義時の兄・北条宗時のこと。じつは源頼朝旗揚げのキーマンだった?!
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で片岡愛之助さんが演じて注目された北条義時公の兄・宗時さん。源頼朝公の旗揚げにズバリ関わったキーマンでありながら、あっけなく非業の死を遂げてしまったその人物像を、鎌倉幕府の死に水をとったわたし北条高時(のなりきり)目線でまとめてみようと思います。
北条宗時の出自
北条宗時さんは北条時政さまの嫡男で、通称「北条三郎」です。義時公の兄であることは間違いありませんが、家系図を見ると「一郎二郎って誰だ?兄が早世したのか?」とややこしい部分もあり、詳しいところは不明です。
細川重男さんの『北条氏と鎌倉幕府』によれば、宗時さんの「宗」という字は、時政公の後妻・牧の方の実家、牧氏から取られた可能性があるとのことです。大河ドラマでは、牧の方を宮沢りえさんが演じていましたね。
ちなみに牧の方は、平治の乱の後、源頼朝公を助けた池禅尼の姪であるという説もあります。牧の方の父・牧宗親は駿河国大岡牧の代官でした。そこで時政さまは宗親を宗時さんの烏帽子親に据えることで、伊豆での勢力確保を狙ったというのです。
また当初、時政さまは牧の方を宗時さんの嫁に迎えようとしていたという見立てもあります。しかし、宗時さんは石橋山で戦死してしまったため、時政さんが後妻に迎えたというのです。牧の方と時政公がいつ結婚したかははっきりしていませんし、そう考えれると二人の年の差婚も腑に落ちます。
さて、石橋山の合戦で討死した宗時さんの話に戻しましょう。宗時さんは父・時政さまや弟・義時公とともに、源頼朝公の旗揚げに参戦していました。伊豆の目代・山木兼隆の館を攻めたときには、先導役を務めています。

石橋山の戦いで討死
石橋山の戦いで、頼朝公の軍勢は大庭景親軍にボコボコに敗れました。宗時さんももちろん頼朝公と一緒に敗走しましたが、『吾妻鏡』によれば、その後、宗時さんは父・時政さまや義時公と別行動をとっていたとのことです。そして治承4年8月24日、伊東祐親の軍に囲まれて討ち取られてしまうのです。
北條殿・同四郎主等は、筥根湯坂を経て、甲斐の国に赴かんと欲す。同三郎は、土肥の山より桑原に降り、平井郷を経るの処、早河の辺に於いて、祐親法師が軍兵に囲まれ、小平井名主紀六久重の為射取られをはんぬ。茂光は行歩進退せざるに依って自殺すと。
宗時さんは土肥の山から桑原に下り、平井郷を経由した際、早川のあたりで伊東祐親の軍に囲まれ、小平井の名主・紀六久重によって討ち取られまています。
ところで、なぜ宗時さんは時政さまや義時公と別行動をとったのか、真相ははっきりしません。ただ、おそらくは北条の命脈を保つために、あえて親子で別行動を選んだのでしょう。
ちなみに大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、戦に敗れた大泉頼朝公が「わしは旗揚げなんぞしたくなかった。ぜんぶ北条のせいじゃ!」と怒鳴り散らし、さらに「誰か北条の館に置いてきた観音様の本尊を取ってこい!」と無理難題を命じています。宗時さんは志願して観音様を取りに行くものの、その途中で刺客・善児(梶原善さん)に河原で無惨にやられてしまうという、なんとも理不尽な展開でした。
ドラマを見ながら、あのときの大泉頼朝の無茶苦茶ぶりは、なんとなくわたしに似ている気がすると妙な親近感を覚えましたが、宗時さんには本当に災難でしかありませんでした。
函南町にある宗時神社(北条宗時の墓)
宗時さんのお墓についても触れておきます。伊豆の函南町には、宗時さんを祀った「宗時神社」があります。手前に宗時さんの、奥にはともに討死した工藤茂光の供養塔があります。工藤茂光は伊豆の豪族で、伊豆大島を中心に暴れまわった源為朝を討った武者として知られます。
『吾妻鏡』によれば、建仁2年(1202)6月1日、父・時政さまは伊豆北条に下向したときに、夢のお告げに従って宗時さんの墓を建立したそうです。
遠州伊豆の国北條に下向せしめ給う。夢想の告げ有るに依って、亡息北條の三郎宗時が菩提を訪い給わんが為なり。彼の墳墓堂は当国桑原郷に在るが故なり。
なお『吾妻鏡』には宗時さんが討たれた場所を「早河」と記していますが、函南町には「早河」という地名はありません。普通に考えれば宗時さんは石橋山近くの「早川」(小田原)で死んだと解釈できますが、では、なぜ墓が函南町にあるのでしょうか。
実は「早河」は函南町を流れる「冷川」のことではないかという説があります。なるほど、地名はややこしいですが、そういうことであれば辻褄は合いますね。
つまり山中を抜け、もうすぐ北条館というこの場所で、宗時さんは無念の死を遂げたことになります。頼朝公の命令で観音様を取りに帰ったのかどうか。もちろんそれは創作ですが、敵に襲われたときは心の中で「ちくしょう、ここで討たれるとは…」とさぞかし無念であったでしょう。
北条宗時「坂東武者の世を作る」

ちなみに、大河ドラマ「草燃える」では、中山仁さんが宗時さんを好演しています。「草燃える」でも宗時さんは大活躍しており、平家の先行きが長くないことを察知し、東国の武家の秩序と権力を守る代表者として、蛭ケ小島に流された源頼朝公を担ぐ役割を仲間たちとともに主導しました。
そして父・時政さまが京都大番役で留守の間には、岩下志麻さん演じる妹・政子さまと頼朝公の縁を取り持つ愛のキューピッド役までこなしています。「鎌倉殿の13人」と同じく、宗時さんは頼朝公旗揚げのキーマンとして描かれており、弟の義時公はこの当時はまだ影が薄い存在です。
実際の宗時さんも、おそらくこういう人物だったのでしょう。ひょっとしたら頼朝公からの信頼は父・時政さま以上に厚かったのかもしれません。おそらく時政さまに源氏に味方するようにそそのかしたのも宗時さんで、父が京都に留守の間にちゃっちゃと画を描いていたのではないでしょうか。いやいや、手際よすぎます。
「鎌倉殿の13人」で、兄弟が永遠の別れを迎えるシーン。宗時さんは義時公に向かって「坂東武者の世を作る。そのてっぺんに北条が立つ」と胸の内を明かしています。その志が受け継がれ、後の北条得宗家が誕生したわけです。つまり得宗家は代々、宗時さんから渡された襷を繋いでいたのです。まあ、わたしのときに襷は途切れてしまったので、それについてはたいへん申し訳なく思っております。
しかし考えてみると、もし宗時さんがこのとき生きていたなら、北条氏と鎌倉幕府の形はどうなっていたでしょうか。北条の宗家は宗時流が率い、わたしたち義時流は江間流北条氏として、ともに鎌倉を支えていたのでしょうか。それともどこかで粛清されていたのでしょうか。
取り止めもないことではありますが、いやあ、歴史のifは実に面白いものですね。
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