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きのふけふとは-がん執行猶予中- 4―(7)「冷たい校舎」に入れたら

(2025.8.22~23)
7月末に受けた大腸内視鏡検査の結果書が届いた。老母の外出中だったのが幸い。封筒はA4サイズで案外大きいし紙にしては重い。内容は検査時に聞いてはいるが、封を開けるのはちょっと怖い。「ポリープ」と聞いたけれど、実はがんでした、とかないだろうな。

開けてみたら結果書はペラ紙一枚。書いてあったのは「S字結腸ポリープ 要治療」「肛門内痔核」の2行だけ。封筒が重いのは医療センターへの紹介状と写真データCDのせいだった。紹介状のほうにはもしかして、と思わないでもないが、封を切るわけにもいかない。それにしても、「痔」って自分のことながら何だか滑稽な響きがしますね。ポリープ切除に入院が必要となればまた次男を呼び出して保証人の署名をしてもらうことになるだろうけど、この紙見せたら「痔?何それ。ぎゃははは!」と笑い転げそう。

さて、数週間楽しんできた「高校野球」も大詰め、というところで、不意に「高校」を舞台にした小説を幾つか思い出した。(以下ネタバレあり)。

まず私と比較的年代が近い堀田あゆみが現役の高校生時代に発表した「1980年アイコ16歳」(1981年河出書房新社)。これは当時の女子学生の圧倒的な共感を得て、数回映像化もされている。私も学生時代に読んだ。感想は、「ひたすら気持ち悪かった(言っておきますが、これは誉め言葉です。登場人物の性格は私の好みではありませんが、そこに「気持ち悪さ」を感じるのは描写に圧倒的なリアリティがあるからでしょう)」。

主人公アイコは部活で競技成績がよくないとか、ひそかに思いを寄せている男生徒が振り向いてくれないとかいうことに悩む「ごく普通の女子校生」ということになっている。リベラルな家庭に育っているし、国語の授業などではなかなか「感動的」なスピーチをして先生を感心させたりもする。が私は、アイコとその仲間の女生徒数人のグループに嫌悪の情を覚えた。彼女たちは、同じ部活の同級生紅子が、「女性だけのときは部の仕事も投げやりで生意気なのに、男子生徒が来るといい子ぶって気を引こうとする」のが気に入らず、しつこく排除しようとする。アイコも自分たちのやり口が「陰険」だとは自覚しているのだが、それは相手の態度が悪いからそうせざるを得ないのだと思い込んでいる。こいつら、一人一人はそうでなくても、集団になると「いじめ」で同調する体質だなあ、と背筋が寒くなった。作品が書かれた当時は「いじめ」がまだ社会問題になっていなかったので、メジャーグループの生徒が攻撃対象を設定し、陰口を聞いたりあてこすりを言ったりすることで結束を固める、というのは咎められる行為ではなかったにしても。

たしかに紅子は「男生徒寄り」なのだが、私にはそれがいちがいに「男に媚びを売っている」ようには思えなかった。自分が「ガールズトーク」に縁がない人間だからかもしれないが、アイコの属する女生徒グループの会話はつまらないし、異性への関心が高すぎる(と私には感じられた)くらい高いのに、グループから離れて男子生徒と一対一で向き合うこともない。紅子自身は、「この中にいても自己満足のグルーミングだけで発展性がない」と自分から外れて一人で練習に励んだり、話が合いそうな男子生徒と一緒にいたほうが面白い、と感じていたのかも、と考えてしまう。女生徒グループは、紅子が流行のお笑い番組に関心がなく、「TVはNHKしか見ない」ことを揶揄するけれど、インテリ系の男子となら、「ああ、オレもあの特集見たよ。やっぱり〇〇問題は…」と実のある会話ができる、とか。アイコたちは同じ部活の男子生徒には「女を見る目がない」と嘆く。だが、心ある男性なら、グループでしか行動できない人間には「顔」がないから、孤立を恐れずに自分の行動原理を貫く女性のほうが魅力的だ、と感じるのではないかと思う。同時代の作品でいえば、突然降りかかった弱小暴力団の組長という役割に戸惑いつつも、意志的に「子分」を守ろうとする赤川次郎「セーラー服と機関銃」(1981年 角川文庫)の泉がそんな感じ?薬師丸ひろ子主演の映画は一世を風靡したが、学校内のシーンで泉が女友達と一緒にいる場面はなく、いつも数人の男子生徒に囲まれていた。

さて、時代はぐっと下がるが、次に思い出したのが、辻村深月「冷たい校舎の時は止まる」(2007年、講談社文庫)。ここに出てくる生徒の中には、私にとって不愉快な人物はいなかった。ある女生徒の自殺事件があって、それに関わった生徒数人が雪の校舎に閉じ込められ、それぞれの心の中で自身のトラウマ的背景の回想と将来への模索の後、順番に消えていくという「そして誰もいなくなった」的構成は読者の興味をそそる。登場する生徒の個性もそれぞれはっきりと書き分けられているが、読んでいて「これはどうも小説というより少女マンガだな」という気がした。主人公とその周囲の生徒があまりに「生臭く」て気持ち悪かった「アイコ16歳」と対照的に、この作品の登場人物(特に男子)は「首から上で生きて」いるようで身体性を感じられない。最後はハッピーエンドだが、途中で数回の「告白」シーンがあって、登場人物の大半が最後に♡♡になってしまうのもお約束、という気がする。長身でショートカットの生徒会副会長景子のモデルは、「王子様」的容姿と中性的な物言いで宝塚の男役的な人気を集める(昔日の少女マンガ)篠有紀子「アルトの声の少女」(1980年 花とゆめコミックス)の主人公であるように思われるのだが…。

