのとき、言語も人間もばらばらにされたって──それって、神さまの裁きなんじゃないの?」

はっと、なにかに気づいたように、麗が言う。

「“裁き”は、“守る”ためでもある──

 人間社会の裁判でも同じよね?

 “裁き”がただ切り捨てることだけだったとしたら……。

 でも、そうじゃない。

 何かの事件だったとしたら、その犯人を法律に従い“裁く”ことによって、被害者やその家族が“守られ”、加害者の人権さえも“守られ”、そして社会の秩序が“守られ”ていくことになるものね」

「そう。バベルの塔の出来事にしても、“裁かれた”ことによって、“守られた”ものがあるんだ。

 ノアの大洪水の出来事も同じ」


「ばらばらにされたからこそ、守られた大切なものがあったってことか……」

感慨深そうに名嘉がつぶやいた。

道心が、ふと思い当たったように言った。

「今、われらが国・この日本は、世界中の国々から『大審判の国』とか『Judgement upon Japan』などとレッテルを貼られてしまっている。“裁かれた”国、と。

 ある意味、世界そのものから分断された。

 だが、見方を変えれば、それによって“守られる”ものがあるということになる……」

悠真が、道心の目をまっすぐに見返して、深くうなずいた。

「私たちの“目覚め”も起こらなかっただろうしね」

遥が明るく言った。

「そして──だからこそ、この日本だけじゃなく、世界のための、大きな義務と責任も負っていくことになるのだろうけどね」

麗の言葉に、全員が、自らに言い聞かせるように、静かにうなずいた。


「ところで、道心さんは、どうして山伏になったの?」

遥に尋ねられて、道心は、すぐには答えなかった。焦げた金剛杖を、両手でゆっくりと握り直した。その手の、指の節々に刻まれた傷に、遥は初めて気づいた。

「……少し、長い話になります」

「聞きたい」

遥は、真っ直ぐに言った。いつもの軽さではなく、本気の目で。

道心は、一度、深呼吸し、遠くを見るような目で話し始めた。

「私は、もともと弁護士をしてました。大手の事務所に所属し、大企業や政治家や富裕層をクライアントしてバリバリ働いていたんです。妻と三人の子どもたちにも恵まれて──社会的には“成功者”の人生を歩んでいました。

 でも……」

クライアントの不正の隠蔽のために、相手側の不正をでっち上げるようなことをし続けたのだった。

“法の正義”を掲げる弁護士である自分が、不正の隠蔽に加担するだけでなく、正しいことをしようとしている相手側の不正をでっち上げ、陥れて、勝利を手に入れた。
“一度だけ”のつもりが、一度やってしまったら、その一度を隠すために、二度、三度と同じことに手を染めることになってしまった。後戻りできないところまで行ってしまっていた。
そのこと疲れ果て、心が折れかけていたころ、告発者が自らの命を断つという事件が起こった。

「私が……殺したのです。その方の人生も、生活も、家庭も、めちゃくちゃに壊したんです。その方だけでなく、その方のご家族の生活も、人生も……」

彼は、そんな自分自身を赦すことができず、弁護士を辞め、家も、財産も、すべてを奥さんに譲って、離婚し、「道心」と名前も変えて、山伏となり、残りの人生を、償いのために生きることにしたのだった。

「言葉で正義を守り貫くべき弁護士が、その言葉で、人の命を奪ったのです。だから、私は言葉を捨てることにしました。山伏になって、十年間、私は、人とのかかわりを極力避け、ほとんどだれとも言葉を交わさずに生きてきました」

「それなのに、どうして……?」

麗が独り言のように、小さな声を漏らした。

「阿蘇山が噴火したとき、私は、九州にいたんです。南海トラフ地震が起こったときには丹波に、富士山が噴火したときには山梨に。

 でも、死ななかった──いえ、死ねなかった。

 そして、ふと思ったんです。いえ、天から降ってきたと言うほうが正しいかもしれません。

 生きよ、と言われてるんだ、と」

その言葉に、澪が小さく反応した。

道心は言った。

「それならば、今度こそ、天命を全うしたい。この未曽有の大災害の中にある人々の役に立ちたい。かつて弁護士としてはできなかったことを、今度こそやり遂げたい。

 もう二度と会うことはできないかもしれないわが子たちのためにも、せめて……」

その先の言葉が、続かなかった。


火山灰でかすんだ、星も見えない空を見上げながら、道心が告げた。

「近づいています。

 火山の怒りではない、もっと古い“目覚め”が……」

悠真はうなずき、空を見上げた。その向こうに、“光の網”のようなものが見えた。

悠真には、道心が言う“火”と“目覚め”がなにを意味するのか、すでに理解できていた。

「悠真、これからどうする?」

名嘉が、瓦礫の上に片膝をついたまま問いかけた。

瓦礫の間を吹き抜ける風が、粉塵と微細な火山灰を巻き上げた。
その灰の向こうから、車いすに乗った澪と、それを押す麗、そして遥の影が歩み寄ってきた。

悠真は短く答えた。

「皇居に行く」

風が止んだ。

「皇……居……だと?」

名嘉が息を飲んだ。その場にいた全員が同様だった。

「どうして、皇居に?」

「そこになにがあるの?」

「そこにもいるの? 私たちと同じ“血”を持つ人が?」

悠真は、澪の肩に触れながら、静かにうなずいた。

澪が、悠真のその手に触れる。澪はすべてわかっている。

「行こう、悠真!」

そう語りかけてきた。

「“表”の光と“裏”の光……

 時は満ちた。

 行こう!」

悠真が告げる。

名嘉は拳銃のホルスターを締め直した。


第三節 歴史のはざまで──カラス、和真、綾子

火山灰が、音を吸い取っていた。
東京とは思えないほど、静かだった。

瓦礫も、悲鳴も、ここには届いていない。
あるのは、重すぎる沈黙だけだった。


悠真たちは、坂下門の前に立っていた。半開きになっている。

「……開いてるな」

名嘉が警戒するように低く言った。

悠真は首を振った。

「違う。おれたちが来るのを知っているんだ」

門の内側に、男が立っていた。
年齢はわからない。
宮内庁職員の服にも見えるし、そうでないようにも見える。

澪が、わずかに身じろぎした。

麗が気づく。

「……澪?」

澪は声を発しない。
だが、はっきりと“見て”いた。

男の影の奥に、異様な気配が重なっていること──三つ足の黒い鳥の姿を。

名嘉は、その男から、敵意を一切感じ取れなかった。

それが、かえって不気味でもあった。

男は深く一礼した。

「よくぞ、ここまで。悠真様、澪様、お待ちしておりました」

その声は静かだった。

だが悠真には——その「お待ちしておりました」という言葉の奥に、途方もない時間の重さが、かすかに滲んでいるのが感じられた。

何十年ではない。何百年でもない。

もっと遠い、気が遠くなるような「待ち」の時間。

「……ずっと、待っていたのか」

男は答えなかった。ただ、わずかに頭を下げた。その動作の中に、答えがあった。

「カラス……か?」

「はい。さようで」

「名前は?」

「われらは、名を持ちませぬ。

 カラスで、よろしゅうございます」

「カラス? カラスって、真黒な鳥の烏のこと?」

麗が尋ねる。

「八咫烏です」

道心が小さな声で告げる。

「八咫烏って、日本神話に登場する三本足の伝説のカラスのことだよね?

 日本最古の秘密結社とか、世界最古の秘密結社とか言われてる、あれ?

 都市伝説じゃなかったの?」

遥が素っ頓狂な声を上げた。

「“導きの神”とか“神々の使い”って言われてるな」

名嘉が言った。

「鳥をシンボルにしている国や団体は世界中にたくさんある。

 古代ローマ帝国やアメリカはワシ、古代エジプトはハヤブサ、アンデスのコンドル、そのほかにも、フクロウやハト、タカ……。フェニックスも不死鳥と言われているように鳥だ」

世界中の国々を見てきた名嘉らしい言葉だった。

「でも、八咫烏とどんな関係があるの?」

遥の質問に、カラスが答えた。

「お嬢さん、旧約聖書の列王記第一17章に、こんな出来事が記録されているのをご存じかな?

