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いや、寝そべってへんがな!後ろで竹踏んどるだけやがな!

――Fire TVの大画面をレントゲン眼で凝視する、71歳二刀流シニアの剥き出しの肉体的クラシック鑑賞論

YouTubeで人気の音楽批評家が、画面のなかで何やら小難しい理屈を語られていました。
「歴史や聖書的な知識を超えたところで、その曲の奥行き、深みを捉えなければならないのです」というような、そんなお話でした。

なるほど、プロの批評としてそれは大変に面白い。けれど、どこか頭のなかで理屈が先行しているような、硬い引っかかりを覚えたのも事実です。
画面の前の私は、思わずテレビに向かってこうツッコミを入れていました。
――いや、寝そべってへんがな!後ろで竹踏んどるだけやがな!と。

私の城である我が家のリビングのソファーの後ろには、私の専売特許である60センチの大きな青竹が置いてあります。これは半分に割ったものではなく、丸々一本の竹。そのため、乗るとグラグラと不安定ですが、あえてその上で足踏みをし、下半身をはじめ体全体を猛烈に鍛え上げるのです。

ソファーの座面に2本のテニスラケットを立て掛け、テレビを鑑賞するときはそのラケットに手を添えて、腹筋、背筋、呼吸筋を意識しながら、猛烈に足踏みを続ける。これほどの肉体への執着を燃やし、徹底的にクリアに研ぎ澄まされた身体(からだ)でオーケストラの音色に身を委ね、Fire TVの大画面を凝視する。これこそが、私の提唱する剥き出しの「肉体的クラシック鑑責論」なのです。

「何にもやっていない人が急に丸太の竹に乗れるわけがない」と思われるかもしれません。しかし、私にとってはこれが当たり前なのです。私の朝は、近くの壁打ち運動場での「二刀流壁打ちテニス」から始まります。

フォアハンドはあえて封印し、ロジャー・フェデラーのあの華麗な片手バックハンドの技術を、右腕だけでなく左腕でも同じように完璧に操れるようにする。上半身から完全に力を抜き、肉体を極限まで柔らかくほぐしていく。世界で誰もやっていない、私だけの仕込みです。

今では毎朝のこの二馬力のエクササイズが運動場の名物になっていて、登校中の中学生たちが、私に向かって「二刀流!」と大きな声で叫んで通り過ぎてしていきます。私はラケットを持った手を大きく振って、「おはよう!」と声を返します。下校する彼らと道で出会ったときも、「あ、二刀流」と親しげに呼んでもらえるのは嬉しいものです。

自身の肉体の仕組みを徹底的に熟知し、柔らかくコントロールする訓練をこの3年間、毎日コツコツと地道に重ねてきました。だからこそ私には、他者の動きを見抜く「レントゲン眼(レントゲン・ガン)」が、自ずと備わったのだと確信しています。

そんな私の城である我が家のリビングのテレビは、とうの昔に放送を打ち切り、ただの「空の箱」になっていました。押し付けてくる情報の洪水を遮断して、自分の時間を静かに保つためです。

一時はスマホ画面を大きくしようと拡大鏡を試したものの、映像が歪んでがっかり。そんなとき、あの空箱に、Amazonのタイムセールで手に入れた4,000円弱のAmazon Fire TV Stickを挿してみたのです。

すると、どうでしょう。「わざわざ拡大鏡など使わなくとも、この大画面を使えば最高の空間ができる」と、目の前がパッと開けるような衝撃を受けました。一本の小さなスティックが呼び水となり、ただの四角い箱が一瞬にして世界最高の演奏会場へ、あるいは巨匠たちが息づく極上の映画館へと、劇的に生まれ変わったのです。

実は年齢を重ねるにつれ、細かい活字を読むのが億劫になり、本からは遠ざかっていました。無理をして文庫本をめくるのは骨が折れるものです。それなら、生き返った大画面を通じて、時間を忘れて趣味に没頭するほうが、はるかに充実しているのではないか。そう気づきました。

大画面の前で過ごす時間が増えても、肉体への執着は家の中から変わりません。リビングで丸々一本の青竹を踏み続ける私ですが、私がこれを続けられるのには、実はわけがあります。私の妻は、毎朝起きると、この竹踏みを必ずやるのです。欠かした試しがありません。私はそれを忠実に真似ているだけなのです。

