見出し画像

004. 親切心と英語という怠慢

日本の街を歩いていて、地図を見ながら途方に暮れている外国人の姿を見かけると、不思議と多くの日本人が「どうしたんだろう」と気にかける。
声をかけられなくても、声をかけられたなら、身振り手振りやスマホの画面を駆使して、目的地まで一生懸命案内しようとする。

道に迷った人を放っておけない。困っている人がいれば力になりたい。

その根っこにある日本人の優しさやホスピタリティは、紛れもなく本物で、この国が持つ美しい国民性の一つだと言っていい。

でも
そこでいつも強烈な違和感と、やり場のないもどかしさが残る。

これほどまでに「人に親切でありたい」という願いや気概があるのに、なぜ私たちは、その優しさを最前線で形にするための「英語」を学ぼうとしないのだろうか。

もちろん、それには明確な原因がある。

私たちは英語を「コミュニケーションの道具」ではなく、受験をクリアするための減点方式の暗記科目として叩き込まれてきた。

間違えることを極端に恐れ、「変な文法を話して笑われたらどうしよう」という羞恥心が植え付けられる環境で育ったからだ。さらに言えば、日本語という単一の言語だけで高度な経済や文化が完璧に回ってしまうこの島国では、生きるために英語を必要とする切実な瞬間が日常に存在しない。

だからこそ、私たちは「外国人に話しかけられて頭が真っ白になる」という事態を、どこか仕方のないこととしてやり過ごしてきた。

「気持ちがあれば、言葉なんて通じなくても伝わる」という美談で自分を納得させていないか。

もちろん、笑顔や身振り手振りで優しさが伝わる瞬間はある。けれど、本当の意味で相手の不安を取り除き、的確に助け舟を出すためには、最低限の「言葉」というインフラが絶対に必要だ。相手が本当に求めているのは、気まずい沈黙の中での温かいジェスチャーではなく、正確でスムーズな案内なのだから。

環境や教育のせいにして英語のインプットをサボり、肝心の場面でモジモジしてしまうのは、優しさの放棄とは言わないまでも、「優しさを伝えるための努力の怠慢」ではないのか。

本当に誰かを助けたい、スマートに手を差し伸べたいと思うなら、ただ「優しい日本人」のままで満足して立ち止まるのではなく、言葉という武器を仕入れるための泥臭い勉強を始めるべきなのだ。

親切心という素晴らしいエネルギーを持ちながら、それを言葉に変換する努力から逃げ続けている私たち。

――次に外国人が困っている場面に出くわしたとき、私たちはいつもの「カタコトの笑顔と身振り手振り」以外の選択肢を、ちゃんと用意できているだろうか。

いいなと思ったら応援しよう!