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西條和が遺した最後の問い:22/7「未来があるから」/西條和卒業コンサート

22/7 の楽曲「未来があるから」は、西條和卒業コンサートのラストソングとして披露され、可愛さの裏に哲学的な深みが宿っている。
歌詞には「本当の自分」と「他者に見える自分」の葛藤が描かれ、自己否定と他者承認の矛盾が弁証法的に展開される。
その中で「未来」が媒介となり、確かな答えではなく問いを残すことで、生成途上の自己意識へと誘われる構造が浮かび上がる。



ラストソングになった曲:22/7「未来があるから」

22/7(ナナニジ)の楽曲は、表面的には可愛らしいアイドルソング。しかし、その歌詞やメロディには哲学的・心理学的な深みが潜んでいる。その中の一曲に「未来があるから」がある。

「未来があるから」は、西條和卒業コンサートでアンコール曲で最後に歌っていた曲。西條和が卒業するにあたって、最後に私たちに送った最後のメッセージということもできるかもしれない。

「未来があるから」は、3rdシングル「理解者」のカップリングとなる。語るメッセージは曲名からは今後の明るい未来を表したものとなるかと思わせる。しかし、実際歌詞の語る表現は全く違っており、自己否定を語り、自分が認められることを拒むものとなってくるものとなっている。

22/7 【振付映像】『未来があるから』

22/7「未来があるから」ヘーゲル的弁証法

はじめに、「未来があるから」の歌詞を ヘーゲル的弁証法(自己意識と承認の弁証法) で検証してみたい。

テーゼ(自己意識の主張)

君が知ってる僕は 本当の僕じゃない
嘘はついていないけど正直でもない

ここで主人公は「君に見えている僕」と「本当の僕」とを区別し、自分の内面の真実性を主張している。これはヘーゲルのいう 自己意識(自己にとっての存在) の段階となる。

つまり「他者に見えている自分ではなく、本来的な自己こそが本当だ」という立場が、ここではテーゼ(肯定命題)となる。

アンチテーゼ(他者承認とその拒絶)

君が信じてくれても 僕は悪い人間だ
愛が真実かなんてどうでもいいこと

この部分は、他者(君)から承認を受けているにもかかわらず、それを拒絶する姿勢が見える。ヘーゲル的には、自己意識は他者意識を通してのみ自己を確立できるのに、主人公は「承認を拒む」ことで矛盾に陥る。

つまりここでは「承認を求めながら承認を否定する」というアンチテーゼが生じている。

アウフヘーベン:(統合と超克)

弁証法では、矛盾はアウフヘーベン(止揚)されて高次の段階に進む。
この歌詞のアウフヘーベン(止揚)の契機は、以下の二点に見出せる。

未来への態度の揺らぎ

未来があるからいいじゃない?

未来というのはでまかせだ

→ 承認を拒みつつも、「未来」を契機に関係をやり直そうとする。この「未来」という媒介が、自己と他者を再接続する可能性を示している。

西條和卒業コンサート

問いかけとしての弁証法

何を信じてる?
何を信じたい?
過去はやり直せるか?

→ 確定的な答えではなく、問いを残すことで「自己と他者の対立」をさらに発展させる契機となっている。ヘーゲル的に言えば、否定の否定を通じて、新しい自己意識の統一へ向かう兆しとなる。

歌詞が示すヘーゲル的な世界観

ヘーゲル弁証法で総合すると:

  • 主人公は「本当の自己」と「他者に映る自己」の対立に直面する。

  • 他者からの承認を拒みつつも、完全には否定できない。

  • その矛盾を「未来」や「問いかけ」を媒介にして止揚しようとする。

したがって、この歌詞が表している世界観は、

「自己意識が他者承認を拒絶しながらも、
その矛盾を契機により高次の自己へ進もうとする
弁証法的運動」

であると導かれる。

つまり、これはまだ「完成された自己」ではなく、ヘーゲル的に言えば「生成途上の精神」の姿となる。

歌詞は 矛盾そのものを生きることが次の段階への道である という弁証法的真理を体現している。

西條和卒業コンサート

「未来があるから」の自己意識の完成

 「未来があるから」で自己否定の強調を象徴的に表している歌詞となるが、1サビと落ちサビとなる。

自己否定の強調

君が思ってるより 僕はいい人じゃない
嘘はついていないけど正直でもない
君が知ってる僕は 本当の僕じゃない
自分でも呆れるほど自分が好きになれない

ここでは、自己意識のテーゼ(本来的自己の主張)がさらに自己否定という形で強調されている。

  • 他者が認識している自分(現象的自己)と、本当の自分(物自体)との断絶が繰り返し意識されている

  • 自己嫌悪や「自己承認の欠如」が明確化され、弁証法的矛盾が頂点に達している

つまり、主人公は自己と他者の関係における矛盾を再認識しつつも、まだアウフヘーベン(止揚)に至っていない段階を描いている。


未来への揺らぎ

未来があるからいいじゃない?