現在、私の妻は外へ仕事に出ており、私は家事のすべてを任され、自分の食事も自分で作ります。妻は外で仕事をしている時が一番楽しいと言います。私は私で、家事をしている時が一番楽しいと言い返します。子育てをしている時とは夫婦の役割が逆転です。

やっと見つけた毎日が日曜日。ダラダラ過ごしてはもったいない。私はとっておきの心地よい時間を見出します。お気に入りの「GLOBE」のタジン鍋で豊作の秋の栗をふっくらと蒸し上げたりしながら、Fire TVで、映画やクラシック音楽、バレエなどを鑑賞する時間は格別です。

そうして、冒頭で語ったあのリビングの青竹の上で、徹底的にクリアに研ぎ澄まされた身体(からだ)でオーケストラの音色に身を委ねていると、ふと、YouTubeで人気の音楽批評家による、あのクラシック音楽の解説を思い出してしまいます。

その方は音楽の捉え方について、何やら小難しい理屈を語られていました。「音程が外れているだとか、音がどうだとか、そんなところばかり気にして聴くのは感心しません。歴史や聖書的な知識を超えたところで、その曲の奥行き、深みを捉えなければならないのです」というような、そんなお話でした。

なるほど、プロの批評としてそれは大変に面白い。けれど、どこか頭のなかで理屈が先行しているような、硬い引っかかりを覚えたのも事実です。

今にして思えば、これこそが実際の音楽批評家たちの最大の「盲点」ではないでしょうか。彼らは知識を頭でこねくり回すことには長けていても、肝心の「自らの肉体を通して、演奏家の肉体から溢れ出る音楽をこの手で直接キャッチする」という感覚が、決定的に欠落している。彼らはリビングで青竹を踏んだことも、フェデラーのバックハンドを左右で猛烈に壁打ちしたこともないのだから、それも無理はありません。

だからこそ私は、実際に生の演奏会へ何度も足を運ぶという行動を、何より大切にしています。私が暮らす街から、健康のためにママチャリを30分も猛烈に漕いで、隣町の会場へと度々出かけて行っては、オーケストラの生演奏を全身に浴びてきました。この9月も、横浜のホールへ管弦楽団の演奏会を聴きに行く予定があります。隣町といえば、そこには76歳の友人が住んでいて、これはという演奏会があるたびに、その情報を、私にLINEでこまめに伝えてくれる手はずになっているのです。

やっぱり音楽は生の空間で直に浴びるのが一番だな――。そう身をもって知っている私だからこそ、大画面の映像で、フランクフルト放送交響楽団などの最新映像をじっくりと鑑賞したときに、言葉を失うほどの衝撃を受けたのです。

「これは、あの最高の生の演奏会すら、ある意味で完全に凌駕する価値があるぞ」と。

毎朝の二刀流壁打ちテニスで、左右どちらに飛んできたボールも、狙った的へ的確にバシッと打ち返す。長年重ねてきたその感覚が、大画面の前でも私の目を研ぎ澄まします。流れる映像のなかで、どこが演奏の『要(かなめ)』なのか。まるで飛んでくるボールを正確に撃ち抜くように、プロの専門家たちが誰も気づかなかった死角の一点を、私のレントゲン眼は的確に捉え、見抜いていくのです。

楽譜の展開に合わせて一瞬でスイッチングされていく、最新のマルチアングル・カメラワーク。その緻密な映像は、たちまち私の目と心を虜にします。

特に面白いのは、カメラがオーケストラの各パートの首席(トップ)の演奏者たちを、次々と鮮やかに捉えていく瞬間です。コンサートマスターをはじめ、一流の表現者たちの顔つきは深いドラマを語っています。私はそのクリアな切り替えに視線をぴったりと沿わせながら、彼らのすぐ隣で手の形や口の形を食い入るように読み解いていく。それは、グラウンドで相手の投球モーションを盗み、次の一球をグラブの真芯で迎撃しようと身構える、あの野生の集中力とまったく同じです。そうしているうちに、さも自分がその楽器を構え、その脇で一緒に音を奏でているかのような、熱い一体感のなかに引きずり込まれていくのです。

