市谷の杜 本と活字館——主役を退いた技術を、なぜ今も動かすのか【博物館オタ活日記 #12】
活版印刷は、主役を退いた技術だ。
金属の活字を一文字ずつ拾って並べ、インクをのせて紙に押し当てる。グーテンベルクが始め、20世紀後半にデジタル印刷に譲り渡した、あの印刷のことだ。
その活版印刷の印刷所が、市谷では今日も動いている。
市谷の街の中に、突然、1920年代の洋風建築が現れる。
大日本印刷(以下、DNP)の市谷工場内にあった「時計台」と呼ばれる旧営業所棟で、1926年の建設。2016年まではオフィスとして使われていたが、工場整備計画を機に創建当時の姿へ修復・復元され、現在のミュージアムとして生まれ変わった。
周囲の近代的なビル群のなかに、この建物だけが取り残されたように建っている。入館する前から、すでに展示は始まっている気がした。

館内に入ると、一階の大部分を占める印刷所がある。

活版印刷の機械や活字が並び、職人が毎日、実際に稼働させている。観光用にたまに動かすわけではない。本当に現役で、ここで印刷が行われている。印刷所の独特な空気感を体感することができる。
実際に稼働している印刷所だが、これは工場見学ではない。
一般的な工場見学では、その企業が今まさに行っている生産ラインを見せる。でもここの活版印刷は、DNPにとってすでに終了した事業だ。
それを動かし続けているということは、この機械や職人の技術そのものを「史料」として展示している。本と活字館の言葉を借りれば、「動態展示」だ。工場見学でも、単なる博物館でもない何かが、ここにはある。
印刷所の周りには、活版印刷による本づくりの工程が「作字」「鋳造」「文選」「植字」「印刷」「製本」の6つのセクションで展示されている。テキストによる解説は最小限で、実物の道具や映像を中心に構成されている。
文選工程の展示では、活字が収納された棚「ウマ」の前に透明ディスプレイが設置されており、職人が活字を拾うスピードを体感できる仕組みになっていた。実物と映像が重なる瞬間、かつての職人の仕事が急にリアルになった。メディアの使い方が上手いなと感じる展示だった。

2階には企画展示室と制作室がある。
訪問時の企画展は「明朝体」。あの書体がどのように生まれ、変遷してきたかを追う展示だった。展示替えはおよそ四半期ごとで、印刷・出版に関わるテーマが続いている。

制作室では、予約不要で卓上活版印刷機(テキン)を使ったしおり印刷体験が常時できる。ハンドルを通じて油性インクのネットリとした感覚や版を押し付け紙と版がくっつく感覚を体験できた。

同施設では、他にも予約制で様々な体験を行っている。ぜひ、訪問前に調べて参加してみてほしい。
館を歩き終えてから、ひとつ、企業ミュージアム研究をする者として気になることがあった。
本と活字館の運営は、DNP直下の「コーポレートアーカイブ室」が担っている。アーカイブとは本来、記録や記憶を収集・保存し、参照可能な状態に維持することを指す言葉だ。その部署がこの施設を運営しているということは、本と活字館はDNPにとって、自社の記憶を社会に向けて伝えるための装置として位置づけられているのではないだろうか。
活版印刷という現役ではない事業をリアルファクトリーとして動かし続けるという選択は、単なる技術保存ではない。「印刷から始まった企業である」というDNPの物語を、空間として物質化し続ける行為だ。そして、喫茶・制作室・企画展という複数の接触面を持つ構成は、その発信を一方向的なものにとどめない。来館者との体験を通じて、企業の記憶が社会のなかで継続的に更新されていく回路が生まれている。
主役を退いた技術が今も動いているのは、そういうことなのかもしれない。
主役を退いたはずの技術が、今日も音を立てて動いている場所が、ここにある。市谷に行く機会があれば、ぜひ「市谷の杜 本と活字館」へ立ち寄ってみてほしい。
【市谷の杜 本と活字館】
東京都新宿区市谷加賀町1-1-1 JR・東京メトロ各線「市ケ谷駅」徒歩約10分 入館:無料
公式サイト:
【著者】
荒井健
東京科学大学大学院 環境・社会理工学院 社会・人間科学系 修士課程。企業博物館をメディア論・社会学の視点から研究。週1回以上の博物館訪問を習慣とし、その研究メモを一般向けにnoteとInstagramで発信している。
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