『例えば』、おじさんはあの世でも見栄を張る――戒名◯◯万円〜100万円?と親鸞の「名利」大仏さまは…
大仏さまは、
悠然と脚を組んでいる。
あぐら――と言ったら怒られそうなので、 正式には「結跏趺坐」と言うらしい(笑)。
その前で、
僕ら人間は膝をついて、 手を合わせる。
ここで僕は、 ものすごく俗っぽいことを思います。
生きるって、ただでさえ大変なんですけど。
家賃。
電気代。
食費。
税金。
子どもの学費。
親の介護。
自分の老後。
それを何とか払いながら生きて、
ようやく人生を終えたと思ったら、
戒名。
法要。
墓。
死んだあとまで、
「もっと立派に」
が始まる。
いやいや。
あの世で立派になるためにも、
金が必須なのかいな?
生きている間だけでは足りず、
あとは阿弥陀さまに託す――
と思ったら、
その前にもう一度、 財布を開くのかいな(笑)。
僕は昔から、 そこに違和感があります。
13年前、 父が亡くなりました。
そのとき初めて、
「あ、うちって浄土宗だったんだ」
と知った程度の人間です。
熱心な仏教徒でもない。
仏教学者でもない。
なのに今は、一応、
檀家の総代をしています(笑)。
だから正直に書きます。
戒名や法要のお金の話を聞きながら、
「坊主って、結局は金儲けなのか?」
そう感じた瞬間が、
僕にはありました。
「すべての僧侶は金儲けだ」
と決めつけたいわけではありません。
僕には、
そう見えた瞬間があった。
そこは誤魔化したくない。
だって、
人が亡くなって悲しんでいる横でも、
現実のお金の話は待ってくれません。
例えば。
手取り25万円で暮らしている人がいる。
家賃を払う。
光熱費を払う。
食費を払う。
子どもがいれば、 学費も払う。
そこへ突然、
親の死が来る。
葬儀。
墓。
法要。
悲しい。
寂しい。
でも、
請求は現世に残る。
そこで、
「最後くらい立派にしてあげたい」
と思う。
もし財布を開けない自分まで、
親不孝のように感じ始めたら。
少し、
立ち止まってみてもいいと思うんです。
救われたいのは、
亡くなった親なんでしょうか。
それとも、
残された僕らなんでしょうか。
そもそも、
極楽に、
自由席。
指定席。
グリーン車。
あるのかいな(笑)。
そんな僕が、
なぜか強烈に惹かれる宗教家がいます。
親鸞です。
ちなみに、
僕の家は浄土宗。
親鸞は浄土真宗。
他宗派にツッコむ前に、
自分の宗派を勉強しろよ。
という話でもあります(笑)。
それでも、
法然上人より、
なぜか親鸞に親しみを感じる。
この人、
人間臭すぎるんです。
比叡山で長く修行した。
それでも山を下り、
法然の門へ入った。
妻を持った。
自らを「愚禿」と呼んだ。
そして『教行信証』では、
「愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して」
とまで書く。
愛欲にも沈む。
名誉にも迷う。
利益にも迷う。
宗教者のプロフィール欄なら、
普通は非公開にしたいやつです(笑)。
さらに、
六角堂での夢告として後世に伝わる話には、
女性との関係をめぐって、 救世観音まで登場する。
僕みたいな素人が読むと、
親鸞さん。
そこまで話の外に追い出さないのかよ。
しかも、
観音様まで出てくるのかよ。
です(笑)。
もちろん、
これを単純に、
「親鸞本人の性欲告白」
と言い切るつもりはありません。
でも僕には、
自分をピカピカの聖人に加工した人には見えない。
愛欲。
名利。
愚かさ。
宗教者なら、
隠したほうがブランドには優しそうなものまで、
自分自身の問題として残した。
立派だから、
カリスマになったんじゃない。
「立派になれない自分」を隠さなかったから、
人が自分を重ねられた。
僕は、
そこに惹かれます。
ところが。
親鸞の「名利」を読んでいると、
坊さんを金儲けだと思っていた僕が、
少し居心地悪くなってきます。
待てよ。
親鸞自身が、
名誉や利益から逃げ切れない側にいる。
だったら、
「坊さんなんだから金なんか欲しがるな」
と言っている僕は、
坊さんにだけ、
聖人でいろ。
煩悩を持つな。
と要求していないか。
寺を維持するにも金はいる。
僧侶にも生活がある。
そして僕にだって、
名誉欲も金銭欲もあります。
つまり、
坊さんを笑っていた僕も、
普通に同じ側です。
凡夫です。
でも。
ここで、
「お寺にも事情がありますよね😊」
で終わったら、
わざわざ親鸞まで連れてきた意味がない。
もう一つ、
僕らが普通に使っている言葉があります。
「他力本願」
です。
今では、
人任せ。
丸投げ。
努力放棄。
責任転嫁。
だいたい、
そんな意味で使われます。
では、
少し自分の財布で考えてみてください。
生活が苦しい。
給料だけでは、 どうにもならない。
家族に相談する。
行政に頼る。
誰かに、
「助けてください」
と言う。
そんな人へ、
「他力本願じゃダメだよ。 自分で何とかしなよ」
と言う。
一方で。
自分が使いすぎた金まで、
家族のせいにする。
自分で決めた借金まで、
社会のせいにする。
自分が負うべきものまで、
誰かへ押しつける。
この二つ。
本当に、
同じでしょうか。
親鸞のいう「他力」は、
単純な、
「他人の力」
ではありません。
阿弥陀仏の本願のはたらきです。
だから、
家族や行政に頼ることを、
そのまま親鸞の「他力」だと言いたいわけではありません。
でも。
並べてみると、
妙な違いが見えてきませんか。
片方が外へ出したのは、
自分の責任。
もう片方が外したのは、
「自分一人で何とかできる」という思い込み。
あれ?