さらに、指揮者の表情です。まるで「今、私は天国にいるんだ」と言わんばかりに、夢見るような、幸せいっぱいの表情で顔を動かしている。その至高の表情を見た瞬間に、「ああ、この部分の旋律は、とくに心地よい天国の音なんだな」ということが、小難しい理屈抜きに、私の手のひらに乗るように直感で伝わってくるのです。

これほどの細かな観察は、実際のコンサート会場の暗い客席からステージを遠目に眺めている入場者には、絶対に不可能なことです。現地から遠く離れたリビングにいながらにして、会場の誰よりも鮮やかに、演奏家たちの息遣いの真ん前に身を置くことができる。これは便利になったインターネットの恩恵などという生ぬるさに安住せず、主夫である私がリビングの青竹の上でグラグラと揺れながら勝ち取った、剥き出しの「勝利」なのです。

そして、このカメラワークが教えてくれる楽しさは、画面のなかに静かに聴き入っている会場の観客たちの顔がふっと映し出されたときにも最高潮に達します。「この人は今、どんな人生の思い出をこの旋律に重ね合わせているのだろう」と、見知らぬ誰かの生きてきた物語にまで、いくらでも想像を膨らませて楽しむことができます。ホールの360度オープン型の構造や重厚な空間の趣きを目で愉しむだけでも、音楽の味わいは、私の胃袋へ向かって何倍もの熱量で溢れかえってくるのです。

その圧倒的な映像優位性を、私は韓国の若きピアニスト、キム・スヨンによるモーツァルトのピアノ協奏曲第13番の演奏でも確信しました。ショパンコンクールでの結果など、彼女が紡ぐモーツァルトの音の前では何の意味も持ちえません。何より凄まじいのは、彼女の頭上から執拗に迫るカメラワークでした。

演奏を始める前に、彼女は力を抜いて、首をふっと動かし、天を仰ぐようにして大きく息を吐き出しました。まるで自らの身体を清め、一切の雑念を払い落とすかのような神聖な儀式。そこから彼女はおもむろに演奏へと入っていくのです。

31歳の彼女が身に纏うのは、驚くほど薄く軽やかな、大胆なカッティングの施された衣装。背中から横へと大胆に入ったスリットから覗く色白の肌が、天女の如き演奏をさらに際立たせます。頭上からのアングルは、右手が奏でる瑞々しいメロディーと左手の和音の動きを克明に映し出します。腕、そして指先が、モーツァルトの音に乗ってしなやかに動いていく。その映像を凝視しているだけで、私の71歳の血流は一気に加速します。

私はピアノを弾けません。しかしこの映像を観ている時、グラウンドで82歳の友人と何十年ぶりかにキャッチボールをやった、あの時の記憶が鮮烈に蘇るのです。

彼は重くて硬いキャッチャーミットを平気で使いこなしていましたが、私が触ってみるととても無理で、普通のグラブを借りて投げ合いました。その時、相手の球が私の手のひらにズバズバ、バシバシッと決まった、あの硬い肌感覚――。

画面の向こうから放たれる彼女の演奏は、まさにあのグラブの芯で白球をがっちりと受け止めた瞬間の衝撃となって、私の掌(たなごころ)へ直接に伝わってくるのです。大画面を通して、私は彼女の音楽を、耳ではなく、あの痛快な肉体の感触として、ガシッと「掴み取って」いました。

あとから分かったことですが、彼女のあの天衣無縫で柔らかい指先は、私がモーツァルト弾きの最高峰として深く尊敬するアルフレート・ブレンデルや、アンドラーシュ・シフ、そこでマリア・ジョアン・ピリスという歴史的な巨匠たちから直接教えと音楽的インスピレーションを受け継いだものだということです。あの構図は、まさにモーツァルトの真髄に肉薄した彼女の「正統なる系譜」の身体性を透視していたのでした。

一方で、同じ曲を、巨匠ダニエル・バレンボイムがベルリン・フィルを弾き振りするあのヴェルサイユ宮殿の映像を観たとき、私は音楽のあまりの違いに強い衝撃を受けました。彼女の柔らかなタッチとは対照的に、バレンボイムの強靭な肉体が放つ音は、どこまでもダイナミックでパワフル、骨太な力強さに満ちていたのです。