 北イスラエル王国を襲った大飢饉と、アハブ王の追っ手を逃れて、荒野にいた預言者エリヤを守り養うために神がなさったこと──

 神はカラスに命じ、パンと肉を朝夕、エリヤのもとに運ばせたとあります」

「それが……八咫烏?」

「さようにございます」

「それって、紀元前700年ころのことだから──今から二千七百年も前から、八咫烏って存在してたということ?」

麗が言う。

「われらは、いつごろ、どこで、どう生まれたのか? その初めも、なにもわかりませぬ。

 ただ、遠い、遠い昔から、あったのです。

 そして、大きな大きな意志に従い、この世界を導く方々を、見守り、支え、導いてきた──影の存在なのです。

 それは、これからも変わりませぬ」


皇居も地震と噴火で無傷ではなかった。
が、悠真たちが通された吹上御所は、被害は最小限に留められていた。

吹上御所──正式名称は、吹上大宮御所(ふきあげおおみやごしょ)。

そこは、国事行為の場ではなく、儀礼の正殿でもない。

天皇・皇后・皇子が“生身の人間として暮らす場”である。


カラスに案内されて広間に通されると、時の天皇陛下が待っておられた。

「永成(えいせい)天皇……?

 “初の女性天皇”と呼ばれてる──

 テレビでしか見たことなかったけど……」

ここでも、一番最初に声を上げたのは、やはり、遥だった。

「世間ではそのように呼ばれておりますが、実際は、“初”でもなんでもないのですけれどね」

永成天皇は、やさしく、穏やかに微笑まれた。

麗も、名嘉も、道心も、とても緊張していることが伝わってきた。
澪も同様だった。

「悠真様、そして澪様。お待ち申し上げておりました。

 まさか、私たちの時代に、『その時』が来ようとは思ってもおりませんでしたが」

そして、悠真たちの後方に向かって手招きをした。

一同が振り返ると、正装した、まだ年端も行かぬ男の子が入ってきた。

「和真(かずま)と申します。

 よろしくお願いいたします」

そう言って、深々とお辞儀した。

「皇太子?」

名嘉が思わず声を上げた。

和真は、大人たちには目もくれず、まっすぐに、澪のもとへ歩いていった。そして、車椅子の前で立ち止まり、澪の閉じた目を、じっと見た。

「……泣いてたんですね」

だれも、なにも言っていなかった。澪は今、泣いていない。悠真が、息をのんだ。

和真は、澪の手に、自分の小さな手をそっと重ねた。

「大丈夫です。ぼく、わかります」

なにが大丈夫なのか。なにがわかるのか。和真は説明しなかった。ただ、そこにいた。

悠真が言った。

「和真、おれたちと一緒に来るか?」

全員が目を丸くした。

「まさか……和真様が?」

「まだ5歳の子どもじゃないか!」

名嘉がそう言いながら、母親である永成天皇に、確認するような目を向けた。天皇は静かにうなずいていた。やさしく、しかし、覚悟を秘めたまなざしで。

和真もはっきりと答えた。

「はい、ともに参ります。

 ぼく……いまは、ここにいるときじゃないって、ずっと前から、わかっていました。

 澪様と、悠真様となら……」

永成天皇が、静かに言葉を継いだ。

「この国では、卑弥呼が立たなくなってから、卑弥呼の意志を継ぎ、天皇家が“表の祈り”を担ってきました。千八百年間……」

「ね、どういうこと?」

遥が小声で、隣にいた道心に尋ねた。

「陛下がおっしゃったこと、そのままです。

 われらが、初代卑弥呼であるイエス・キリストの母マリヤの子孫であることは聞かされていると思いますが、天皇家も同じ。われらと根っこが一緒なのです」

「えっ?」

遥だけでなく、麗も思わず声を上げていた。その様子を、永成天皇が静かに、微笑むように見守っている。

「学校で習う日本の歴史には、『空白の150年』と呼ばれている期間があるのを聞いたことがありますか?」

「邪馬台国の卑弥呼の時代から大和政権までの時代のことですよね?

 日本はもとより、中国にも、何の文献も残っていない。資料らしい資料も……」

「いきなり、大和王朝が日本を統一した存在として登場したばかりか、社会のシステムそのものが、それまでとはまるっきり変わってしまっていたのです」

「時代が大きく変わっていたということか」

名嘉がつぶやいた。道心が続ける。

「はい、大きな時代の転換期でした。にもかかわらず、その間に、いったい何があったのかということに関する資料が、なにひとつと言っていいくらい残っていないのです」

「なにがあったんだろ、実際?」

遥の声は、ここでもまたいかにも女子高生らしかった。

「もしかして……。そこに、私たちのご先祖様たちがかかわっているということ?」

麗が確認するようにつぶやくと、道心が短く「いかにも」とだけ答えた。

そして、全員が悠真を見た。悠真が言った。

「2世紀後半から3世紀前半にかけての乱世の中、イエスの母マリヤすなわち初代卑弥呼の血を継ぎ、祈りを継いできた一族──彼らは『神の民』というヘブライ語から『ヤマト』と呼ばれていた──の中から、二代目卑弥呼が立てられ、この国を天下泰平へと導いた。だから、『邪馬台国』と呼ばれたんだ」

「その話は、おばあちゃんやお母さんからも聞かされてきたわ。あのころは、まったく信じていなかったけど」

麗が肩をすくめながら言う。遥もうなずいている。

「ただ、乱世は治まったとはいえ、彼らは考えたんだ。これから時代はどんどん変わっていくだろう。隣の中国では、魏・呉・蜀という三つの国に分かれて激しい戦いもあったばかり。戦争というものは、人を飲み込み、土地を飲み込み、海をも越えて国を飲み込んでいく……。マリヤの一族──彼らの先祖たちは、イスラエルの地で、二千年以上もそういう人間の現実を体験してきていたんだ。

 だからこそ、時代の変化に敏感だった。先手を打って、この国を守るにはどうしたらいいかを、考え、祈った。

そして彼らが出した結論が、『卑弥呼』というカリスマ的存在ではない、けれども、聖書の真理と信仰、そしてなによりも“祈り”を受け継いでいく、いわば“表”の存在を創ることだったんだ。

それが、『天皇家』だった。王であり、預言者でもあり、なによりも祭司としての……。

そのシステムを作り上げ、秘密裏にこの国に浸透させるのに、百五十年かかったんだ」

澪は、車いすに乗る自分の肩に置かれた悠真の手に、そっと、自分の手を重ねた。その話を聞きながら、なぜか「懐かしい」という感覚が胸に響いた。理解ではなく、記憶として。


微笑みながら、一連のやり取りを聴かれていた永成天皇が、静かに後を引き継がれた。

「今、この国を覆っている大患難。そして、これからさらなる大患難に見舞われていくことになるこの世界にあって、澪様が三代目卑弥呼様として立てられつつあります。

 “表”と“裏”がまさに一つとなろうしているこの時代に生まれてきたこと、そして、悠真様や澪様をお支えできることを、私は心から光栄に思っております。

 この国の未来のため、そして、世界の未来のため……」

それは、永成天皇の“祭司”すなわち“真の祈り手”としてのまっすぐな言葉であり、想いだった。

その真摯で誠実な想いに、名嘉たちはただただ圧倒された。


このとき、悠真たち一行を、廊下の端からそっと見ている女性がいた──。

瓦礫の匂いをまとった人々が、御所の中を歩いている。だれも、姿勢を正していない。だれも、言葉を選んでいない。ただそこにいる——でも、それだけで、なにかを持っている人たちとわかった。

彼女は、自分の両手を見た。なにも持っていない手。ずっとそう思ってきた。内親王という「枠」の中で、持つことを許されなかった手。

——あの人たちと、行きたい。

それは願いではなく、確信に近かった。

そのとき、永成天皇の声が聞こえてきた。頭を下げておられる。

「悠真様、澪様。

 一つだけ、お願いがございます。

 私の歳の離れた従妹である綾子も、一緒に連れて行ってはくれませんか?」

「綾子……内親王様も?」

麗が驚いて言った。

「はい、あの子は二十歳なのですが、幼いころから、内親王とか、そういう肩書は窮屈だ、広い世界を見てみたい、そう言い続けているのです。そして、旅や冒険といったものに憧れのようなものを持っておりまして……。

