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弔辞は何を話せばいい?「上手な文章」より大切な、たった一つのこと

「山田! お前は、俺の戦友だった……!」

あるご葬儀で、ご友人代表の男性がご霊前に立ち、最初にそう呼びかけました。

会場が、一瞬どよめきました。

静かな葬儀式場の中で、突然飛び出した「戦友」という言葉。

けれど、そのあと語られていった二人の思い出に、参列されていた皆さんが次第に引き込まれていきました。

そして気がつけば、あちらこちらで涙をぬぐう姿がありました。

私はこれまで、葬儀の仕事を通してたくさんの弔辞を聞いてきました。

その中で感じることがあります。

本当に心に残る弔辞は、文章が上手だから心に残るのではありません。

その人にしか話せない、故人との「一つの記憶」があるから、心に残るのです。

今回は、葬儀社として数多くのお別れに立ち会ってきた私が、

「弔辞を頼まれたけれど、何を話せばいいのか分からない」

という方へ向けて、心に残る弔辞の作り方について書いてみたいと思います。


そもそも「弔辞」は、誰に向かって話すのでしょうか

意外と知られていないのですが、

弔辞と喪主挨拶は、まったく違います。

喪主挨拶は、ご遺族を代表して、参列してくださった皆様へ感謝を伝えるものです。

「本日はご多用の中、故人のためにご会葬いただき、ありがとうございました」

というように、参列者へ向けてお話しします。

一方、弔辞は違います。

友人。

同僚。

上司や部下。

恩師。

故人と深い時間を共有した方が、ご霊前に立って、

亡くなった本人へ直接語りかける言葉です。

「〇〇さん」

「〇〇君」

「あなたと初めて出会った日のことを、今でも覚えています」

そんなふうに、故人へ話しかけます。

共に過ごした時間。

感謝していること。

忘れられない言葉。

本当は生きているうちに伝えたかったこと。

そして、最後のお別れ。

私は弔辞とは、

「故人に宛てて語りながら、実際にはご遺族の心へも届けていく、最後の手紙」

なのだと思っています。


「優しい人でした」だけでは、その人の姿は見えてこない

弔辞を書こうとすると、多くの方が、

「とても優しい人でした」

「立派な方でした」

「誰からも慕われていました」

「心から尊敬していました」

といった言葉を思い浮かべます。

もちろん、それが悪いわけではありません。

でも私は、弔辞で本当に大切なのは、その先だと思っています。

なぜ、その人を「優しい」と思ったのか。

そこです。

たとえば、

「とても優しい上司でした」

だけではなく、

「私が仕事で大きな失敗をしたとき、皆の前で私をかばってくれました」

と話す。

すると突然、その人の姿が見えてきます。

「優しい人」という評価ではなく、

実際に生きていた、その人の一場面。

人の心が動くのは、そこなのだと思います。


私が今でも忘れられない、ある上司への弔辞

以前、私が立ち会ったご葬儀で、ある男性が亡くなった上司へ弔辞を捧げました。

その中で語られた話が、今でも忘れられません。

その男性が、会社へ入社して間もない頃のことでした。

大切なお客様との約束の時間を間違えてしまい、会社へ大きな迷惑をかけてしまったそうです。

本人は、

「もう会社を辞めるしかない」

と思ったそうです。

皆の前で、うつむいて謝っていました。

そのときです。

上司だった故人が、皆の前でこう言いました。

「この失敗は、彼一人の失敗ではありません。私の責任です」

そして、そのあと二人きりになったとき、

上司はこう話したそうです。

「失敗した人間を責めるのは簡単だ。でも、失敗した人間を育てるのが、上司の仕事だ」

弔辞を読んでいた男性は、涙をこらえながら、亡くなった上司へ語りかけました。

「部長。あの日、私を見放さず、もう一度立ち上がる機会を与えてくださったから、今の私があります」

そして、

「あの日いただいた言葉を、今度は私が後輩たちへ伝えていきます」

と言いました。

その瞬間、会場にいた、かつての部下の方々が静かにうなずいていました。

私はその光景を見ながら、

人がこの世に残すものは、肩書きや実績だけではないんだ

と、あらためて思いました。

一人を救った言葉が、その人だけで終わらない。

受け取った人から、また次の人へ渡っていく。

人が亡くなっても、その人が残した言葉や生き方によって、誰かを支え続けることがあります。

弔辞には、

「あの人は、確かにこう生きた」

「その生き方は、今も私たちの中に残っている」

ということを、皆で確かめ合う力もあるのではないでしょうか。


ご家族は、弔辞で「知らなかった父」を知りました

実はこの弔辞には、もう一つ忘れられない場面があります。

それは、ご家族の表情です。

亡くなった男性は、ご自宅では仕事についてあまり話さないお父様だったそうです。

ですからご家族は、

