【掌編小説】あやかし居酒屋 その壱「夜話ノ酒処」
第一夜その壱 提灯は笑う
雨上がりの路地は、石畳のすきままで夜を吸っていた。
瑠璃は、朔夜の隣を歩きながら、つないだ手を少しだけ握り直した。
表通りの灯りはとうに遠く、軒先の雨粒が、ぽたり、ぽたりと遅れて落ちる。どこかの店から出汁の匂いがした気がして、顔を上げると、細い路地の奥に橙色の灯が浮かんでいた。
「……居酒屋?」
暖簾が出ていた。
古びた木戸に、煤けた看板。文字はかすれているのに、なぜか読める。
夜話ノ酒処
「いい名前だねぇ」
朔夜が愉しそうに笑った。
その笑い方がもういけない、と瑠璃は思った。朔夜がそういう顔をする時は、たいてい何か変なものを見つけている。
軒下には、大きな丸い提灯が掛かっていた。
雨に濡れた和紙が、内側からほうっと光っている。ずいぶん立派な提灯だ。立派すぎる。瑠璃がじっと見上げた、その時だった。
提灯の真ん中が、ぱちりと開いた。
大きな一つ目だった。
「い」
提灯が言った。
瑠璃は朔夜の袖を掴んだ。
逃げるつもりだったか、隠れるつもりだったかは、自分でもわからない。ただ、掴んだ袖の感触が落ち着いていて、ああ、朔夜は逃げる気がないな、とわかった。
「らっしゃい」
提灯は、にんまり笑った。
小さな舌がのぞき、右側から小さな手がにゅっと出て、暖簾を指した。
「……朔夜」
「うん」
「いま、喋った」
「喋ったねぇ」
「提灯が」
「提灯だねぇ」
朔夜は、まるで道端の猫に挨拶されたくらいの顔をしていた。
その落ち着きが腹立たしくて、瑠璃は少しだけ睨む。朔夜は涼しい目で見返して、それから、ひどく楽しそうに目を細めた。
「どうする、奥さん。引き返す?」
言い方がずるい。
本当に危ないものなら、朔夜はそんなふうに聞かない。瑠璃は知っている。だからこれは、たぶん危なくはない。少なくとも、すぐに斬らなければならない類ではない。
提灯は待っていた。
目を丸くして、にこにこと、しかしどこか人間くさくこちらを見ている。灯りはあたたかい。店の中からは、焼き物の匂いと、湯気と、誰かが笑う低い声がした。
瑠璃は、掴んでいた袖を離さないまま、もう片方の手で暖簾に触れた。
「……一杯だけ」
「そう言うと思った」
「朔夜も入る気だったでしょう」
「僕は君が入るなら、どこへでも」
「そういうの、今言う?」
「提灯の前で言うのも、なかなか味があるだろう?」
提灯お化けが、ぽわん、とひときわ明るく光った。
まるで拍手の代わりみたいだった。
暖簾をくぐる直前、瑠璃はもう一度だけ提灯を見上げる。
大きな一つ目が、今度は片目なのに、器用に目配せした。
「よき夜に、よき友を」
提灯はそう言った。
朔夜が小さく笑う。
瑠璃も、つられて笑ってしまった。
そして二人は、普通の居酒屋ではない店へ入った。
その夜、最初に出てきたお通しは、白く光る冷奴だった。
運んできた小さな店員が、頭に豆腐を載せていた話は、また次の夜にする。

【提灯お化け : ちょうちんおばけ】
江戸時代頃に、生まれたとされる。付喪神の一種と見なされる。
親しみやすく、子供向けの怪談話などで人気を集める。
人を驚かせたり、後を追いかけたりするが、害はないとされている。
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