怒鳴ってばかりの夫が、最後に妻に差し出したもの
「800円かん?」
突然奥さんが声を上げた。
かなり大きな声。
近くのテーブルの人たちが思わず目をやる。
「なら、千円かん?」
「なんでだ!二千円だ」
ご主人が声を荒げた。
病気治療のために、ここに通い出して一年半になる。
地域の総合病院だ。
診察が終わった後の二階レストランでのランチが、私はとても楽しみだ。
一階にもおしゃれなカフェがあるが、どうしてもこちらに足が向く。
ここには、様々な患者やその付き添いが集まってくる。
地中でもない、空でもない。
地上1mにふわりと浮かんでいるような場所。
どこかホッとしたような、独特な空気が流れている。
たいしたメニューはない。
日替わり弁当に、カレーうどんにあんかけスパなど。
私がいつも座るのは、窓際の席。
四方に広がる大きなガラス窓。
遠くに山並みが見える。
今日も会計を済ませると、早々と二階に上がった。
混みだす前に入れそうだ。
いつもの席に着き、ほっとして横を見ると、
80代後半に見える、夫婦が座ってる。
テーブルには、空になったコップとおしぼり。
二人とも押し黙って、睨むようにキッチンの方を見ている。
15分ほど経って、ようやくあんかけスパが運ばれてきた。
隣のテーブルの空気が少しゆるんだ。
あんかけスパときたか。
日替わり弁当でも、カレーうどんでもない。
あんかけスパ。
まぁご当地グルメなのは間違いないが。
コップが空になっているのを、ホールスタッフが目に留めて、
「お水は取りに行ってくださいね。」と言い残して行ってしまった。
「なんで、持ってきてくれんの。足が悪いのに」とボヤく奥さん。
ご主人は、聞こえてないかのように、あんかけスパを食べ始めた。
店のレジテーブルの横に水のポットが置いてある。
この席からだと20mは優にある。
私が持ってきてあげようか。
腰を浮かせかけた。
すると、ご主人が急に席を立った。
何も言わず、手には空のコップが2つ。
しばらくすると、水が半分ほど入ったコップを両手に持って戻ってきて、テーブルの端にトンと置いた。
何事もなかったかのように、
ズルズル音を立てて、あんかけスパをすする高齢夫婦。
まぁいい。ここは日本だ。
それも地方の総合病院のレストラン。
思いっきり啜ればいい。
私は自分に運ばれた、日替わり弁当を食べ始めた。
アイスコーヒーもつけた。
聞こえていた麺を啜る音が、止んだ。
お隣さんは、食べ終わったようだ。
すると奥さんが、
「800円だから千円だ」
また始まった。
「違う!二千円出せ」
ご主人の声がレストランに響いた。
そんな言い方しなくたって…。
奥さんは、布の巾着を広げると、紫色に白のリボンのついた財布を取り出した。
そこから、モタモタしながら千円札を2枚取り出した。
その札をひったくるように、ご主人が受け取った。
刺々しい雰囲気に空気が凍る。
いつものゆったりくつろぎタイムが台無しだ。
ため息を飲み込んで、アイスコーヒーのストローを持ち直した。
無言のまま、ガタッと大きな音を立てて、ご主人が席を立った。
私はアイスコーヒーを飲むフリをしながら、二人から目が離せない。
ーー。
突然、奥さんに向かって、人差し指を差し出した。
顔は入り口近くにあるレジの方を向いてる。
真っ直ぐ差し出された、節くれだった人差し指。
すると、ゆっくり席を立った奥さんが、その人差し指に自分の指を絡めた。
ご主人は、背を向けたまま奥さんの方を一度も見ない。
でも、握られた人差し指の感触を確かめるように、レジに向かって歩き出した。
ゆっくりと。
奥さんは、その無骨な人差し指を、皺くちゃの指で握ったまま、もたれかかるように歩いて行った。
私は、誰もいない隣のテーブルを見た。
赤いソースが残った2枚の皿が、向かい合わせに並んでいた。
いいなと思ったら応援しよう!
よろしければ応援していただけると嬉しいです。
いただいたチップは、クリエーターとしての活動に使わせていただきます。