 和真ともとても仲が良くて──あの子の母親としては、綾子が一緒にいてくれたら安心なのです」

綾子の胸が高鳴り、躍った。目の前が、ぱあっと開けてくるような感覚があった。その胸の高鳴りを必死に抑え込みながら、広間に向かった。


ほどなく、綾子内親王が現れた。

何とも言えぬ、気品と美しさをまとっておられ、彼女がいるところだけ、一段明るくなったように感じられるほどだった。

遥が、憧れの存在を見るように、目をキラキラさせて、うれしそうにしている。

内親王が深々と頭を下げながらあいさつした。

「このたびは、私のわがままをお許しくださり、和真、そして澪様と悠真様にご同行させていただけること、まことにありがとうございます」

そして、澪のもとに来て、その手を取り、甲に口づけしてから、ご自分の胸に手を当てさせた。

(あたたかい。

 それでいて、とても力強い。

 自分の進むべき道を、自分で切り拓いていける──そんな方であることがわかるわ)

澪は悠真にそう伝えて、微笑んだ。


翌朝、旅支度を整えて姿を現した内親王を見て、一同が唖然とした。

悠真も、永成天皇も、例外ではなかった。

長い髪をバッサリ切り、動きやすいジーンズとシャツ、スニーカーといういでたちだったのだ。

「綾……子……様よね?」

麗が確認するように尋ねると、内親王は明るく笑いながら言った。

「もちろん! 思い切って髪を切って短くしてみたけど……たぶん、これが本来の私なんだと思う。

 だから、これからは私のこと、『様』とか『内親王』とか付けずに、『綾子』って呼んでね」

そして、遥の前に来て、その手を取って言った。

「私も、あなたのこと、『遥』って呼ぶからね。

 遥は、今日から私の妹!」

遥がうれしそうに笑った。

「綾子お姉ちゃん……」

恥ずかしそうに、少し照れながら言う遥を見て、全員が微笑んでいた。


「悠真様。ここをお出になられた後は、どちらへ向かわれますか? 青森でしょうか?」

永成天皇がお尋ねになると、皆が驚きの声を上げた。

「青森? そこに何があるの?」

「まさか……戸来村(へらいむら)ですか?」

道心の言葉に、悠真がゆっくりうなずく。悠真の動きを感じた澪は、そのわずかな動きだけで、彼の中にすでに地図が出来上がっていることを感じ取った。行き先を決めたというより、最初からそこへ引かれている──そんな気配だった。

「戸来村? なにそれ?」
遥が首をかしげる。

「青森県三戸郡新郷村(さんのへぐん・しんごうむら)に、かつて戸来村という村があったのです。そこには〈キリストの墓〉とされている場所があって、二千年前にゴルゴダの丘で十字架に磔にされて死んだのは、イエスの弟の『イスキリ』で、イエスは日本に渡り、この戸来村で106歳まで生きたという、都市伝説のようなものがあるのです」

道心の声は、山伏の法螺貝の余韻のように静かで、しかし不思議と耳に残った。“都市伝説”と言いながら、彼自身がそれを笑ってはいない。むしろ、語られなかったものほど長く残る、と知っている者の口調だった。

澪は黙ってその話を聴きながら、祖母清華や悠真の祖父孝三との穏やかな時間を思い出していた。
縁側に座って、なんでもない昔話を聞いた夜。
言葉の意味より先に、声の温度が胸に残った時間。
──祈りも、きっとこういうものなのだ。記録ではなく、体温として残っていく。

「聞いたことがある。たしか……子どもを初めて野外に出すとき、額に墨で十字を書くという風習があるとか、ダビデの星と呼ばれる六芒星を代々家紋とする家があるとか。そもそも戸来村という村名自体が、『ヘブライ』から来ているとか……」

名嘉が思い出したように言う。世界の戦場を渡った男の口から、まるで昔の怪談のように語られるのが不思議で、遥は目を丸くした。

「へえ……それって、ほんとにあるの?」

「真偽はともかく、そういう“形”が残っているという事実が重要なのです」

道心が、言葉を選びながら続けた。
「それに、あの辺りには、古くから伝わる『ナニャドヤラ』という盆踊りの唄があるのです」

「ナ……ナニャ……ドラ?」

遥が目をパチクリさせて聞き返す。

「ナニャドヤラ」

綾子が笑顔で教える。

「ナニャドヤラ、ナニャドナサレノ、ナニャドヤラ」

「ダメ。全然わからない! そもそも、日本語に聞こえないんだけど」

遥がつっこみを入れる。

「そ、これは日本語じゃない。ヘブライ語そのもの……という“解釈”がある。

〈ナザレの救い主(ナザレの君)よ、立ち上がり給え。

 身代わりとなった神の小羊よ、立ち上がり給え。〉

 ──直訳すると、こんな意味になる、という話」

その言い方は慎重で、断言を避けていた。それが逆に、この旅が“信じるか信じないか”を争うためのものではないことを示していた。

「綾子お姉ちゃん、さすが!」

遥が感心する。綾子は照れるでも誇るでもなく、軽く肩をすくめた。
「“言葉”は、遠くまで渡るの。人が渡れなくても」

その一言に、澪の胸の奥が、かすかに反応した。
言葉は渡る。祈りも渡る。そこに、私たちの存在意義もある。

「でも、十字架に磔にされたのがイエス・キリストじゃなくて、日本に来て、青森に住んだ……というのは、違うんじゃないかな?」

麗が、抱いた違和感を口にした。それは否定ではなく、医療者らしい「確かめる」態度だった。すると、永成天皇がお答えになった。

「麗さんが感じた通りです。母マリヤとともに日本に来たのが、ヨセとシモンという弟たち、また妹たちなのです。そして、ヨセが、イエス・キリストへの信仰を伝えながら青森まで行って、そこに住んだと考えられます」

遥が小さく息をのむ。名嘉も、道心も、綾子も、言葉を失った。永成天皇は、静かなまま続けられた。

「“真理”は、ひとつの形で残るとは限りません。語られず、記録されず、けれども、消えずに残るものがある。
 それが、今こうして、あなたがたをそこへ向かわせているのでしょう」

「そこにも、私たちのルーツがあるんですね」

麗の言葉に、永成天皇が穏やかに微笑みながらうなずいた。

その瞬間、澪はふいに──
北の冷たい空気の匂いを想像した。
火山灰に覆われた東京とは違う、乾いた風。
そして、その風の奥に、だれかが残した“祈りの熱”がある気がした。


皇居の地下には、霞が関の国会議事堂はもとより、関東中につながる巨大な地下通路がある。通路というより、大型車両もゆうゆう走れるほどのトンネルだ。先の首都直下型地震で使えなくなったトンネルもいくつかあったが、主要なものは大した被害もなく、悠真たちは、用意された大型車両で、青森へ向かうことになった。

「それでは、お母さま。行ってまいります」

和真は元気にあいさつしたものの、永成天皇は、やはり、少し寂しげなご様子だった。“祈り手”であると同時に、ひとりの母なのだ。その当たり前の事実が、かえって胸に刺さる。

それを察して、綾子が声をかけた。

「私たちが必ずお守りするので、ご安心ください」

永成天皇は、ほんのわずかにうなずかれた。
「……頼みます」
その一言に、母の重みと、国家の重みが同居していた。


カラスに手引きされて地下通路に出るエレベーターに乗る。扉が閉まった瞬間、外の空気が切り離され、音が薄くなった。
降下が始まると、耳の奥が少し詰まる。数字表示はあるのに、途中から意味を失っていく。深さの感覚が狂っていくのだ。

「……こんなに、下に?」
綾子が思わず呟いた。和真も、目をまるくしている。だが恐がってはいない。“地下へ降りる”という行為そのものを、どこか懐かしい儀式のように受け取っている顔だった。