この「巨人のようなダイナミズム」の背景には、彼の人生を彩った最初の妻ジャクリーヌ・デュ・プレの剥き出しの生命力や、現在の妻エレーナ・バシュキロヴァといった、濃密な人間ドラマが彼のフィジカルにそのまま宿っているからに他なりません。

また、クラウディオ・アバド指揮、ベルリン・フィルと五嶋みどりによるチャイコフスキーの演奏。彼らの張り詰めた練習風景を食い入るように観ていたときも、ソリストである彼女の激しい体の動き、お互いの出方を探るような呼吸の仕方から、奇跡が立ち上がってくる瞬間を私は確かに感じ取りました。

楽譜のおたまじゃくしには、音楽をどのように奏でたら良いのか答えは書かれていません。その楽譜に対する演奏家の答えは、演奏する姿、肉体の動きをじっくり観察しさえすれば、おのずとわかるようになっているのです。

楽器の木目に刻まれた年季の入った傷の具合、ヴァイオリニストたちの足の構え方の左右の違い、それぞれの首の長さや髪型に至るまで、くまなく目を配ろうと思ったら本当にキリがないほどの、生々しい肉体的なディティールが、そこには溢れかえっています。演奏者の肉体の「あり方」ひとつで、名曲が天女の音楽にも、巨人の音楽にも変貌する。現代の緻密な映像は、そのフィジカルな奇跡を、私の眼前に克明にさらけ出してくれます。

私のこの「カメラワーク鑑賞論」をnoteに配信したところ、本当に面白いことに、立場の異なる方から熱い言葉がリアルタイムに飛び込んできたのです。

まず、今からわずか3週間前に喰らいついてこられたのは、note上で「館長」と名乗る、演奏会に通って60年を超えるという大ベテランの読者でした。120インチのスクリーンと4Kプロジェクターを自宅に備え、30年以上もオーディオ&ヴィジュアルを楽しみ尽くしてきたという、まさに私と同じ領域の筋金入りのマニア。その誇り高き反論の言葉は、実に生々しいものでした。

「生の演奏会の感動は、録音や映像での演奏を遥かに凌駕します。演奏会に通って60年を超えます。演奏を、演奏家を、音を、音楽を直接全身で受け止め、感じるのに、演奏会に優るものはありません。席がどんな席でもその日のコンサートの全てがわかります。オーデイオ&ヴィジュアルの魅力は30年を超え楽しみ十分承知していますが」

これほど痛快なことはありません。私の提示した肉体的な視線が、彼の凝り固まった60年の常識をバシッと引っ掻き回した証拠です。彼が現地で全身に浴びてきた音を、私はリビングの青竹の上で、同じだけの熱量で迎撃してみせたのです。

120インチのスクリーンを誇る館長との、熱い対話の興奮も冷めやらぬその翌週――今から2週間前になりますが、この私の孤独な視線が独りよがりの妄想ではないことを、教育の最先端に立つプロの現場が証明してくれました。

合唱や音楽の分野で全国屈指の伝統と実績を誇る名門、福島県立白河旭高等学校。その実践の現場である音楽室を預かる指導責任者の方から、私のnoteに、次のような驚くべきメッセージが直接寄せられたのです。

「最近の音楽の教育現場でも、身体性は重視されてきていると感じます。昔は師匠と同じ身体の使い方を叩き込まれて、何であの子はうまく声が出ないかねぇ?という感じのレッスンでしたが、音楽に例えば4スタンス理論などを応用する先生も増えており、足の位置や重心の取り方、指の曲げ方なども、お弟子さんに合った方法を選択的に教える場面を何度も経験しています。そのような教員向けの講習会も増えています。それを画面からだけで気づかれる観察眼は素晴らしいですね」

専門的な音楽教育など一切受けていない主夫の私が、ただリビングで画面を凝視していただけの視点。それが、彼らが現場で血眼になって実践している最先端の方程式と、オセロの石をひっくり返すように完全に一致してしまったわけです。

