見出し画像

世界のはじまり/福嶋亮大『世界文学のアーキテクチャ』(PLANETS、2025年)

 夜、子供が目をこすりながら「せかいのはじまり、よむ」と言って寝室に入って行った。寝る前に読み聞かせている『聖書物語』という絵本の最初のページに「世界のはじまり」と書いてある。子供は神様が世界を作る様子を聴きながら一日を終え、また次の一日に備える。

 私たち大人の言葉と同じように子供の言葉は引用でできているから、時々詩のように聞こえることがある。家で聴いたこと、本で読んだこと、歌詞、誰かが行った言葉、それらの断片がつなぎ合わされて、彼の言語世界を作り出す。

 そうだとすれば、私たちの存在は世界を映し出す鏡なのかもしれない。私たちが聴いた世界が、言葉として、私たちの口から出てくる。だから、小手先だけで子供にいい言葉を覚えさせようと思っても意味がない。究極的には、子供にいい言葉を覚えてほしければ、私たちが世界をよくするしかない。私たちは世界に対して透明だ。私たち自身が世界だと言ってもいい。

 ところで、一ヶ月ほど前、『世界文学のアーキテクチャ』という本を購入して少しずつ読んだ。ものすごい情報量が詰め込まれた書物でありながら、大変読みやすく、しかしながらそれでもやはり500ページ強という分量は結構なもので、仕事や遊びの合間にチビチビと読んだ。これが素晴らしい読書体験だった。そもそも、この本を知ったのは、ちょうど批評家の宇野常寛がSNSで、本書は編集者としての自身の代表作になるはずだ、という趣旨のことを述べていたからで、そこまでの自信作をぜひ読みたいと思った。この本は宇野が経営するPLANETSという版元から刊行されている。

 「世界文学」と聴いて、私たちは何を思い浮かべるだろう。人によってさまざまだろうが、私は、まず池澤夏樹が個人で編者をした河出書房新社の「世界文学全集」が思い浮かぶ。ちょうど私が大学院で学んでいた2007年あたりから刊行が開始され、下にリンクを貼ったサイトを見てみると、すでに品切れのものも多い。おそらく河出文庫に文庫化されているのだろう。

 私が大学院にいた頃は、特に南アフリカ出身の英語作家J.M.クッツェーの作品をよく読んだ。彼は2003年にノーベル文学賞を受賞していて、ベケットやカフカといった、ミニマルで不条理な文学と、現代の人種問題や西洋の問題を重ねるようにして描く作風が魅力的に映った。その頃に来日していたこともあり、当時ゼミの指導教官だった都甲幸治先生が主催していた勉強会で読んだ記憶がある。ちくま文庫版で『マイケル・K 』を。ハヤカワepi文庫で『恥辱』を読んだ。

 当時、世界文学という言葉があったのかどうか、定かな記憶はないのだが、世界文学という言葉で私がイメージするのは池澤夏樹的なものであり、それは西洋文学の相対化、キャノンの破壊という側面を強く押し出していたように思う。また、私が大学院にいた時代は、文学理論の中でもポストコロニアリズムが大変人気だった記憶がある。そうした文学研究の流れともおそらく無縁ではなく、私にとっての「世界文学」というイメージはそういう第三世界的であり、非西洋的なものだった。

 現在の文学シーンというのも、ざっくり言えばそうした流れを継いでいると思うが、当時よりもさらに日本人はヨーロッパやアメリカに対して興味がなくなっていて、そもそもキャノンの破壊みたいなスローガンは、もうすでに言われるまでもなく、キャノン自体が読まれないし、ヨーロッパやアメリカにかつて日本人が抱いているような見上げる視線というのは、良くも悪くも消えてしまった感じがする。荒涼とした時代だ。そう考えると、世界は、この15年ほどで大きく変わった。そして、文学研究全体がどこか文化左翼的な理論一辺倒になっていた印象があり、私はどんどんそういうものに興味がなくなった。

 ともあれ、本書はそういう意味での私の「世界文学」観を大きく更新するのみならず、世界文学を一つの設計思想として読み解き、それらがどういう世界史上の条件の中で生まれ、引き継がれてきたのかが非常に明確にわかる本となっている。そして、何よりも、冒頭に述べたことの繰り返しになるが、これだけの情報量が詰め込まれ、多少反復感もある構成ながら、しかし、決して読みにくいとか、専門的な記述が多いとか、退屈だとか、説教くさいだとか、そういうネガティヴな印象を一度も抱くことなく、読み進めることができたということに驚いた。

 そもそも、文学は国ごとに分かれて研究されている印象があり、もちろん近年では比較文化、比較文学、比較文明的な視点は欠かせないものだけれど、それにしても、基本的にはフランス文学だとか英文学だとか、国家や言語ごとに専門が分かれて論じられる場合が多いが、本書はそれらを易々と超え、時代もジャンルも国も超えて、一本の線のように世界文学の来し方行く末を描いている。こういうことが可能だとは考えたことすらなかった。普通は何か専門としている文学に傾斜し、それ以外の部分についてはやや記述が薄かったり怪しかったりするものではないのか。そういうことは全く感じなかった。知識量もさることながら、その記述の力に度肝を抜かれた。