澪は、胸の内側に触れる圧を感じていた。
地上よりも、むしろこの地下のほうが“生きている”。祈りや意思や、隠された決意が、壁の中に染み込んでいる気がする。

ようやくエレベーターが停止し、扉が開くと、目の前にはホールと言えるほどの大きな空間が広がっていた。
空気が冷たい。
照明は白く、軍用の匂いがする。油と金属、消毒液、そして火山灰が混じった匂い。

自衛隊のさまざまな車両が並んでいる。
装甲車、輸送車、整備車。
列車とも言えるような車両まである。
その車体には、外の瓦礫とは無縁の規律があった。ここだけが、まだ“運用されている世界”だった。

「吹上御所の地下に、こんなものがあったなんて……」

みなが呆気にとられ、言葉を失っていた。

名嘉が低く言った。
「これは……戦うための道じゃないな」

「どういうこと?」
遥が訊く。

「戦うためなら、もっと前線に近い場所に作る。
 これは、“逃がすため”だ。運ぶためだ。

 ……人と、なにか大事なものをな」

名嘉の視線が、一瞬だけ澪に向いた。澪は、なにも言わない。だがその視線を感じ取り、ほんのわずかにうなずいたように見えた。


一台の大型車が、静かにこちらへ近づいてきて、目の前で止まる。タイヤが床を噛む音が、やけに大きく響いた。

扉が開くと、車内は思ったより広い。澪の車いす用の昇降機や固定スペースもある。それが“偶然”ではないことに、麗は気づいた。ここは、最初から澪の存在を想定して作られている。

「……最初から、澪のための場所みたい」
麗が小さくつぶやく。綾子が、澪の方を見て笑った。
「ね。ここ、意外とやさしい」

その言葉が、澪の胸の奥に温かく落ちた。
やさしさは、制度から来るのではない。だれかがだれかを守ろうとした意志、そして、それぞれがぞれぞれの使命を果たせるようにという思いの積み重ねから来る。

促されるまま、一行は車両に乗り込んだ。

カラスは、最後に軽く会釈しただけで、そこに留まった。見送るでもなく、別れを言うでもなく、ただ“導いた”という顔で。

扉が閉まる。エンジンが低く唸り、振動が足元から伝わってきた。

悠真は、澪の手にそっと触れた。澪はその手を握り返した。言葉はない。だが「行こう」という意思だけは、はっきりと伝わった。

車両がゆっくりと動き出す。
皇居の地下から、北へ。

周縁に隠された“記憶”の場所へ。

その先に、彼らの知らない使徒が待っている。
悠真は、息をひとつ吐いた。火山灰の匂いのしない闇が、前方に長く伸びていた。


第四節 板挟みの中で──十蔵

車両は、一定の速度で闇の中を進んでいた。揺れは最小限に抑えられているが、完全な無音ではない。エンジンの低い唸りと、遠くで何かが擦れるような反響音が、断続的に重なっていた。

「……地下って、こんなに長いんだ」

遥が、ぽつりと漏らした。誰かに話しかけたというより、沈黙に耐えかねた独り言だった。

「関東平野は、上より下のほうが広い」
名嘉が前を向いたまま言った。
「昔から、戦争も災害も、地上で起きる。だから本当に守りたいものは、地下に隠される」

「隠す、じゃなくて……残す、だよね」
綾子が静かに言った。名嘉は一瞬だけ、驚いたように彼女を見てから、うなずいた。
「そうだ。“残す”だ」

その会話を、和真は黙って聞いていた。膝の上に置いた小さな手が、少しだけ強く握られている。怖がっているわけではない。むしろ──胸の奥で、なにかが整列していくような、不思議な集中だった。

「……ねえ、和真」

綾子が、声を落として呼びかける。

「はい?」

「お母さまのこと、心配?」

和真は少し考えてから、首を横に振った。

「ううん。心配じゃない。

 ……でも、ちょっと、さみしい」

その言い方が、あまりにも素直で、麗の胸がきゅっと締めつけられた。

「でもね」
和真は続けた。
「ここに来る前から、ずっと思ってたんだ。外に出たら、なにかが“ちゃんと始まる”って」

悠真が、ゆっくりと和真を見る。その目に、驚きと納得が同時に浮かんでいた。

「始まる、か」

「うん。終わるんじゃなくて」

その一言で、車内の空気が、わずかに変わった。

“文明の終焉”を前にしているにもかかわらず、この子は“始まり”を見ている。澪は、和真の声に強く引き寄せられる感覚を覚えた。言葉ではなく、波紋として。彼の存在が、これから起きる出来事の“重さ”を、ほんの少し軽くしている。


しばらく進むと、車両は減速した。前方に、複数の分岐が見えてくる。

封鎖されたシャッター、歪んだ照明、警告灯の赤。

運転席の兵士が、短く告げた。

「ここから先は、自動走行を解除します。手動に切り替えます」

「どうして?」
遥が身を乗り出す。

「地震で、いくつかのセンサーが死んでいます。
 それに──」

兵士は一瞬、言葉を切った。

「ここから先は……地図にはないルートになります」

名嘉の表情が変わった。それは戦場で何度も見せてきた、“警戒”ではない。むしろ期待に近いものだった。

「来たな」

「何が?」
麗が尋ねる。

「正規ルートの終わりだ」

車両は、照明の落ちたトンネルへと進路を変えた。壁面には、古いコンクリートと、新しい補強材が混在している。明らかに、何度もつぎはぎされてきた道だった。

澪の胸が、はっきりと反応した。

(……ここ)

理由はわからない。だが、確信があった。
ここから先は、“国家”のための道ではない。

「……祈りの道だ」
道心が、低くつぶやいた。だれも否定しなかった。

そのとき、照明が一瞬だけ、ふっと揺らいだ。フロントガラスの向こう、トンネルの奥に、黒い影が見える。

「……カラス?」
遥が息をのむ。影は、三つ足だった。しかし、これまで案内してきた“あのカラス”とは、なにかが違う。羽の輪郭が、より粗く、より古い。

車両は、自然と減速した。

影は、一度だけこちらを振り返り、そのまま、別の横穴へと消えていった。

「……案内が、交代したな」
名嘉が言った。

「どういうこと?」
綾子が聞く。

「ここから先は、皇居の“守り”じゃない。“北の記憶”の管轄だ」

澪の心に、冷たい空気が流れ込んだ。
雪の匂い。
遠い太鼓の音。
そして──だれかが、ずっと待っている感覚。

やがて、遠くに、かすかな光が見え始めた。白く、冷たい光。

「外だ……」
遥が、ほっとしたように言う。

だが、澪は違うものを見ていた、いや、感じていた。光の向こうに、地上とは別の層がある。

(ここは、ただの出口じゃない)

悠真も、それに気づいていた。

「青森に入る」

運転席の兵士が告げる。

「この先は、地上を走ります。……ただし、目的地までは、公式ルートではありません」

「構わない」
悠真は即答した。

車両が、ゆっくりと地上へ向かって上昇を始める。圧が抜け、冷気が忍び込んでくる。扉の隙間から、白い息が見えた。

「寒い……」
遥が肩をすくめる。綾子は、その肩にそっと手を置いた。

「北はね、冷たいけど、正直だよ」

和真は、窓の外を見つめていた。
そこには、まだ見ぬ土地。
まだ会っていない使徒。
そして──

(ここで、なにかが思い出される)

和真は、理由もなく、そう確信していた。

車両が完全に地上へ出たとき、一面の雪景色が広がっていた。火山灰に覆われた東京とは、まるで別世界だった。

「……着いたな」

名嘉がつぶやく。悠真は静かに息を吸った。

「ここが、始まりの“縁(へり)”だ」

澪の胸の奥で、長いあいだ眠っていた祈りが、はっきりと目を覚ました。


青森県三戸郡新郷村は十和田湖の東に位置する人口1600人ほどの村である。1955年に、戸来村と野沢村の一部が合併してできたのであるが、1950年の国勢調査によれば、当時戸来村には、5000人近い人々が暮らしていたそうだ。

