見出し画像

​「アメリカ的批判主義」の罠と、自尊心・オープンネスのバランス

YouTubeで、パランティアのCEOであるアレックス・カープが喋っている動画を偶然見かけた。

一人のIT経営者としての発言にしては、あまりにも政治への関与が深く、強烈な思想を感じた。シリコンバレーのテック企業といえば、中立的でリベラルなスタンスを取るのが一般的だというイメージがあったからこそ、彼の異質な存在感に純粋に興味を持った。

それが、彼の著書『テクノロジカル・リパブリック』を手にとったきっかけだ。

本書でカープらが展開しているのは、現代のアメリカのテックエリートやリベラル層に対する、冷徹なまでの批判である。

彼らは、自らのテクノロジーがもたらす弊害(プライバシー侵害や格差など)を恐れ、客観的・中立的であろうとするあまり、社会の基盤を支える重いリスクから逃げ出しているのではないか。批判を恐れるあまり、SNSや広告といった、安全で実害のない消費者向けプロダクトにばかり頭脳を浪費しているのではないか、と。

著者は、現代の「過度な自己批判」の背景には、アメリカの学界や知識層が数十年をかけて積み重ねてきた、ある歴史的な経緯がある、と指摘している。

1978年、文学批評家のエドワード・サイードは『オリエンタリズム』という著作を発表した。この本は、アメリカにおける戦後の人文学・社会科学において最も影響力のある一冊と言われている。

サイードが暴いたのは、西洋が東洋を研究したり描写したりする行為が、単なる客観的な学問ではなく、実は植民地支配という「権力構造」と深く結びついた政治的な言説であったという事実だ。西洋は、自らを「合理的で進歩的」と定義するために、東洋を「非合理的で停滞的」という都合の良いステレオタイプとして創り出してきた。

この鋭い告発は、当時のアメリカの学会に大きな地殻変動を起こした。

それまで主流だった、冷戦戦略や外交政策に直結する伝統的な「地域研究」は、植民地主義的な偏見に満ちているとして激しい批判に晒された。大学のカリキュラムからは「西洋の偉大な著作」を至高とする伝統的なリベラル・アーツが後退し、ジェンダー、人種、ポストコロニアルといった、多角的な視点を取り入れる学界再編が進んでいった。

自らの偏見を省み、他者の視点に心を開く。この姿勢は、学問の誠実さを担保するための重要なアップデートだったはずだ。

しかし、歴史はここから奇妙な方向へと転がり始める。

自らの歴史や文化が持つ「負の側面」を直視し、自己批評を続けること。この知的な美徳を徹底的に突き詰めた結果、アメリカの知識層やテックエリートたちは、ある罠に嵌まることになった。

それは、「批判の無限後退」という罠だ。

あらゆる価値観や伝統を「特権的ではないか」「誰かを排除していないか」と相対化し、自己批評の刃を自らの足場にまで向け続けた結果、最終的には「自分たちが信じるに足る絶対的な根拠」が何も残らなくなってしまったのだ。

客観的でオープンであろうとする誠実さそのものが、自らを支えていた骨組み(アイデンティティ)を解体してしまう。これが、現代の知識層が直面している皮肉である。

拠り所を失った社会はどうなったか。無限の自己批評がもたらす不確実さに耐えかねた人々は、今度はその反動として、他者を激しく排斥するような、極端で硬直したアイデンティティ(過激なナショナリズムや、キャンセルカルチャーに代表される党派性)へと逃げ込むようになった。

オープンであろうとした果てに足場を失い、かえって社会の分断が加速していく。この漂流から抜け出すには、どうすればいいのだろうか。

ここで、私たちが日常的に使っている「自尊心」という言葉について考えてみたい。

日本語の日常会話において「自尊心」という言葉は、ともすれば「自己中心的」「プライドが高い」「傲慢」といったネガティブなニュアンスを暗黙的に含んでいるように感じられる。

実際、私たちの社会では、突出して自己を主張することや、周囲の調和を乱すような姿勢は「利己主義」とみなされがちだ。そのため、私たちは自尊心を抑えることこそが、他者に開かれた寛容な態度であると考えがちだ。

しかし、西洋の哲学や心理学が本来前提としている「自尊心(セルフ・エスティーム)」は、それとは全く異なる意味を持っている。

それは、他者より優れていると思いたい欲求(= プライド)ではない。

「自分はここにいていいんだ、他者と比べる必要はないんだ」と、自分の存在そのものを無条件に信頼できる感覚のことだ。

こう定義し直してみると、一つの核心的な逆説が見えてくる。

実は、この意味での「自尊心」がなければ、人は本当の意味で「オープン」にはなれない、というファクトだ。

もし、自分の中に「比べる必要のない足場(自尊心)」が脆弱な状態で、異なる価値観に直面したり、激しい自己批評を行ったりしたらどうなるだろうか。

それは自分の存在そのものを脅かす、耐え難い攻撃に感じられてしまうはずだ。結果として、自分を守るために過剰に防衛的になって心を閉ざすか、あるいは主体性を失って相手の意見にただ流されてしまう。

「私は私として、ここにいていい」

「あの人はあの人として、そこにいていい」

自分という存在への静かな信頼があるからこそ、人は初めて、自分の価値観が脅かされる恐怖から解放され、異なる意見を恐れずに受け入れる心の余裕を持つことができる。そして、仮に自分の間違いを認めたとしても、自分の存在価値自体は揺らがないと思えるからこそ、素直に非を受け入れて自分をアップデートすることができるのだ。

『テクノロジカル・リパブリック』でアレックス・カープらが批判したテックエリートたちの漂流は、まさにこの「存在レベルの足場」を失ったオープンネスの危うさを物語っている。

他者に開かれた心を保つことと、自分自身の足場を維持することは、決して矛盾しない。むしろ、強固な足場があるからこそ、人はどこまでもオープンでいられる。

固定的な肩書きや、頑なな主義主張の殻に閉じこもる必要はない。

ただ、「他者と比べる必要はなく、自分はここにいていい」という静かな自尊心だけは、自分の中にしっかりと持っておく。

変化が激しく、正解の見えない現代において、「オープンであり、かつ自尊心を重視する」というバランス感覚こそが、私たちが自分を見失わずにしなやかに生き抜くための、最も合理的な生存戦略なのだと思う。

いいなと思ったら応援しよう!