会社で部下を守っていたこと。

若い社員を育てていたこと。

誰かが失敗したとき、責めるのではなく支えていたこと。

そうしたお父様の姿を、ほとんど知りませんでした。

弔辞を聞きながら、

初めて「会社でのお父さん」を知ったのです。

もし、

「立派な上司でした」

「素晴らしい方でした」

だけだったら、ここまでは伝わらなかったかもしれません。

しかし、

たった一つの出来事と、

たった一つの言葉があることで、

その人がどう生きていたのかが見えてくる。

ここに弔辞の大きな意味があると、私は思っています。


弔辞は、ご遺族が初めて知る「もう一つの人生」でもある

ご遺族にとって弔辞とは、

亡くなったあとに初めて知る、大切な人の**「もう一つの物語」**になることがあります。

家では見せなかった姿。

家族には話さなかった出来事。

職場で誰かを救っていたこと。

誰にも見られていないところで続けていた小さな思いやり。

そんな話を聞くことで、

深い悲しみの中に、少しだけ別の感情が生まれることがあります。

それは、

誇らしさ

です。

「この人と家族でいられて、本当によかった」

「私の知らないところでも、夫はこんなに人を大切にしていたんだ」

「こんなにも周りの方から愛されていたんだ」

もちろん、それで悲しみがなくなるわけではありません。

大切な人を亡くした悲しみは、そんな簡単なものではありません。

それでも、

「あなたと出会えてよかった」

「あなたから受け取ったものを、これからも大切にしていこう」

そう思えることが、

残されたご家族がこれから生きていくうえで、小さな支えになることがあります。

だから私は、

もし弔辞を頼まれたら、できることなら引き受けていただきたいと思っています。

あなたしか知らない故人の姿があるかもしれないからです。


弊社スタッフが、50代で亡くなった同僚へ捧げた弔辞

もう一つ、ご紹介したい弔辞があります。

これは弊社スタッフが、50代前半で亡くなった同僚へ実際に捧げた弔辞をもとにしたものです。

私自身、この言葉にはとても心を動かされました。


「鈴木さん。

あなたは、私にとって、ただの同僚ではありませんでした。

同じ部署で働き、ときには競い合い、ときには励まし合う、まさに戦友でした。

鈴木さんが頑張っているから、私も負けてはいられない。

あなたの背中を見るたびに、私は何度も奮い立たされました。

けれど私にとってあなたは、同僚やライバルという言葉だけでは表すことのできない存在でした。

家族のような存在でした。

私の母が亡くなったときのことを、今でも鮮明に覚えています。

母を失った悲しみを、私はどう受け止めればいいのか分かりませんでした。

家にいても、会社にいても、何気ない瞬間に母を思い出してしまう。

昼休み、会社の食堂で皆と食事をしているときにも、涙をこらえることができませんでした。

『つらい』

『寂しい』

『どうしたらいいのか分からない』

私は何度も、同じ話をしていましたね。

けれど鈴木さん。

あなたは、一度も私の話を遮りませんでした。

『元気を出して』

『いつまでも悲しんではいけないよ』

そんなことも言いませんでした。

ただ隣に座り、

『うん、うん』

とうなずきながら、ずっと話を聞いてくれました。

ある日、母の話をしながら泣いていた私は、ふとあなたの顔を見ました。

あなたも、本当に悲しそうな顔をしていました。

そして、あなたの目にも涙が浮かんでいました。

その瞬間、私は思ったんです。

『この人は、私の悲しみを分かってくれている』

『この苦しみを、一人で抱えなくてもいいんだ』

母が戻ってきたわけではありません。

悲しみがなくなったわけでもありません。

それでも、

『この悲しみを分かってくれる人がいる』

それだけで、心が少し軽くなりました。

鈴木さん。

あなたの『うん、うん』という相づちと、目に浮かべた涙が、

どんな立派な励ましの言葉よりも、私の心を救ってくれました。

人は本当につらいとき、

正しい言葉や立派な助言を求めているのではないのかもしれません。

ただ隣にいて、一緒に悲しんでくれる人。

自分の痛みを、自分のことのように受け止めてくれる人。

そんな人が一人いるだけで、人はもう一度、前を向くことができる。

そのことを、あなたが教えてくれました。

鈴木さん。

あの日、あなたが私の悲しみに寄り添ってくれたように、

今度は私が、あなたとの別れを悲しんでいます。

でも、今の私の隣にはあなたがいません。

それが、たまらなく寂しいです。

本当は今日も隣に座って、

『鈴木さんがいなくなって、本当につらいんだ』

って、この悲しみを聞いてほしかった。

あなたから受け取った優しさを、

今度は私が、悲しみの中にいる誰かへ渡していきます。

あなたと同じ時代に働けたこと。

良きライバルとして競い合えたこと。

そして家族のように、心と心でつながれたこと。

それは私にとって、かけがえのない幸せでした。