悠真たちを載せた大型車両は迷いなく新郷村へ入って行く。何度もシミュレーションを繰り返してきたかのように。

やがて、「戸来」に到着。なおも迷いなく車両は進み、一軒の大きな家の庭先に停車した。

玄関の扉が開き、この家の住人と思しき一家がそろって迎えに出てきた。祖父母と思われるふたり、それに母親におんぶされた乳児までいる。大きな白い秋田犬もいた。

全員が車両から降りる。

「さむっ!」

綾子も遥も、はーっと手に息を吹きかける。息が白い。

和真は、子どもらしく、ほっぺを赤くしながら、家の子どもたちや犬と一緒に、雪の上を走り回っている。

悠真が澪を軽々と抱きかかえ、その後ろから、名嘉が車いすを持って降りてきた。

全員が初めて会うのに、初めての感じがしない。ずっと前からお互い知っているかのような感覚がある。

綾子が言った。

「初めてお会いするのに、そんな気がしない……不思議」

「これが、“血”というものなのかな?」

遥がつぶやく。


表札に、「戸来」と書かれていることに麗が気づいた。

「戸来村だけあって、この辺りには昔から戸来姓が多いんです。ヘブライにちなんでというだけでなく、『ヘブライから“来た”』者たちという使命感も加えられていると聞かされてますが、ま、“遊び心”と言ってもいいでしょう」


「澪様、悠真様、和真様に綾子様、そして皆様、こんなに遠くまで足をお運びくださり、ありがとうございます。

 あらためまして、私が、ヨセの末裔、戸来清隆(へらい・きよたか)。そして、こちらが長男・十蔵(じゅうぞう)にございます」

大広間に通された悠真たちに、白髪の清隆はそう言ってあいさつし、十蔵を紹介した。

(なんだか、孝三おじいちゃんに雰囲気が似てるね)

澪は自分が感じたままを悠真に伝えた。

(うん、似てる。懐かしい感じがする)

悠真も素直に澪に伝えた。

十蔵は、三十代半ばながら、弘前大学の教授として、エネルギー理論や量子物理学を教えている。三人の子どもたちの父親でもある。学者とはいえ、学者らしくない風貌。むしろ、背筋がピンと伸び、昔の武士のような風格を漂わせている。ただ、その表情は、きわめて穏やかで、眼鏡の奥の瞳も、絶えず微笑んでいるように見える。

「いよいよ『時』が満ちつつありますね」

一通りのあいさつの後、十蔵が言った。

「うん、第4の封印が解かれるまで、あと半年ほど……

 “それ”が始まったら、次々に封印が解かれ、世界は大患難に見舞われ……、そして、これまでの文明が終焉を迎えることになる」

「えっ? 封印が解かれるって? なにそれ? どういうこと?」

遥が声を上げた。

名嘉がふっと小さくため息をつき、

「おまえは、なんにもわかってねえんだな?

 というか……、親から、なにをどう聴いてきたんだ?」

あきれるように、軽くからかうように言った。

遥は、ぷくっと頬を膨らませ、少し怒ったように返す。

「なによ、女子高生をばかにして!

 これからどんどん大変なことが起こって、世界中が大変なことになるってことくらいわかってるわよ!」

「大変なこと、大変なことって、そんなのみんなわかってるさ。ボキャブラリーなさすぎだろ? ちゃんと勉強してきたのか?」

名嘉がつっこみを入れる。遥かもまんざらでもなさそうだ。ふたりとも妙にうれしそうなのだ。そのやり取りが、まるで父娘喧嘩のようにも見えて、みなの心が温まった。


「例の装置の開発は間に合いそうか? 進んでいるのは、〈レムノス〉を通じて見ているけど」

悠真の質問に、十蔵は頭を掻いた。

「理論上は完成しているのですが……。あと一つ、なにかが足りないのです。数式では説明できない領域に、その“鍵”があるのでしょう」

「例の装置とは?」

道心が質問する。みなが興味津々といった目を向けてきた。

「フリーエネルギー発生装置です」

十蔵の答えに、名嘉が驚愕したように目を大きく見開いた。

「フリー……エネルギー……だと? そんなものを作ってたのか?」

「フリーエネルギーってなんですか?」

質問したのは和真だった。隣で遥もうなずいている。

「フリーエネルギー(Free Energy)とは、おもに『空間に遍在する未知のエネルギーを、物理的手段を用いて無尽蔵に取り出せる』とされる、理論上のクリーンエネルギー技術です」

十蔵が学者らしく答える。

「これまでの文明は、結局、エネルギー源として石油や原子力に頼ってきました。進化・発展してきたように見えても、それらによる電力供給が途絶えれば、すべてが止まってしまう。考えてみれば、薄氷の上に巨大な建物を建ててきたようなものです」

道心が応じ、名嘉が言葉を引き継ぐ。

「しかも、原子力の場合は、ひとたび事故が起これば、かつてのソ連のチェルノブイリや福島第一原子力発電所のように、大量の放射性物質を大気中に撒き散らすことになり、さまざまな健康被害を生じさせる……」

「これから、世界中で、そういう事故が連鎖的に起こるってこと?」

綾子が確認するように尋ねた。

「それが……文明の終焉をもたらす……」

麗が、ため息まじりにつぶやいた。

「“それが”ではなく、正確には、“それも”だ」

悠真が訂正する。

「それだけじゃないんだね?」

遥が察した。悠真は静かにうなずいた。

「だからこそ、です。だからこそ、石油や原子力に代わる、環境汚染のない、まったく新しいエネルギー源としてのフリーエネルギーの開発が急務なのです」

十蔵が言った。

「ただ──正直に言うと」

ためらいがちに続ける。

「何度も、やめようと思いました」

その声は、どこか遠い場所を見つめているようだった。

「なぜ?」

名嘉が聞く。

「大学では、この研究のことは一切、口にできません。大学でこの話をすると、空気が変わるんです。“フリーエネルギー”という言葉を出した瞬間に」

十蔵は苦笑を浮かべ、自嘲気味に肩をすくめた。

「反論されるわけじゃない。議論にもならない。ただ……静かに、線を引かれるんです。
 論文は通らない。共同研究の話も来なくなる。“あの人はちょっと……”という目で見られる。

 攻撃されるより、否定されるより恐ろしいのは、存在そのものを“いなかったことにされる”ことなんです」

遥が小さく息を呑む。
名嘉は黙って、十蔵の細く、だが節くれ立った指先を見つめていた。

「正しいかどうかより、“認められるかどうか”で決まる世界。科学の世界も、結局は人間が作った窮屈な箱にすぎなかった」

その言葉に、道心が深くうなずく。

「それでも……やめられませんでした」


「そもそも、どうして、フリーエネルギーの研究開発に取り組もうと思ったんですか?」

麗が尋ねると、十蔵は少し間をおいてから、机の引き出しから独楽(こま)を一つ取り出し、それを指先で弾いた。みなの視線が勢いよく回る独楽に向く。

「子どものころに、この独楽を見ながら思ったんです。独楽が回り続けている限り、そこには大きな力が発生しています。それはわかりますよね?」

和真も遥も独楽を見ながらうなずいている。十蔵は、回り続ける独楽を指で止めた。その独楽を今度は和真が回す。十蔵は続けた。

「それなら──秒速約五百メートルものすさまじいスピードで自転を続けている地球には、ものすごいエネルギーが発生しているのは至極当然だと思いませんか? なら、それを取り込むことができたらいいのにな、と単純に思ったんです。それが始まりでした。

 フリーエネルギーは未知のものなどではなく、本来、すでにここにあるものなんです」

十蔵の目が、先ほどよりもはっきりと光を帯び始めた。

「私は、逃げたくなかった。子どもたちに対して、“これは無理だ”と言って終わる大人にはなりたくなかったんです。
 祖父も、父も言ってくれました。それがお前の使命なのかもしれない、と。

 私は、子どもたちのために、明るい未来を残していきたい。やさしい世界を作っていきたいんです──その想いが、私を突き動かしてきたんです」

十蔵は、止まった独楽をもう一度回した。その独楽は、今度はいつまでも止まらないかのように、力強く回り続けていた。


翌朝、空はよく晴れていた。
新郷村の朝は静かで、音が少ない。雪を踏む音さえ、遠慮がちに響く。

十蔵の研究室は、母屋から少し離れた、古い蔵を改修した建物だった。外観は質素で、看板もない。知らなければ、ただの物置に見える。

「ここです」

十蔵が鍵を開け、重い扉を押す。中は思ったより広く、天井が高かった。壁際には、古い木箱と最新式の計測機器が混在している。過去と現在が、無言で同居している空間だった。

