アンダルスのアラブ性の由来
なぜアンダルスは滅びたのか、という疑問に答えるのは容易ではない。しかしアンダルスがなぜその形になったのか、どういう風に形作られて行ったのかはある程度推測することが可能である。
アンダルスは元々はキリスト教の土地ではあったが、イスラームが拡大するに当たってキリスト教は少数派に転落していった。
しかし東方のイランが宗教的にはイスラーム化しながらも言語はペルシア語を維持し続け独自の文芸を発達させ、政治的にも独立した地位によってアラブとは一線を画したのとは異なり、アンダルスは伝統的な文明を失ってアラブ世界の辺境になってしまい、滅亡まで政局の安定しない戦国状態が続いたという歴史がある。
アンダルスではローマ以来の文化の伝統が途絶えた。まず最初のイスラーム王朝であるウマイヤ朝の事情がこのアンダルスで引き継がれたからだ、というのがJ.A.Coope「The martyrs of Cordoba」の意見である。
ウマイヤ朝では非アラブの改宗者をアラブ人ムスリムのように優遇していなかった。
マウラー(mawla、複数形mawali)はそういう、アラブ人ではない人間のムスリムのことを指す言葉である。
アラブ人のなかには言語による同胞意識が固く存在しており、彼らはアラビア語を話さない人間をアジャム(ajam、特にペルシア人に対して用いられた)と呼んだ。これは古代ギリシア人が非ギリシア人を彼らの言葉を擬音として写取りバルバロスと言ったことに非常に似たものがある(近代史でもやはり言語による民族意識の共有は重要な要素だった)。
イスラームは後世には世界中の様々な場所に広がることになるが、その初期段階においてはあくまでもその布教はアラブ人の中に止どまっていた。そもそも預言者ムハンマドの活動自体が、アラビアを占めていた多神教徒の迫害にさらされ、何よりもまずエチオピアやペルシアからの脅威に対する応答として始まった説があることからして、イスラーム共同体が開放的であるはずもなかった。ムスリムは征服した陣営を兼備えた居住区ミスル(misr)をその時も原住民との混血が起こらないように厳重に接触が禁じられていたのである。
初期イスラーム共同体では、非アラブ人がイスラームに入信するためにはアラブ人の徒弟にならなければいけなかった。アラブにずっと古くから存在していた氏族制度の束縛が当初は色濃く残っていたのだ。
正統カリフを継承したウマイヤ朝は非アラブを差別し、人頭税などの免除などの特権を付与しなかったために内乱が起こったとされるが実際にはウマイヤ朝の記録はほとんどが後世に著されたもので、当時の物はほとんどない。また、ウマイヤ朝も後期になると確かにイスラーム要素が強まっていった。
アンダルスはイスラームの西の果てであり、イスラーム世界のもっとも中心である西アジアとはイスラームに対する見方や異教徒の扱い方にずれがあったのだろうと僕は推測する。そしてここで何よりも見過ごすことのできないのが、当然ながら、軍事的にも優れており、また北に広がるキリスト教のヨーロッパの存在だった。アンダルスのムスリムは、自分達の隣人が彼らに寝返ることを何よりも恐れていたし、憎んでいたのである。その事情を考えれば異教徒の血を引いているということを決して大っぴらにできないのは言うまでもない。ここに、アンダルスの深いアラブ化の遠因があるのではないかと見る。
