あかねさす ――神人最後の姫 #1旅立ち
第1話 旅立ち
神人は、かつて人に乞われて地上へ降り立った神々の血を引く。
けれど、それはすでに過ぎ去りし時代の物語だ。
多くの神人は天へと昇り、あるいは血を薄め、地上の主権はとっくに人間たちの手へと渡っていた。
森閑とした深山の奥深く、幾重にも張られた結界に守られて、その里はあった。
しめ縄を巡らせた巨大な岩代の前に一人の翁が立っていた。
翁に向かい合って、年の頃十二、三歳の男童が立っていた。
岩代を背に翁が厳かに言った。
「茜丸、そなたが生を受けてから干支が一巡りし、力の目覚める時が来た。今日よりそなたは茜丸ではない。神人最後の姫──茜姫として歩む時が来たのだ」
トン、と杖で地面を突く。
「今から力の使い方を教える」
男童の姿をした少女──茜姫の顔がパッと輝いた。
「ようやくか!」
「はしゃぐでない」
翁は杖で茜姫を小突いた。
「そなたの力は天地の理を借り神にも通じるもの。気安い心持ちで向き合ってよいものではないぞ」
「ちぇっ」
茜姫は口を尖らせた。
「また杜松爺の説教か」
「よいか、茜姫。そなたは我ら神人の最後にして最大の力を受け継ぐ者──」
その時、茜姫は岩代の頭上高くの枝に影が座っているのを見た。
猿にしては大きく、木霊にしては形が歪で影が濃い。
「爺、あれはなんだ?」
はっと杜松翁が振り返る。
一瞬だけ表情が変わった。
「見るな」
しかしもう遅い。
影が
コル、コルルルル……
と鳴いた。仲間を呼ぶように。
その瞬間、山中のあちこちから返事がする。
コルル……
コルル……
コルル……
杜松翁の顔に焦りが浮かんだ。
「しまった」
「結界が見つかった」
「茜姫、こちらへ」
茜姫をすぐ傍に呼び寄せると、杜松翁は仲間を呼んでいる影に向かって杖をふるった。
「散!」
言霊だけで影が霧散した。
「爺、追い払えたの?」
しかし、安堵したのは束の間だった。
煤のようにボロボロと崩れた影の残滓から、新たな影たちが次々に湧いて出る。
コルルル……、コルルル……と呼び交わす声がさらに周囲に増えた。寄ってきている。
「──いかん、そうじゃった、奴らは仲間の死骸を足掛かりにして湧いて出る。わしも焼きがまわったわい」
悔し気にそう呟くと、今度は杖を地面に突き立てた。
「結!」
その瞬間、杜松翁と茜姫の周りに光の円陣が現れた。
数を増した影たちは光に怯え、遠巻きに鳴き交わしている。
「爺、あれはなんだ」
「斥候じゃ、神人を探して居る」
「俺のせい?」
「……誰のせいでもない」
短い会話の間にも、光の輪の外側には異形の影が増えてきている。
茜姫ははっと里の方向を振り返った。
鳥たちが一斉にバラバラの方向へと逃げ去って行く。
黒煙のような瘴気が湧きたち、周囲の森の神木の枝がみるみる黒く枯れてゆく。
「里が!」
「離れるでない」
杜松翁が姫の腕を捕まえた。
「わしが千年かけて練り上げた結界じゃ。斥候程度では破ることはできん。それに里人も結界術は身に着けている」
「だけどこのままじゃ」
杜松翁と茜姫の周囲だけ闇が落ちたように暗く、二人を包む結界はその闇にともる灯りのようだった。
手先を、顔を、光に削り取られながらもなおも結界に縋りつく異形の影の姿に、茜姫の心は怯えを隠せなかった。
「どうにかしなくちゃ」
「怯えてはならん」
粛然として杜松翁が言った。
「亜神は心の弱さや負の感情から生まれる者。怯み、己を疑ってはならぬ」
その時、パキン、と鋭い音を立てて光の結界の一部が破られた。
黒い靄のような斥候たちの後ろに、鬼のような巨大な姿が現れた。顔のある部分に幾つもの赤い目だけが鬼灯のように輝いている。
「杜松爺!」
「ぬう!」
振り向いた茜姫の目の前で、杜松爺は膝を付いた。
結界の裂けめに両腕をかけて、鬼は結界を引きちぎろうとしている。
結界に触れた部分から腕が消滅し、そこからまた新たな腕が生えてくる。
何本もの腕に無理やり押し広げられ、メキメキと音を立てて結界が崩れてゆく。足元の地面が焦げて、やがて溶けて赤黒い溶岩になる。
瘴気と神木の焦げる匂いがあたりに漂う。茜姫が初めて知る死の匂いだ。
杜松爺が血を吐いた。
「杜松爺! いやだ!」
茜姫は震えた。幼いころから育ててくれたこの人を失いたくない。
湧き上がってくる恐怖と、そして言いようのない怒り。丹田の辺りで生まれた熱が、光が、血管を伝って体中に巡って行く。
熱が止まらない。光が身体を突き破ろうとする。
「いやだーっ!」
茜姫が叫ぶと同時に全身から光が放たれた。
その瞬間、天地が鳴動した。
光が暴走し、燃え残った杉の若い幹が裂け、巨大な岩代が浮きかける。
「姫、飲まれてはいかん!」
杜松爺は決死の形相でとっさに唱えた。
「相克!」
竜巻のような衝撃が岩代を叩きつけ、地面に深い亀裂が走った。
激しい光が亜神もろともにあたりの景色を溶かし、轟音が鳴り響く。
(……抑えきれぬ)
杜松翁の結界術だけが、光の洪水の中でひび割れながらもなんとか形を保っていた。
やがて光が消えると、亜神の姿も消え失せていた。
亜神たちの撒き散らした瘴気を祓うように、通り雨が降ってきた。
雨粒が瘴気に触れるたび、黒い靄は音もなく溶けていった。
竜巻の中心で茜姫は両手両足をつき、荒い息をついていた。
その横には杜松翁が杖を握りしめて倒れ伏していた。
はっと気づき、茜姫が杜松翁にすり寄った。
「杜松爺、しっかりしろ」
「揺するでない」
そう言って杜松爺はまた血を吐いた。
「……これほどとは──」
誰ともなくそう呟く。
「茜姫」
「なんだ」
杜松翁は震える声を抑えつけるように言った。
「旅立ちの日が来てしまった」
はっと息を飲む茜姫に降りかかる細かな雨が、まだ消えやらぬ力の残滓に触れて蒸気になって消えた。
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