どうかこれからも、

あの日と同じ優しい表情で、私たちを見守っていてください。」


「うん、うん」だけで、人を救うことがある

私は、この弔辞の中でも特に、

「うん、うん」

という言葉が忘れられません。

何か気の利いたことを言ったわけではない。

問題を解決したわけでもない。

悲しみを消したわけでもない。

ただ、一緒に悲しんだ。

ただ、話を聞いた。

それだけです。

でも、人は本当に苦しいとき、

「頑張って」

「元気を出して」

と言われることより、

自分の悲しみを分かろうとしてくれる人の存在に救われることがある。

葬儀という仕事をしている私たちにとっても、これはとても大切なことだと思っています。

私たち葬儀社は、悲しみを消すことはできません。

ご家族に代わって悲しむこともできません。

けれど、

話を聞くことはできる。

隣にいることはできる。

その方の想いを大切に扱うことはできる。

私は、葬儀の仕事の根本も、案外ここにあるのではないかと思っています。


心に残る弔辞を書くために、覚えておいてほしいこと

もし、これから弔辞を頼まれることがあったら、

難しく考えすぎないでください。

立派な文章を書こうとしなくても大丈夫です。

まず思い出してほしいのは、

「その人らしい、一つの場面」

です。

一緒に大笑いしたこと。

苦しいときに助けてもらったこと。

厳しく叱られたこと。

何気なく言われた、忘れられない一言。

一緒に頑張った仕事。

二人だけが知っている出来事。

そして、

「あのとき本当はありがとうと言いたかった」

ということ。

その一場面を、自分の言葉で話してみてください。

「優しい人でした」

ではなく、

「私は、あなたのどんな優しさを見たのか」

を話してみてください。

それだけで、

世界に一つしかない弔辞になります。


上手に読めなくてもいい。泣いてしまってもいい

弔辞を読むときに、

「泣いてしまったらどうしよう」

と心配される方もいます。

でも、私は思います。

泣いてしまってもいいんです。

途中で声が震えてもいい。

言葉に詰まってもいい。

少し沈黙してもいい。

それは失敗ではありません。

大切な人との、最後のお別れです。

流暢に読むことより、

その人へ本当に伝えたい言葉があることの方が、ずっと大切です。


お葬式は、「その人がどう生きたのか」を受け取る場所

人が亡くなっても、

その人の言葉や生き方まで、すべて消えてしまうわけではありません。

誰を支えたのか。

誰に愛されたのか。

どんな言葉を残したのか。

何を、次の人へ渡したのか。

そうしたものは、残された人の中で生き続けます。

だから私は、

お葬式とはただ故人を送り出す場所ではないと思っています。

その人が、どのように生きたのか。

誰を大切にしてきたのか。

何を残してくれたのか。

それをご家族やご友人が受け取り、

これからの人生へ持っていく場所でもある。

そう思っています。

今は、直葬や火葬式、一日葬、家族葬など、お葬式の形もさまざまです。

どの形が正解ということではありません。

それぞれのご家族に、それぞれの事情があります。

ただ、私たちが数多くのお別れに立ち会う中で感じるのは、

お別れの時間を持ったからこそ、初めて交わされた言葉がある

ということです。

初めて聞く父の話。

知らなかった母の姿。

家族の前では見せなかった夫の優しさ。

会社で慕われていた妻の姿。

それを知ることもまた、

お葬式の大切な意味の一つなのではないでしょうか。


最後に――弔辞を頼まれたあなたへ

もし弔辞を頼まれたら、

ぜひ、できる範囲で引き受けてみてください。

上手に話そうとしなくても大丈夫です。

難しい言葉も必要ありません。

あなたが覚えている、

故人との一つの記憶

を届けてください。

その言葉は、

故人への最後のお別れになるだけではありません。

「この人は、こんなふうに生きていたんですよ」

と、ご遺族へ伝える言葉にもなります。

そして、その言葉が、

深い悲しみの中にいるご家族の心を、

いつの日かそっと支えるものになるかもしれません。

弔辞とは、

亡くなった人へ届ける最後の手紙であり、

同時に、

残された人たちへ手渡す「その人が生きた証」

なのだと私は思っています。


多摩中央葬祭では、YouTube「多摩おそうぎチャンネル」を通して、葬儀のマナーや葬儀費用、家族葬、終活、そして普段なかなか聞くことのできない葬儀の話を発信しています。

「死」や「葬儀」という話題は、できれば考えたくないものかもしれません。

でも、死を考えることは、

どう生きるかを考えることでもあります。

これからも葬儀の現場で感じたことや、忘れられないお別れのお話を、このnoteでも綴っていきたいと思います。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。