しかし、私がこの大画面の映像を通して解き明かしている教科書的な方程式は、何もクラシック音楽だけの特権ではありません。映画という芸術を鑑賞するときも、私はまったく同じ、いや、それ以上の圧倒的なディティールと対峙しているのです。

たとえば、私が深く尊敬する映画界の巨匠・溝口健二監督の『噂の女』。主役である田中絹代や久我美子が緊迫したセリフを交わしている画面の奥で、女中たちが何を喋るでもなく、完璧に計算された仕草で空間に溶け込んでいる。2階へと続く階段の細かな角度、木目の擦れ具合にいたるまで、職人たちが執念で作り込んだセットの佇まい。それらはすべて、演者たちの肉体のリアリティを引き出すために張り詰められた、ひとつの美しい「文体」であり、私の目を誘惑する極上のごちそうなのです。

溝口監督の現存する34本の作品の系譜を調べ、彼が幼少期にお姉さんを芸者として売り渡さざるを得なかったという、あの血を吐くような凄絶な生い立ち(バックボーン)をすべて自分の中に蓄積しておく。その巨大な大宇宙を胃袋に収めた上で、私は目の前にある置屋のセットの極小の1点へと、全知性を集中させてレントゲンのように見通す。

これは音楽の鑑賞においても、まったく同じことです。キム・スヨンが歩んできた軌跡、ブレンデルがモーツァルトに捧げた至高の系譜、バレンボイムがその強靭な肉体に宿した濃密な人生。そうした彼らの生い立ちをあらかじめ私の中にすべて蓄え、知り尽くした上で、私は今、目の前にある「この1曲」「この一瞬」のディテールに全神経を注ぎ込んでいるのです。

そもそも、私がこうして大画面の映像を通して行っているのは、単なる客観的な観察や学びなどではありません。画面に映し出される生々しいディテールと一体化していくうちに、いつしか私自身がその表現者そのものになって、まるで「化身」でもしたかのように、彼らと共に生き、自らの人生を生きるのです。

演奏者の肉体の躍動や、指揮者が魅せる天国の表情、観客の顔、音楽ホールの空気にまで身体ごと飛び込んで、音楽と完全に一つになること――。

それこそが、理屈を超えた音楽の本当のバックボーンにコミットするということなのだと、胸のすくような納得が押し寄せてきます。言うなれば、ただの「聴衆(お客さん)」であることをやめた、主夫hideだけの、新しい時代の最高に贅沢な遊びに他なりません。

このように、表現者が自らの身体を清め、雑念を払って至高の音を紡ぎ出す姿を、私は自分の肉体を通して透視するのです。

私は日々、玄米菜食を基本とし、自ら1,000個の梅干しを漬け、川辺に自生するハマダイコンの葉を求めてママチャリを走らせるほどに、食を通して、自分の肉体を管理しています。

ただ長生きをしたいわけではない。不純物のない、徹底的に清められた肉体を保っておくことで、画面の向こうから放たれる彼女たちの音楽を、細胞のすみずみまで、一滴の澱み(よどみ)もなく直接に注ぎ込むためなのです。いわば、これは私にとって、表現者の魂と完全にシンクロし、至高の音楽を身体ごと生きるための、静かな聖域のコンディショニングなのです。

この徹底的なコンディショニングというフィルターがあるからこそ、私はその奏でる音楽を、一滴の澱みもなく身体ごと生きることができるのです。

私がリビングの青竹の上で、そしてこのnoteという舞台の上で、これほどまでに剥き出しの命の躍動を叫び続けているのは、私の言葉を真剣に聴いてくれている「あなた」と、魂の底から真剣勝負の『対話』をしたいからです。ただの自分語りで読者を置いてけぼりにするようなエッセイなら、書く意味などどこにもありません。私がここで差し出している方程式は、あなた自身が今すぐ実践でき、あなたの人生を確実に豊かにする「生きた知恵」そのものなのです。

さあ、私のママチャリの後ろに、あなたも乗ってください。ただ面白かったと消費して終わるだけの退屈な客席は今すぐ飛び出して、私と一緒にこの世界のディテールを掬い取りに行きましょう。

「120歳現役」へ向かう私の知性と活力は、まだ見ぬあなたの熱い眼差しに支えられながら、今日もグラグラと揺れる一本の青竹の上で、熱く燃えています。

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