 そういうマクロの話もそうなのだが、とにかく一つ一つの時代、作家、小説の解釈がやたらと面白く、それらの要約が続いていくのだが、しかし「要約が続いていく」ということに付き物なある種の退屈さ、大味感というのはまったくなく、一つ一つの解釈が有機的で高密度で、アクロバティックに繋げられているという印象だった。そして、ここで扱われている作家を次々に読みたくなることもまた、本書の魅力の一つと言える。まず筆頭は、「世界文学」の生みの親と位置付けられているゲーテ、そして翻訳文学やメタ性、文学の出自の怪しさをを強調した『ドン・キホーテ』のセルバンテス。海というフロンティアに向きあい、壮大な自由資本主義と多様な世界を描き切ったメルヴィル、そうした人々である。

 本書は18-19世紀、ゲーテの世界文学論から始まるのだが、それがまず面白い。ゲーテの時代の印刷物の激増や、彼が自らの言葉を多く秘書に記録させていたから、ゲーテに関しては膨大な資料がきちんと残っていたこと、年イギリス人の友人トーマス・カーライルと一度も会うことはなかったが、頻繁に文通することで知的に活発な交流していたことなどが書かれている。そうしたゲーテの伝記的事実について恥ずかしながら全く知らなかった私は、その一つ一つに強く興味を惹かれた。印刷複製技術の発達、文通を可能にする郵便技術の発達、など、ヨーロッパにおける革新の時代とゲーテが生きた時代が重なっていたという指摘も実に面白いものだった。それが世界文学の起点になるというのは、私が抱いていた世界文学のイメージを良い意味で全く変えてくれた。

 また、本書には文学が持つ、「自己の脱中心化」という概念が強調されている。セルバンテスが、『ドン・キホーテ』の中でテクストの翻訳や改変の可能性などを記すことによって、文学時代の自己中心化を行ったことに始まり、ディドロによる自己中心性の破壊であるとか、初期グローバリゼーションの中で、西洋が自己を問い直すことを描いたデフォーやヴォルテールなど。個人的にはメルヴィルの『白鯨』に関する部分がこの本の中でもとりわけ興味深かった。少し引用しよう。

 人間ではその全貌を把握しきれいないからこそ、思考のテーマをとめどなく産出する怪物は、まるで神学を誤作動させてような巨大な知的システムへと人間を導く。『白鯨』とは何よりまず、怪物に呼び覚まされた異常な思考をめぐる小説である。
 メルヴィルの企ては、たんに冒険小説ふうに怪物を探求するだけでなく、その探究の手法(マニエラ)を発明することにあった。(中略)そこには「鯨学」という学問的な語りがあるかと思えば、鯨の生々しい解体も含む船員体験のレポートがあり、鯨と闘うセンセーショナルな光景がある。モービー・ディックと呼ばれる伝説な鯨は巨大な迷宮であり続ける一方、鯨についての語りはとめどなく増殖し、この怪物をミステリアスな多面体として再創造する。

『世界文学のアーキテクチャ』235ページ

 本書において、19世紀アメリカで発展した世界文学のかなり重要な作品としてメルヴィル『白鯨』が取り上げられている。記述の分量からしても、その重要性はわかる。小説の形式の進化史という側面から考えても、メルヴィルの偉大さは際立っている。白鯨という全貌を把握しきれないがゆえに、神学のようにすべてを読み込むことが可能である存在を作り出し、そこに世界そのものを書きこみ、読み込んでいく。メルヴィルの企てはそうした壮大なものとして描かれる。その後、ベケットやJ.G.バラード、ジョージ・オーウェルなどを論じて本書は終わる。

 とにかくあまりに壮大で、さまざまなことが書かれているので、一度読んだだけでは、それこそ『白鯨』のように全てを把握しきれていない感覚に陥るかもしれないが、にもかかわらず、本書からは知的な面白さ、刺激を強く感じた。資本主義、グローバル化、脱中心化、不確実性、そうした、時代に過剰に適応しつつも、そこから逃れることを常に企てる文学のダイナミックで、反社会的な面白さを、本書からは十分に読み取ることができた。

 とにかくすごい本だった。本書を読んでいて、文学が読みたくなった。そのように、知には人を知に駆り立てる何かがある。著者の福嶋亮大もまた、そのようにして世界文学という森に誘われていったのだろうし、その福嶋が提示する本書における地図もまた、私たち読者を知に誘っている。今回この本を読んで、福嶋亮大という批評家の過去の作品にも興味が出た。これまで、中国文学、中国文化の専門家であるというくらいの漠然としたイメージしか持ち合わせていなかったが、そうした先入観を大きく超えるスケールの書き手だということがわかった。著者の今後を注視したい。



いいなと思ったら応援しよう!