読書とは自分自身を読むことだ
こんにちはこたろーです
思考エッセイ最終部となります
まだ、読んでないという方はぜひこちらご覧下さい👇️
ここまで私は、 読書量と読解力は別物であること 読解の深さを生み出す「解読力」という考え方 について述べてきた。
しかし、ここで一つの疑問が生まれる。 本当にそんなことが起きるのだろうか。 本当に同じ文章を読んで、人によって全く違う世界が見えることなどあるのだろうか。
私はある日、その答えを目の当たりにした。 きっかけは、YouTubeで視聴した一つの動画だった。
この動画の中で紹介されていたのは、わずか数行、あるいは数十行で構成された「インスタントフィクション(超短編小説)」と呼ばれるジャンルの作品である。数分で読めてしまうほど短い作品だ。
しかし、その短い文章をめぐって、一人の作家と、一人の読者が見た世界は驚くほど違っていた。そして私は、その違いこそが「解読力」の正体を示しているように思えたのである。
作家は「人物の心」を読む
まず興味深かったのは、動画の中で紹介者である又吉直樹氏が披露した解釈だった。 物語の中で男は繰り返し、 「別れよう」 と言う。 初デートの前日。 恋人との時間。 愛情を向けられた瞬間。 そのたびに男はなぜか「別れよう」と口にする。
普通に読めば矛盾している。 しかし又吉氏は、その矛盾を「不器用な愛情表現」として読んだ。 本当は好きなのに素真面目になれない。 本当は嬉しいのに照れてしまう。 だから逆の言葉を使う。 つまり「別れよう」は拒絶ではなく、「好きだ」の裏返しなのである。
さらに物語の終盤。85歳になった二人の場面で、今度は彼女の側から「別れよう」という言葉が返される。そこで又吉氏は、二人が長い人生をかけて共有してきた愛の言葉(二人にしか通じない暗号のようなもの)として、この表現を深く読み解いていく。
彼の読解はどこまでも人物へ向かう。 言葉の奥にある感情。関係性の温度。人生の積み重ね。文字の背後にいる人間の心を掘り下げていく。動画の中で彼が展開する「ハイパー解釈」は、まるで数行のテキストから一本の長編映画を立ち上げるような読解だった。
私が見たのは人物ではなく構造だった
ところが、動画を観ながら私の頭の中で起きたことは全く違った。 私は人物の感情より先に、物語の構造に目が向いたのである。
なぜ男は何度も「別れよう」と言うのか。 なぜその場面だけが切り取られているのか。 なぜ最後に「嘘」というタイトルが置かれているのか。
私が最初に感じたのは、「この物語はどこか不自然だ」という違和感だった。 普通の恋愛小説なら、関係が進展する過程が描かれる。しかしこの作品は違う。人生の重要な瞬間だけが飛び飛びに配置されている。まるでアルバムの中から数枚だけ写真を抜き出したような構成になっている。
そこで私は、一つの仮説を立てた。 もしかすると、この物語は時間順に作られたのではないのではないか。
「最期」から逆算された物語
私が注目したのは、85歳の病床のシーンだった。 消毒液の匂い。人生の終わり。別れの瞬間。物語の中で最も強い感情を持つ場面である。
そして私はふと思った。 もし、この場面こそが出発点だったらどうだろう。 もしこの人物が人生の最期に、「こんな人生だったら良かった」と想像しているのだとしたら。
すると、それまでの場面が全く違って見えてくる。 初デート。カフェ。恋人との食事。それらは実際に起きた出来事ではなく、理想の人生を完成させるために最期から逆算された「都合の良い記憶」かもしれない。つまり男は最期の瞬間に、「自分を理解してくれる誰か」を夢想している。そして、その理想の女性を成立させるために、過去の場面を創作している。 そう考えた瞬間、タイトルの『嘘』が別の意味を帯び始めた。
『嘘』は何を指しているのか
一般的には、「別れよう」が嘘なのだと読める。本当は好きなのに別れようと言う。確かにそれも成立する。 しかしタイトルが『嘘』である以上、もっと大きな嘘が存在する可能性もある。 それは、物語そのものだ。
私には、この作品全体が男の最後の夢想にも見えた。孤独な病床で、自分の人生を再編集しているようにも見えた。 もちろん本文にそう書かれているわけではない。だからこれは推理ではない。解釈である。だが解釈とは、まさにそういうものだ。文字に書かれていることだけでなく、文字に書かれていないものまで読み取ろうとする行為なのである。
どちらが正しいのか
ここで重要なのは、どちらの解釈が正しいかではない。 むしろ面白いのは、なぜこんなにも違う世界が立ち上がったのかという点である。
又吉氏は人物の感情を掘り下げた。私は物語の構造を掘り下げた。 又吉氏は物語の内側へ潜った。私は物語の外側へ出た。 見ている方向が違うのである。
そして私は、この違いこそが本書の第2部で述べた「解読力」の正体だと思っている。 同じ文章でも、 知識が違えば見えるものが変わる。 経験が違えば感じるものが変わる。 問いが違えば辿り着く結論も変わる。
だから読書とは、単に著者の言葉を受け取る行為ではない。読者自身が持つ世界観との共同作業なのである。

読書とは「自分自身を読むこと」でもある
私たちは本を読んでいるようでいて、実は自分自身を読んでいる。 恋愛小説を読んで感動する人は、自分の中にある愛情を見ている。
哲学書を読んで興奮する人は、自分の中にある問いを見ている。歴史書を読んで学ぶ人は、自分の中にある価値観を確認している。
つまり本は鏡でもある。
だから同じ本を読んでも、全員が違う感想を持つ。違う人生を生きてきた以上、それは当然のことなのだ。
動画で紹介されていた『嘘』というわずか数行のテキストは、その事実を鮮やかに証明してくれた。
ある人には100年の愛の物語が見える。ある人には最期から逆算された幻想の物語が見える。そして、そのどちらも間違いではない。
読書の本当の面白さとは、正解を探すことではなく、一つの言葉からどれだけ豊かな世界を立ち上げられるかにあるのだから。