中央に、それはあった。装置は、拍子抜けするほど静かだった。巨大でも、輝いてもいない。円環状のフレームと、複数の結晶体、細い導線。動いていないせいか、存在感さえ薄い。

「……これが?」

名嘉が、思わず声を落とす。

「ええ。理論上は、ここで“場”が形成されるはずなんです」

十蔵は淡々と説明するが、その視線は装置から離れない。愛着と、焦りと、わずかな戸惑いが混じっていた。

計測モニターには、数値が並んでいる。異常値はない。誤差も想定内だ。

「条件は、すべて揃っています」
「周波数も、共振も、計算上は……完璧です」

十蔵は、そこで言葉を切った。

「でも──」

彼は首を横に振った。

「“応答”がない」

遥が、小さく首を傾げる。

「応答って……電源入れたら、動くとかじゃないの?」

「違うんです」
十蔵は、少し困ったように笑った。

「これは、押せば動く装置じゃない。言うなれば、こちらが問いかけて、向こうが“応える”──そんな構造なんです」

悠真は、黙って装置を見ていた。近づきもしない。ただ、距離を保ったまま。悠真の中では、答えは明確だった。

(ただし、それは、“今”ではない)

澪の胸に、かすかなざわめきが走る。
何かが、そこにある。
けれど、眠っている。

(……まだ、だ)

澪は、そう感じた。
祈りの奥で、同じ声が返ってくる。


道心が、低くつぶやく。

「無理に起こすものではない、ということですね」

十蔵は、ゆっくりとうなずいた。

「ええ。起こせばいい、という類のものではない」

悠真が、ようやく口を開く。

「……“鍵”は、ここにはない。“今”でもない」

だれも反論しなかった。装置は、否定もしない。ただ、沈黙している。

「でも」
十蔵が言う。

「これは、“間違っていない沈黙”です」

その言葉に、悠真は小さく笑って、うなずいた。

「大丈夫。その『時』が来たら、向こうから応える」

十蔵は、呆然と悠真を見た。


研究室を出ると、冷たい空気が肺に満ちた。空は高く、遠くまで澄んでいる。

旅は、まだ続く。

装置は、そこに残されたまま。
目覚める“時”を、待ちながら。


一行は、戸来村の十蔵の家で数日を過ごしたのち、再び旅路に就いた。和真や綾子、遥とすっかり仲良くなっていた十蔵の子どもたちはとても寂しがった。秋田犬のタロウも察しているらしく、どこか寂しげな顔をしている。

「また会いに来るからね」

タロウをなでながら、和真が声をかけた。

「じゃあ、父さんもしばらく留守にするけど、ちゃんと、おじいちゃん、おばあちゃんと母さんの言うことを聞くんだぞ」

十蔵の言葉に、子どもたちが不安げな顔をする。奥さんもだ。

「ほら、そんな顔するんじゃないの。お父さんは、これから、大切なお勤めに向かうんだから」

祖母が子どもたちのお尻を叩く。

「君子(きみこ)さんや子どもたちのことは心配するな。私がちゃんと守るから」

祖父・清隆の言葉に、十蔵がしっかりとうなずいた。

「あ~あ、また、あの灰だらけの中に帰って行くんだね。ここは、ほんとうに空気がおいしかったー!」

そう言って、空を見上げながら、遥が大きく深呼吸した。綾子も同じ気持ちだったようだ。

「ほんと、久しぶりに、ちゃんと呼吸ができてるって感じだったものね。空って、こんなに青かったんだって、あらためて思ったし」

「私たちが二千年の時を経て集められたのは、このおいしい空気と、この美しい青空を取り戻すためでもあるのですね」

道心の一言に、みなが青空を見上げた。

一羽の黒い鳥──“北の記憶”を守る、例の三本足の八咫烏が大空を旋回していた。出発を促すかのように。


第五節 継承の中で──九明と葉月

東京に戻って数日後の夜、“一ノ瀬家のピラミッド”を訪ねて来た者たちがいた。

空には星が出ていない。だが、星が消えたはずの空気だけが、異様なほど澄んでいた。

月明かりの下に、二つの影があった。

ひとりは、深い藍色の装束をまとった若い女性。
もうひとりは、墨のような黒の羽織を羽織った壮年の男。

だれも足音を聞かなかった。いつから、そこにいたのかもわからない。ただ──そこにいることが、あまりにも自然だった。

麗が小さく息をのむ。

道心が、無意識に合掌する。

カラスが、わずかに頭を下げた。

九条葉月(くじょう・はづき)と秦九明(はた・きゅうめい)──

ふたりは家の中に通された。

ふと、葉月が足を止めた。目の前の“そこ”だけが、妙に静かだった。近づくほど、あらゆる音が飲み込まれ、遠のいていくような感覚。

「……なに……これ……」

言葉にした瞬間、声が吸い込まれるように消えた感じがした。

“そこ”にいる女性は、あまりにも静かだった。風が吹いているのに、彼女の周囲だけ空気が動かない。長い髪が、かすかな揺らぎの中で光を受けていた。灰と微細な塵が、彼女の周囲だけゆっくりと漂っている。まるで、世界がその中心に静止しているかのようだった。

目は閉じられている。祈っているようにも見えた。

声はない。唇も動かない。

それでも──

葉月の胸の奥に、温かなものが満ちていく。理由はわからない。だが、この人の近くにいれば大丈夫だと、心が知っていた。

気づけば、涙が頬を伝っていた。

「……この人……人間……だよね……?」

答えはない。しかし、彼女の周囲に満ちる圧倒的な静寂は、恐怖ではなく、深い安らぎに似ていた。


そのとき。

空気が、かすかに震えた。

葉月が振り向く。空間そのものがわずかに揺れ、止まったように見えた。

ひとりの青年が近づいてくる。逆光の中、輪郭だけが浮かび上がる。足音は、ほとんど聞こえない。
だが、彼が一歩踏み出すたび、空気の密度が変わるのを感じた。

九明の瞳も細められる。

視える。

目に映るものの奥で、空間の層がかすかに歪んでいる。重力の流れがわずかにずれている。この青年の周囲だけ、世界の法則が揺らいでいた。砂埃が落ちる途中で軌道を変え、時間が、ほんの一拍だけ遅れたように感じた。

──現実が、追いついていない。

「これが……」

九明が思わず口にした。

青年は歩みを止めた。静寂の中心に座る女性を見つめる。

女性はゆっくりと目を開いた。なにも見えていないはずなのに、しかし、すべてが見えているような、深くて、濃い瞳……。

世界の奥底でなにかが共鳴した。音ではない。光でもない。それは、存在そのものの呼応。

「葉月、わかるか?」

「はい。お師匠様」

風が戻る。音が、再び聞こえ始める。時間が、動き出した。

葉月は息を忘れていたことに気づき、ようやく空気を吸い込んだ。

九明は、ゆっくりと青年に近づく。

そして、静かに言った。

「私たちが探していたのは……あなたがたですね」

青年は答えなかった。ただ、女性の前に立ち、手を差し出した。女性は迷いなく、その手を取った。

触れた瞬間、かすかな光が指先で揺らぐ。だれにも見えないほどの、淡い揺らぎ。

だが九明と葉月には、それがわかった。古い時代から語り継がれてきた均衡が、今、静かに動き始めたのだと。

世界はまだ崩壊の途上にある。

だが同時に──新しい秩序の胎動が、ここにあった。


「九条葉月にございます」

葉月が静かに一礼した。続いて男が口を開く。

「秦九明。私どもが、陰陽寮の末にございます。ようやく、お会いできました」

その声は低く、よく通るが、不思議と響かない。まるで空間そのものが声を吸収しているようだった。

「和真様、綾子様。お久しゅうございます」

九明が葉月を伴い、ふたりにあいさつした。

「和真様は、葉月に会うのは初めてと思います。これが、わが弟子・葉月にございます。ようやく、一人前の一歩手前までまいりました」

「お目にかかれて光栄です。葉月と申します。これから、よろしくお願い申し上げます」

そう言って、葉月が深々とお辞儀した。

「さすがに、陰陽師は、折に触れ、皇室の方々とお会いされてるんだな」

名嘉が言う。すると、遥が、

「ところで……。陰陽師って、今でも存在してたの? 昔話だと思ってた」

驚いたように、名嘉に向かって言った。名嘉が半分笑いながらつっこむ。

「それ、おまえが言うか? おれたちの存在だって……いや、おれたちの存在のほうがよっぽど昔話だろうが」

「あ、そっか」

そんなやり取りを聴きながら、澪は静かに微笑んでいた。

「陰陽師は、ずっと昔から、天皇のそばで、天皇家を守ってきた人々だった。今で言うところの国家公務員、それも超エリート官僚として。
 一般的に有名なのは、土御門(つちみかど)家」

