思考のブロックを創ること
ここ最近は、なるべく執筆を習慣化するように意識している。
特に書きたいことが思い浮かばなくとも、ひとまず書き始める。そのようにしていると、少しずつ脳と指が繋がっていって、自ずと文章が出てくるようになってくる。別に偉そうなことを言えるほど上手い文章ではないけど、そういった習慣を続けていくことにはそれなりに意味があるのだろうとは思う。
たぶんこれは筋トレと同じなのだと思っていて、こういった『執筆筋』とでも呼ぶべきものを付けていくにはそれなりの期間が必要とされて、サボるとしっかりと衰える。だからやっぱり続けていく必要が生じる。
だから今日も今日とて文章を書いている訳だけど、そんな風にしているとまた別の問題が生じてきたりもする。書けば書くほど各テーマが増えていくのだ。テーマAを書いたりする。そうすると、テーマAの続きを書きたくなったり、或いはテーマAの背後を補完するための文章を書かなければいけないと思わされたり。ともかくどんどん執筆することが増えていくのだ。
もちろん、執筆を習慣にしたい自分にとってネタ切れに困らないと言うのは悪いことではない。でもしかし、こんな風に色々出てくるという現象とはそもそもなんなのだろうか?今日はそんなことについて考えてみようかと思う。
長期間1つのテーマを考えていると、暗黙知が溜まってくるものだが、それは形式知と違って自分で出力するしかない。でもそれはAI時代も価値を持つのでサボってはいけない。世界観はピラミッドのように成形されるとすると、譬え不完全であっても、ブロックを作らないことには積み上がらないのだから。
— たお|散歩と暮らし。 (@tao_diary0) October 2, 2025
"暗黙知"を溜めること
ここ最近、執筆を習慣化する中で感じているのは、自分の頭の中に「言葉にならない知識」が少しずつ溜まっていくということだ。文章を書く前の段階ではまだ曖昧で、形を持たないのだけれど、確かに自分の中に何かが芽生えつつある感覚がある。
哲学者マイケル・ポラニーが『Personal Knowledge(1958)』や『The Tacit Dimension(1966)』で提唱した「暗黙知(Tacit Knowledge)」という概念がある。彼は「私たちは言葉にできる以上のことを知っている(We can know more than we can tell)」と述べた。つまり、人間の知識の多くは、完全に言語化されたマニュアルやデータではなく、身体感覚や経験、直感の中に眠っているのだ。たとえば自転車の乗り方を説明することは難しいが、いざ乗れば身体が勝手に動いてくれる。それと同じように、日々の思考や体験の中で暗黙知は蓄積していく。
文章を書くという行為は、この暗黙知を少しずつ「外に出す」試みでもある。頭の中だけに留めておけば、やがて自分自身ですら取り出せなくなってしまう。けれども文章にしておけば、不完全であれ、後から見返して「ああ、自分はこんなことを感じていたのか」と再発見できる。だからこそ、暗黙知をただ溜めるだけでなく、形にして残す営みが重要になる。
芋づる式に増える暗黙知
そして、このようにしていると暗黙知は芋づる式に増えていく。
ひとつのテーマについて書き始めると、その背後にある前提や背景が気になり、別の文章を書かざるを得なくなる。あるいは、一度書き上げたものを後から読み返してみると「ここは補足した方がいい」「この部分はもう少し掘り下げられる」と思わされ、自然と続きが派生していく。
この現象は、ただアイデアが湧いてくるというよりも、暗黙知がネットワークのように結びついているから起きるのだろう。ポラニーが言うように暗黙知は「形式知の基盤に横たわる背景的知識」であり、それぞれが孤立して存在しているわけではない。むしろ「ある知」を外化すると、その隣接領域に眠っていた関連知識が引きずり出される。まるで蔓(つる)を引っ張ると土の中から芋が連なって現れるように。
文章を書くというのは、単に自分の知っていることを一方的に並べるのではなく、頭の中の暗黙知ネットワークに手を伸ばして、リンクを次々に浮かび上がらせる作業なのかもしれない。書けば書くほど、そのネットワークは可視化され、また別の結びつきが見えてくる。
だからこそ、執筆を続けることは「暗黙知をリンクさせる習慣」と言える。無理に体系化しようとしなくても、文脈を溜めていくうちに自然とそれぞれが結びつき、気づけば自分だけの知の地図が描かれていくのだ。
思考ブロックとしての文章
芋づる式に暗黙知が引き出されていくのは面白い現象だが、同時に注意しなければならないことがある。それは、頭の中でいくら連想が広がっても、それを一つの「完成したかたち」として外に置いておかないと積み上がらない、ということだ。
文章は、知識の断片を「ブロック」として切り出す営みだと思う。たとえ不完全であっても、一つのまとまりとして外化しなければならない。なぜなら、ブロック化されない思考は、砂のように指の間からすり抜けてしまうからだ。
もちろん、そのブロックは歪んでいてもかまわないし、穴が開いていてもよい。むしろ完璧さを求めるあまり、積む前から加工に時間をかけすぎれば、かえって全体像はなかなか立ち上がらない。未完成でもいいから、まずは地面に置くことが必要なのだ。
ピラミッドのような大きな構造も、一つひとつの石を積み上げてこそ形になる。文章も同じで、個々のテキストがブロックとなって初めて世界観は立体化される。書きかけのノートや断片的な日記も、後から見返せば確かに礎石となっている。
だからこそ、思考は「不完全でもブロックを完成させること」に価値がある。ブロックが積み上がれば、それはやがて全体の輪郭を持ち始め、自分の世界観を形づくっていく。
AI時代でも世界観を積み上げること
AIが生成する整った文章や、検索すればすぐに出てくる体系化された知識は、すでにコモディティ化している。誰の手元にも同じように届き、そこには大きな差異は生まれない。形式知の世界では、効率と均質化が徹底的に進んでいるのだ。
けれども、不完全でも自分の暗黙知をブロックとして積んでいく営みは、コモディティにはならない。粗さや歪みを含んだまま置かれるブロックは、その人特有のものだ。
それらはやがて、ピラミッドのように積み上がっていく。とはいえ、完全に仕上がった姿になるわけではない。未完のまま増築され続けるからこそ、その積層の中に「世界観」が立ち現れる。
結局のところ、この時代において価値を持ちうるのは、整った知識そのものではなく、未完成のピラミッドとして積み上がっていく「世界観」なのだと思う。
