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テレワークゆり物語 (72)38年前の『世界卓球』に田澤由利がいた件

「田澤さん、スポーツは何をしていたのですか?」
それを聞かれるのがつらかった時期がある。タモリのせいだ。

大学で卓球人生を終え、社会人になって数年経った1987年頃のこと。
当時の人気番組「笑っていいとも!」で、タモリが「卓球って根暗だよね!」と発言した。
この一言で、卓球のイメージが暴落。翌年、中学生の卓球部入部人数が激減。私は「隠れキリシタン」ならぬ「隠れ卓球経験者」となった。

しかし、その後、卓球がどんどん進化していった。卓球台の色も、球の色も、ユニフォームのスタイルも、何もかもが明るくオシャレになった。さらにはルールまでもが変わった。なぜ進化したのか。

その理由は、実はタモリの一言にあったこと、そして、タモリが謝罪し、寄付までしていたことを数年前に知った。
30年以上「タモリのせい」と言い続けてごめんなさい。

そして2021年。東京オリンピック2020では、伊藤美誠選手の女子シングルス銅メダル、女子チーム銀メダル、男子チーム銅メダル、さらには混合ダブルは、金メダルを獲得。日本中が興奮した。ゴールデンタイムのテレビ番組には、卓球選手が登場し、卓球は明るいスポーツになっている。
今の私は、
「大学は体育会の卓球部、女子の主将をしていました!」
と自慢している。

そしてオリンピックから4か月後の11月末。アメリカで『世界卓球2021ヒューストン』が、開催されている。しかも、地上波(テレビ東京系)で、連日放送されているではないか! 

本当に時代は変わったのだ。

さて、前置き長すぎだが、タイトルにある「昔話」に入ろう。

38年前の1983年「第37回 世界卓球選手権」が、東京で開催された。世界各国のトップ選手が集まる。また最終日には、当時の皇太子・皇太子妃(今の上皇・上皇后)が観戦された、という凄い大会である。

当時20歳の田澤由利は、その大会の場にいた。

私が属していた上智大学卓球部は、関東リーグ 最下位の6部。もちろん、選手としてではない。

体育会卓球部、かつ、外国語学部スペイン語学科というだけで、関東学生卓球連盟からの要請で、『ボランティア通訳』に駆り出されたのだ。

隠しちゃいないが、落ちこぼれ学生だった私は、2年生になってもスペイン語をしゃべれない。しゃべれないどころか、聞くのも怪しい。そんな私に、通訳なんて務まるわけがない。しかも、無給・・・。

しかし、貧乏学生だった私は、ボランティアとはいえ、
「選手が滞在する、新宿の京王プラザホテルの食事券(1000円)」が、毎日もらえる、という事実に心が動いた。強い選手の試合も見れるし、なんとかなるか。相変わらずの無茶である。

実は、このボランティアに参加してはじめて、私が大学受験のときに、スペイン語を選んだ理由を実体験する。

スペイン語は、世界20ヵ国で話されている!

英語の教師を目指していたにも関わらず、大学受験の際にスペイン語を選んだ理由は、「一石二鳥」ならず「一か国語、二十か国」。世界旅行ができる!という安易なものだった。が、確かにその通りだった。

私が通訳の対象になった選手たちは、スペイン本国はもちろん、メキシコ、グアテマラ、キューバ、アルゼンチン、ペルー、チリと南アメリカの国々から、はるばる日本までやってきた。
はじめての日本にワクワクする彼らの思いが伝わってくる。一般的な英語やフランス語を学んでいたら、私などに声はかからなかっただろう。スペインを選んでよかったと思った瞬間だった。

ただ残念ながら、ほとんどの選手が一回戦敗退。その後の荷物紛失トラブルの対応から、日本でバイクの部品を買いたい相談などなど、とにかく必死の毎日だった。私の場合、言葉はほとんど通じないので(笑)、手振り身振りと、挙句の果てには、紙に絵を描いて頑張った。(スペイン語は役立たず)

結局、中国や日本の有名選手の試合を見る暇はほとんど無く、私の「世界卓球」の思い出は、『スペイン語圏の選手たちとの必至のコミュニケーション』と『京王プラザホテルのランチ』だった。

「世界大会」というと、どの国がメダルを獲得するかに注目されがちだが、国を背負った選手たちが、人生かけて世界中の国々から集まっていることを忘れないでいたい。

当時、インターネットやメールがあれば、彼ら彼女らと今もつながれていたかもしれない、と思うとそれだけが残念でならない。

※冒頭の写真は、石川佳純ではない。20歳の田澤由利である。ww


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