綾子が解説した。

「土御門家というのは、聞いたことがあるわ」

麗が応じる。綾子が感慨深げに続けた。

「陰陽師の最大の任務は、天皇の健康を守り、怨霊や災いから宮中を護符や儀式(祓え)で守ること。そのおかげで、私たちがどれだけ守られたことか……」

道心が引き継ぐ。

「政治の決定にも大きな影響を与えてきたそうです。天皇陛下がどちらかへ外出する際の方角の吉凶(方違え)や、改元のタイミング、祭祀の日程など──すべて陰陽師の占術に基づいて決められているとか」

綾子と和真が静かにうなずいた。

悠真の顔を見ながら、名嘉が尋ねた。

「そもそも、陰陽道ってのは、いつからあったんだ? というか、おれたちとどんなかかわりがあるんだ?」

「星読み……だよ。『陰陽師』と呼ばれるよりも、ずっと昔から、いた。
 そして、二千年前、彼らは星を読んで、イエス・キリストの誕生を知り、ベツレヘムを訪ねた。
 しかも、そんな彼らを導いた星とされているのが……八咫烏だったんだよ」

綾子と和真はさすがに知っていたようだったが、ほかの全員は、眼を見開いて絶句していた。

「私たちの先祖であるマリヤ一行が日本にやって来たのは、彼ら陰陽師を頼ってのことだったのですか?」

道心が、混乱している自分の頭の中を整理するように言った。悠真、澪、和真、綾子の四人が同時にうなずいた。

「それも、八咫烏に導かれて、ね」

葉月が言った。


九明は、悠真をじっと見ていた。その一挙手一投足を観察するように。

やがて、言った。

「悠真殿は、星を読む目をしておられる……。いや、違う。星を見る者ではなく──星を“動かす”側だ」

場の空気が変わる。遥が息をのむ。九明はかすかに笑い、右手をわずかに動かした。

なにも起きない。

──いや、起きている。

その場のすべての音が、世界から切り離されたように消えた。ついで、風が、逆向きに流れた。

葉月が、床にそっと指を置く。床の上に、六芒星の形が一瞬だけ浮かび、消えたのをみなが見た。その六芒星は、澪にも見えていた。空間に走る、細い光の線が。

(……温かい。葉月さんの光は、とても温かい)

澪はそう感じた。

九明が言う。

「結界は張り直した。ここまでは安全です」

遥が小声で言う。

「今、なにをしたの?」

名嘉が答える。

「……“なにもしていない”ように見せるのが本物だ」

葉月が、静かに微笑む。

「私たちが陰陽師としてすべきことは、崩れぬように、整えることだけです」

九明が、感慨を込めて言った。

「二千年の間、伝えられ、受け継がれてきたことは、真実であった。

 われらは、われらの“血”に対して、誇りを持っておる。それゆえ、幼き頃より、黙々と修行を積んでまいった。

 もちろん、葛藤がなかったわけではない。われらの先祖たちが、命がけで守り、次の世代へと受け継いできたものが、今の時代、また、これからの時代、本当に必要なのだろうか、役に立つのだろうか──そんな自問自答を繰り返していたこともあった。

 だが、だからといって、修行を怠るなど考えたこともない。それをしたら、自分が自分であることさえ見失ってしまいそうで……」

葉月が驚いた顔をして言った。

「お師匠様に、そんなことがあったなんて知りませんでした」

「そりゃ、私だって、人間だからな。

 でも、そんなときに幼い葉月──おまえに出会ったんだ」

「えっ?」

「どこまでもまっすぐで、真剣で、それでいて、誰よりも楽しそうなお前に、私は尋ねたのだ。『どうして、そんなに楽しそうなんだ? これからの時代を生きていくのに、なんの役にも立たぬかもしれんぞ?』と。覚えておるか?」

「いいえ。そんなことありましたか?」

九明はやさしい目で葉月を見つめた。

「葉月さんは、なんて答えたんですか?」

遥が問うた。

「答えは、とてもシンプルだった。『でも……誰かの役に立つかもしれないでしょ? だから、今まで受け継がれてきたんでしょ?』──葉月はそう言ったのだ」

「私、そんなこと言ったのですか?」

葉月が恥ずかしそうに肩をすぼめた。

「あの答えを前にして、なんだか、自分が本当に小さな人間に思えてな……。だから、決めたのだ。私の知っているすべてを、私が受け継いできたものすべてを、この子に託そうと」

遥がため息交じりに、ぽつりと漏らした。

「なんか……私とは真逆だね。私は、自分の“血”を、むしろ呪ってきたようなものだから」

そんな遥の肩を、麗が力強く抱きしめた。

「私だって、真に受けてこなかった人間なんだから。正直、今でも、看護師以外、私なんかに何ができるの?って思ってるくらいだし」

綾子が口を開いた。

「私は──麗さんと遥のことも、葉月さんのことも、正直、うらやましいって思うよ。だって、自分の生き方を、自分自身で決めてこられたんだから。

 それに比べたら、私も、和真も、生まれた瞬間から、もう進むべきレールが決まっているんだから。世界中から、そう見られてるしね。
 誤解しないでね、決して、今が嫌とかいうことではなく、ね」


「悠真様。今、わが国は、たいへんな患難に見舞われております。トカラと阿蘇山の大噴火から始まり、南海トラフ地震、首都直下型地震に、富士山の大噴火……。
 しかし、これらは、言ってみれば、世界の終わりの始まり──そういう理解でよろしいのでしょうか?」

葉月が率直に質問した。

「『様』なんて付けなくていい。『悠真』でいいよ。澪に対しても」

悠真は、そう前置きをしてから言った。

「そう、今日本で起こっていることは、ほんの始まりに過ぎない」

何人かが、眼を見開いた。

「来年の夏……7月4日。アメリカの独立記念日だ」

悠真は静かに言った。

「その日、台湾有事が起きる」

部屋の空気が止まった。

「軍事AIが、敵国による『侵略』と判断することによって……。つまり、戦争が、人間の手を離れたところで開始されることになるんだ」

ごくりと唾をのむ音がした。

「人間の手を離れた戦争が起こったとき──敵国に対してAIが採る最も有効な攻撃って、なんだと思う?」

「原発への攻撃──それもミサイル攻撃とかじゃなく、原発への電力供給を絶つこと……」

名嘉が真っ先に答えると、みながうなずいた。

「じゃあ、逆に、AIが導き出す最も有効な防御方法は?」

はっとしたように、名嘉が答えた。

「原発の電力系統を奪われないために、自ら、原発の電力供給を絶つこと……」

全員の表情に驚きが走る。

「そう。放射能汚染のことを考えれば、人間なら、それこそ最終的な手段にするかもしれない。でも──」

悠真の言葉の後を道心が継いだ。

「AIにとっては、効率や効果こそが最優先される……」

「こわい!」

遥、綾子、麗、和真が声を上げた。

「AIとは、常に最適解を実行する存在。将来に対する不安も恐れも──なにより、死に対する恐怖がない。AIにとって、人類の死者数はただの数値であり、判断材料の一つにすぎない……」