同じ方向じゃない。
責任転嫁は、
自分の「責任」を外へ出す。
他力本願は、
自分の「万能感」を外す。
むしろ、
逆じゃないか。
親鸞さん。
700年以上たって、
「他力本願=人に丸投げ」
になっていますよ。
ブランド管理としては、
かなりの事故です(笑)。
ところが。
一人歩きしたように見えるのは、
言葉だけじゃない。
「本願」は、
阿弥陀仏の願いです。
その「本願」を名に持つ、
本願寺。
京都には、
西本願寺。
東本願寺。
がある。
僕みたいな素人は、
また立ち止まる。
本願は一つなのに、
本願寺は二つある。
もちろん、
阿弥陀仏が、
「京都は東西2店舗展開でいこう」
と出店計画を立てたわけではありません(笑)。
東西への分立は、
親鸞が亡くなってずっと後。
教如と准如の継承をめぐる事情。
豊臣秀吉。
徳川家康。
政治。
歴史。
いろいろなものが絡んでいます。
だから、
「ほら、坊さんの名利が暴走して二つになった」
と断定したら、
今度は歴史を自分の都合に合わせる僕のほうが、
立派な凡夫です(笑)。
でも。
一つだけ、
考えてみてほしいんです。
親鸞自身が、
自分の中にもあると認めた、
「名利」
それは、
人間が集まり、
大きな宗教組織になった瞬間だけ、
突然、
消えるものなんでしょうか。
立場。
継承。
政治。
金。
名誉。
人間が集まれば、
いろんなものが入ってくる。
そして、
ここが僕には一番面白い。
「他力本願」という言葉は、
人間を通って、
「人任せ」という意味に変わった。
「本願」という理念は、
人間を通って、
巨大な組織になった。
一見、
まったく別の話です。
でも、
本当に別なんでしょうか。
どんなに立派な理念でも、
人間を通る。
すると、
少しずつ、
人間臭くなる。
もしかすると、
僕ら人間は、
理念の保存容器ではなく、
勝手に意味を書き換える翻訳機
なのかもしれません。
しかも、
その翻訳機には、
煩悩が標準装備されています(笑)。
だとしたら。
本願寺の人間臭い歴史は、
親鸞の思想に反しているのでしょうか。
それとも逆に、
「人間はどこまでいっても凡夫だ」
という親鸞の見方を、
皮肉にも証明してしまっているのでしょうか。
ここで、
最初の戒名の話に戻ります。
「あの世でも、 もっと立派にしてあげたい」
そう思って、
財布を開く。
それは、
故人への愛かもしれない。
感謝かもしれない。
悲しみを整理するためかもしれない。
でも。
ほんの少しだけ、
「立派であってほしい」
という、
生きている僕ら自身の名利も、
混ざってはいないでしょうか。
大仏さまは、
悠然と脚を組んでいる。
その前で、
僕らは膝をつく。
生きるだけでも、
けっこう大変です。
それなのに、
死んだあとまで、
「もっと立派に」
を求める。
もしかすると、
親鸞が一番笑うのは、
坊さんでも、
本願寺でもない。
「自分には名利なんかありません」
という顔をして、
他人の煩悩だけを指さしている、
僕らなのかもしれません。
だから最後に、
答えは決めません。
あなたなら、
どう思うでしょう。
誰かに助けを求めることは、
本当に「他力本願」でしょうか。
責任を誰かに押しつけることと、
「自分一人では無理だ」
と認めることは、
本当に同じでしょうか。
そして、
あの世でまで、
「もっと立派に」
と思うその気持ちは、
故人への愛でしょうか。
それとも――
僕ら自身の「名利」でしょうか。
親鸞が800年前に見つめた凡夫は、
お寺の中だけにいるわけじゃない。
たぶん、
この記事を読んでいる僕らの財布の中にも、
普通にいます(笑)。
※親鸞の「愛欲・名利」の記述、六角堂夢告、本願寺の東西分立については、公開史料・宗派側の資料等で確認できる歴史的事項を踏まえています。東西分立の原因を「名利」と断定するものではなく、そこから人間について考えた個人的な考察です。