この作品は設定が「ソフトホラー/ミステリ」系なので、現世的なリアリティのなさはあまり気にしなくても、と思うものの、一部の登場人物のあまりの非常識には「ちょっとこれは」という気がした。私自身がかなり「非常識」な人間なのだが、その私でさえ、「いくら何でも職業上これはマズイ」と感じる例がある。

主人公の深月は、(ニュートラルな意味で)繊細すぎる性格で、友人が自殺したのは自分への恨みがあったからではないかと数か月にわたって思い悩み、ある雪の日に若い教師(一人暮らしの男性)の家に相談に行く。いったんは気分が落ち着いたかのように見え、帰りがけに「寒いので風呂を」と頼んで許可されるが、入浴中に手首を切る。「雪の校舎に閉じ込められる」のは出血で意識を失った深月の頭の中の幻想を級友が共有する体験、ということになっている。

深月はその後心身ともに回復して大学に進学するが、よく平気な顔で、という気がしないでもない。男性教師の自宅で事件を起こしたら教師のほうにたいへんなダメージを与える、と彼女は事前に考えなかったのだろうか?教師の方も、女生徒と一対一で会うなら、カフェとか他者の目があるところで、といった配慮がなく、迷わず自宅に入れ、風呂まで、というのが(自殺未遂がなくても)極めてスキャンダラスな状況だ、と気が付かない?勤務先は地元で評判の良い私立校ということで、学校側も教師の評価には厳しいであろう。彼は年度代わりに「自分の意思で」転職するが、こういう事件があったら本人の意思にかかわらず元の場所で勤務を続けるのは難しいのでは?

辻村深月の作品は、初期の数作しか読んでいないが、同じような「職業意識の薄さ」は「子供たちは夜と遊ぶ」(2005年、講談社)の主人公の一人で、教育学部の大学生である月子にも感じられた。

この作品には「よくありそうだがなかなか気づかない」叙述トリックがあって、ミステリとしては読みごたえがあった。月子は男性への自己アピールが強く、ややあざとい性格に描かれているが、本人もそれを自覚していて、あえて群れないのは好感が持てる。結末で「女子グループ」にイヤミを言われ、「男に媚びて何が悪い」と堂々と言い放つところでは快哉を叫びたくなった。

それでも問題だな、と思ったのが、彼女の趣味が「ネイルアート」で、幼稚園実習でも爪に色を塗っていること。休日に付爪、くらいなら文句は言えないが、食べ物を扱ったり、子供の身体に触れる機会も多い場所では避けろよ。本人は「実習が始まったときは消していたんだけど、子供たちが「きれいな爪を見たい」と言うから」と報告し、指導教授もそれを受け入れるのだが、そこで「この教授、ホントに幼児教育の専門家か?」と思ってしまった。専門が「児童心理学」で情操教育を重視しているとはいえ、ネイルは幼稚園では衛生的な見地から問題があるということが分からない?

相変わらず批判が多くて恐縮だが、素直に共感できた学生ものも沢山ある。例えば、豊島ミホ「底辺女子校生」(2006年、幻冬舎文庫)。能力も品性も同級生より劣っている、という訳ではないのに、小さなコンプレックスが積み重なって、自分を「底辺」の人間と位置付けるマイナスのスパイラルに陥ってしまった高校時代の回想録。この気持ち、分かる分かる。ちょっとしたきっかけでクラス内の位置づけを落とされて孤立するって、ティーンエージャーには耐えがたいですよね。孤独そのものより、「友達がいないと周りから軽蔑される」という圧が。ただ、この女生徒、家出とか、下宿とか、保健室登校とか、時々思い切った行動に出られるところ、また親や教師にそれを認めてもらえるところが救いで、そのあたりは多少羨ましくもある。

特にそうなんだよねえ、と納得するのは、「クラス内での位置づけが低いと異性と話せない」というくだり。私は小中学時代は、運動ができないとか本の虫で興味関心がメジャーな層とずれているとかで、かなりカーストは下のほうだった。小学校高学年から中学にかけては、下の方の層の人間が異性と何の気なしに雑談したりすると「サエない奴が色目使って」とからかわれる。高校でもそれを言われたときのいやな感覚が残っていて、クラスの中では異性となるべく関わらないようにしていた。異性のクラスメートと気兼ねない関係を築けるのはずっと陽の当たる道を歩んでいたであろう派手目な方々の特権、と用がない時はあまり口を利かなかったと思う。一方で部活つながりでは遠慮が要らず、趣味の仲間としてジェンダーレスな友達の輪が広がって、これは無類に楽しかった。

この「いやな感覚」。実は今も消えていない。異性との会話をからかわれてからもう〇十年経って、言った方はとうにそんなことを忘れているだろう。こちらとしても20代にはそれなりの「モテ時(事実です!)」もあり、30代で恋愛・結婚して一とおりの家庭生活を送ってきた。それでも私はまだ自分を「人を愛し人に愛されてよい存在」とは認められないのです。家族という関係の中でも、「○○を愛している」「○○に愛されている」と納得してしまうことに罪悪感に似たためらいがありますよ。一方で、「死ぬときはひとり(「人は皆…」といった意味でなく、家族が来ないということ)」と考えると妙な解放感があったりする。


そうこうしているうち、高校野球の決勝も終わった。「恣意的な基準」でどちらかといえば応援していた日大三校は破れた。

外へ出ると猛烈な暑さ。老母に頼まれていたものを買いに近所のスーパーマーケットに入ると、店員に呼び止められた。数日前にそこで買い物をした時、セルフレジで料金を払わずに帰ってしまったということ。平謝りして所定の金額を払ったが、こんなところでボケが露呈したか、と恥ずかしくも悲しくなった。

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