ここでは「未来」という媒介が再び登場する。

  • 未来に希望を見出そうとする試み

  • しかし前述の自己否定が強く残るため、未来は完全には肯定できない

ヘーゲル的に言えば、アンチテーゼ(承認の拒絶)と未来への期待(媒介)との緊張状態がまだ解消されていないことを示している。

同じことの反復

振り向きざま
同じこと
何回でも
君は言うつもりか?

これは弁証法的に重要なポイントとなる。

  • 他者からの承認や問いかけは繰り返される

  • 自己はそのたびに否定と葛藤を経験する

  • この「反復」は、自己意識の生成過程が一度で完成せず、弁証法的運動として繰り返されることを象徴している

つまり、主人公の矛盾は解消されるのではなく、他者との関係を媒介にして自己が徐々に生成されるプロセスであることを示している。

「未来があるから」導ける言葉

この落ちサビの歌詞をヘーゲル的弁証法の文脈でまとめると、次のような結論になる。

  • 自己意識は完全には他者承認や自己否定の中で止まらず、矛盾を繰り返し経験することで生成される

  • 自己と他者の関係、承認と拒絶の反復が、より高次の自己意識へ向かう弁証法的過程を象徴している

言い換えると、落ちサビは

「自己はまだ完成していない。繰り返される承認と否定の中で、徐々に真の自己を形成していく過程を歌っている」

となる。

西條和卒業コンサート

西條和卒業コンサートのラストソング

ナナニジの西條和卒業コンサートを見た人は、どのような気持ちでこのラストソングを聴いていましたか?
正直、様々な思惑が交差する気持ちが胸の中にあった。

西條和は「未来があるから」ナナニジから卒業すると言っているようにも見える。しかし、歌詞の中では自己否定ばかり繰り返している。その点について、西條和自体の気持ちは変わっていないというのだろうか?

また、西條和は自分はいい人じゃない。だから、卒業する自分に固持することなく、新たなナナニジを見守ってくれと言っているようにも聞こえるものがある。

「君が知ってる僕は 本当の僕じゃない」とは、西條和は本当の自分じゃなく偶像としてのアイドルとして演じていたものにすぎないのだと改めて語るようにも聞こえてくる。

西條和がラストソングに「未来があるから」を歌ったその真意を、アイドル・歌詞・卒業などの視点から、多層的な思惑が交差するものと聞こえた人は数多いのではないだろうか?

西條和卒業コンサート

「未来があるから」の真意は?

「未来があるから」を選曲した西條和の真意は分からない。ただ、歌詞を哲学的にかえりみれば、ラストソングとして選んだ理由が見えてくるかもしれない。

ヘーゲル的弁証法で見れば「未来があるから」の歌詞は、「自己はまだ完成していない。繰り返される承認と否定の中で、徐々に真の自己を形成していく過程を歌っている」ものとなる。

西條和はアイドルとしての形作りは完成できたと示したのかもしれないが、本人が人間として生きる上で自己の形成の過程であり、卒業後もその長い経緯へと突き進むのだとメッセージを送っていたのかもしれない。

22/7 西條和


【参考】

弁証法

「弁証法」とは、相反する二つの要素が互いに関係し合い、より高い次元で統合されるという考え方です。
ヘーゲルは弁証法を「テーゼ(主張)」、「アンチテーゼ(反論)」、「ジンテーゼ(統合)」という概念を用いて説明します。

【引用】

写真は、【ライブレポート】22/7『西條和 卒業コンサート~存在の証明~』「皆さんの笑顔が宝物です」(西條和)、THE F1RST TIMES より
https://www.thefirsttimes.jp/report/0000677221/


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Ringo / 越川欣和 | ナナニジ音楽哲学LABo 記事をお読み下り有り難うございました。いただいたサポートは、クリエイターとしての活動費や勉学費用に使わせていただきます。(書籍、文具代など)どうぞ応援のほど、何卒よろしくお願いいたします。