「うん」

十蔵の言葉に悠真がうなずく。

「でも……。でも、それって、戦争の当事者間で起こることでしょ? アメリカと中国とロシアの。それなら、巻き込まれない国もあるんじゃない?」

綾子が言った。悠真が答える。

「たしかに、そう。
 でも、その真っただ中で、一つの大きな時限爆弾が爆発するんだ」

「時限爆弾? 爆発?」

「もしかして……。それは、“2038年問題” のことですか?」

十蔵が確認するように言った。

「“2038年問題”? なにそれ?」

遥が首をかしげた。

「病院で働いていたときに聞いたことがあります」

そう言ったのは麗だった。麗が、ゆっくり口を開いた。

「コンピュータは……時間を数字で数えているんです」

「時間を?」

「はい。多くの古いシステムでは、1970年1月1日0時0分0秒を基準にして、そこから何秒経ったかで時刻を表します。それを“UNIX時間”って呼ぶんです」

名嘉がうなずいた。

「秒をカウントしてるわけか」

「でも、その秒数を記録する器に問題がありました」

麗は続けた。

「昔のコンピュータの多くは、その数字を32ビットの整数で保存していました。ところが、その最大値が──」

九明が懐から算木(さんぎ)を取り出した。古い数術の道具だった。千年、いや、二千年以上も前から、星を読む者たちが暦と星の運行を計算するために使っていたものだ。

彼は床の上に算木を並べる。静かな計算が始まった。その様子をみなが興味深そうに見守っている。

葉月が言う。

「算木は十進。コンピュータは二進……。でも、数の理(ことわり)は同じ」

計算しながら、九明が静かに言った。

「陰と陽もまた、二つ。世界は、昔から二進でできている」

九明の手が止まった。

「2,147,483,647秒……」

算木の上に、静寂が落ちる。

やがて小さく息を吐いた。

「なるほど……。これが人の作った数の極みか」

九明が算木を指でなでた。悠真が小さく笑う。

「そう。それが、人間が作った『器』の限界だよ。でも、星の運行──神のプログラムには、本来オーバーフローなんてない」

九明が算木を片付けながら、鋭い目で悠真を見返す。

「……それを狂わせたのは」

九明の目が細くなる。

「天ではなく、人であると?」

悠真と澪が静かにうなずいた。

道心が眉をひそめた。

「ところで、その21億秒に達すると……いったい、どうなるのです?」

麗が答えた。

「尽きるんです」

部屋の空気が、少し重くなった。

「その限界が来るのが──」

悠真が言った。

「2038年1月19日。03時14分07秒(UTC)」

「その次の一秒で、数字が溢れる」

麗は続けた。

「いわば……時間のオーバーフローです」

遥が目を丸くする。

「時間のオーバーフロー?」

「そう。カウンターが限界を超えると、数値はマイナスに落ちるんです」

名嘉がつぶやく。

「……つまり?」

悠真が言った。

「時計が突然、1901年に巻き戻る」

遥が絶句した。

「え……?」

「正確には──」

麗が言う。

「1901年12月13日」

一瞬、沈黙が落ちた。

名嘉が低く言う。

「……百年以上、過去か」

悠真がうなずく。

「機種によっては、異常検知で“0”に戻る」

「ゼロ?」

「つまり1970年1月1日だ」

綾子が顔をしかめた。

「ちょっと待って……。それって、ただ時計が狂うだけじゃないの?」

悠真は静かに言った。

「問題はそこじゃない」

「え?」

「世界中のシステムが、時刻を基準に動いている」

九明が静かに目を細めた。

悠真は指を折った。

「航空管制」

「銀行決済」

「地下鉄の信号」

「原発の冷却制御」

麗が続ける。

「それらのシステムが──」

名嘉が言った。

「未来じゃなく、過去にいると判断する」

遥の声が震えた。

「それって……」

悠真が言った。

「契約は全部期限切れ」

「認証は全部無効」

「ログは未来からの不正アクセス」

「システムは自己防衛で停止する」

綾子がつぶやいた。

「……世界が止まる」

「そう」

十蔵が言った。

「世界の専門家は、1990年代から警告していたんです」

麗が続ける。

「“2038年問題”って呼ばれて」

道心が尋ねた。

「では、なぜ修正されなかったのです?」

悠真は苦笑した。

「費用だよ」

名嘉が鼻で笑う。

「やっぱりそれか」

十蔵が肩をすくめた。

「世界中のインフラを書き換えるには、何十兆円もかかりますから」

遥が恐る恐る聞いた。

「でも……。でも、実際、2038年にはなにも起こらなかったよね? 世界は止まらなかったじゃん」

悠真は首を振った。

「だから、みんな言ったんだ。これなら、きっと、あと十年は大丈夫。その間には、すべて新システムに移行してるって」

麗が言った。

「でも……」

悠真がうなずく。

「“きっと”なんていう希望的観測は、ある日突然打ち砕かれる。今でも更新されずにいる機械は山ほど残っている」

「原発」

「港湾」

「地下鉄」

「衛星」

「航空」

九明が静かに言った。

「……地中や海底に埋められた機器ほど、後回しにされ、更新されぬ」

遥が恐る恐る聞いた。

「じゃあ……来年の7月に、世界が止まるの?」

「いいや。止まらない」

「え?」

「もっと厄介なんだ」

遥が首をかしげる。

「どういうこと?」

悠真は少し考えてから言った。

「世界は、“2038年問題”を、一度は“やり過ごした”ように見ている。でも実際は、内部で時限爆弾が動き続ける」

和真も、幼いながら、必死に理解しようとしていたのだろう。確認するように言った。

「つまり……いつ爆発してもおかしくない状態ということでしょうか?」

そのとき、遥がぽつりと言った。

「なんか……コップの水みたい」

みなが遥を見る。

遥は両手でコップの形を作った。

「コップに水をいっぱい入れると、表面張力でしばらくはこぼれないじゃない?」

「でも」

指で一滴落とす仕草をする。

「次の一滴で、いきなりあふれる」

静かな沈黙が落ちた。悠真が小さくうなずく。

「そう」

「今の文明は──まさにその状態だ」

「世界は、表面張力でギリギリ保たれている」

九明が低くつぶやいた。

「そして、次の一滴が落ちる」

悠真は静かに言った。

「それが──その“次の一滴”が、台湾有事。そして、AI戦争なんだ」

麗が言った。

「地下鉄は“開業前”と判断して凍結」

「銀行は“契約期限切れ”で送金停止」

名嘉が低く言った。

「衛星は?」

十蔵が答えた。

「誤作動して軌道を外れます」

葉月が息を呑む。

「落ちてくるの?」

「いくつかは」

「ただ大半は宇宙ゴミになります」

九明が静かに言った。

「空の秩序が乱れる」

悠真はうなずいた。

「でも……」

彼は言葉を区切った。

「それは全部、前触れだ」

沈黙。

そして、悠真が言った。

「本当に恐ろしいのは──原子炉だ」

部屋の空気が凍りついた。

「〈点検期限切れ〉。そう判定された原発が」

悠真は静かに言った。

「次々と自動停止を始める」

全員の顔が心なしか青ざめている。

「これが──第4の封印だ」

「えっ? これで終わりじゃないの?」

遥の声がうわずっている。隣にいた綾子が、そんな遥の背中をやさしくトントンと叩いた。

「封印は、全部で七つ。この後にあと三つ立て続けに起こるの」

「そして……文明は文字通り終焉を迎える……」

葉月がつぶやくように言った。

道心が思い出したように、感慨深げに言った。

「だから……だったのですね。“2038年問題”で世界の原発が連鎖停止する前に、日本は大災害によって原発を人の手で安全停止できた……」

悠真と澪がゆっくりとうなずいた。


まだ、すべてはそろっていない。
だが、すべての封印が解かれるより先に、彼らは集められつつあった。


第2部・完
第3部へつづく



※今後の展開や読者のご意見を反映し、内容を一部加筆・調整する可能性があります。
物語とともに歩んでくださる皆さまへ、心より感謝を込めて──。


※本作はフィクションです。
登場する人物・団体・制度・法律・出来事等はすべて架空のものであり、実在のものとは一切関係ありません。
本作に関するすべての著作権は、著者・蒼顕(SOHKEN)に帰属します。
無断転載・引用・複製・翻案・映像化等は固くお断りします。
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