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【探究学習】委ねる日本人、偏在化する世界 ——一向宗から電脳空間まで

ふと、一向宗の歴史を思い出すところから、今回の長い思考の旅は始まりました。

戦国時代の一向宗といえば、信長とも渡り合った過激な武装教団というイメージが強い宗派です。ところが江戸時代に入ると、寺請制度という体制の装置に組み込まれることで、その過激さはすっかり薄められていきます。そして現在、浄土真宗として、日本でもっとも人々が属する最大の仏教教団になっている。牙を抜かれた宗教が、結果的に日本人の「デフォルトの信仰」になったわけです(この落差、ちょっと面白いですよね)。

このことをぼんやり考えていたら、ふと、こう思いました。日本人の国民性と呼ばれるもののうち、案外この浄土真宗から来ているものが多いのではないか、と。そして、その「何かに委ねる」という一つの思考の型が、宗教からゲームへ、ゲームからSNSやAIへと、器を変えながらずっと生き延び、今や世界そのものの構造を変えつつあるのではないか——というのが、この記事の一本の筋です。長くなりますが、最後までお付き合いください。

■ 「他力」という思考の型
浄土真宗の核にあるのは、親鸞の説いた絶対他力という発想です。自力でどうにかしようとするのを手放し、大きな流れ(阿弥陀の本願)に身を委ねる。そして悪人正機——善人よりむしろ悪人こそ救われるという逆説的な倫理観。自己を全肯定も全否定もしない、割り切れなさへの耐性のようなもの。

これは「諦め」や「なるようになる」といった、いかにも日本的な受容の感覚と地続きに見えます。以前読んだ本(たぶん吉本隆明の『最後の親鸞』だったと思います)にも、日本人の小説家や思想家の考え方の奥に、こうした宗教の影響が色濃く出ているのでは、ということが書かれていた記憶があります。

■ RPGという、もう一つの「他力」
ここで話が急に飛ぶのですが、子供のころ長時間やったドラクエやポケモン、FFといったゲームの影響も、実は相当大きいのではないかと思い至りました。

- 経験値・レベル上げ——努力は必ず数値として蓄積され、裏切らないという世界観。「積み上げれば報われる」構造は、日本的な勤勉さの美徳と親和性が高い。
- ポケモンの収集・育成——全部揃える、丁寧に世話をして強くするという発想。完璧主義的な几帳面さと通じるところがある。
- パーティ制——一人の主人公ではなく、複数キャラのバランスで戦う構造。個人プレーより「役割分担してチームで成し遂げる」という発想の刷り込み。

「経験値になる」「経験値稼ぎ」という言葉を、今の若い世代は当たり前のように使います。本来、経験は質的で一回性のものなのに、量的に蓄積されるものとして語られる。スタートアップの創業メンバー集めが「仲間を集める」というポケモン的・FF的なノリで語られるのも、同じ回路だと思います。受験勉強で「問題集を周回する」というのも、ザコ敵を倒して経験値を稼ぎ、ボス(入試本番)に挑む構造と同型です。

そういえば学生時代、3DCGソフトを覚えることを「RPGを攻略しているみたいだ」と言っていた人間がいたのを思い出しました。「習得する」ではなく「攻略する」という動詞を無意識に選ぶ。対象を「倒すべき障壁の連続」として捉える、この国特有の学習観なのかもしれません。

浄土真宗とRPG、一見まったく関係のない二つに共通しているのは、「大きな構造に身を委ねれば、努力は報われ、最後には救われる」という設計です。宗教が用意していた安心の構造を、戦後は物語コンテンツが引き継いだ、という見方もできそうです。

■ そしてAIという、次の「委ねる先」
ネットによって世界が繋がり、あらゆることがデジタルデータとして集積・分析され、AIによって思考される時代になりました。現実世界はよりバーチャル化し、AIが人間存在そのものに関与していく流れは、もう始まっているように感じます。

これは養老孟司の言う「脳化社会」——人間が自然そのものではなく、脳が作った情報環境の中で生きるようになっている状態——の、次の段階なのだと思います。ここで気になるのが、日本の場合、浄土真宗的な「他力」の思考の癖によって、AIが安易な形で使われてしまうのではないか、という懸念です。「委ねる」ことへの心理的ハードルが、もともと低い文化圏である可能性がある。「自分で頑張らなくても救われる」という発想が、「AIに丸投げしても許される」という感覚と地続きになりやすい。

もっとも、本来の親鸞の他力は「自力を手放すことで、かえって主体的な安心(信心)に至る」という逆説を含んでいました。AIとの関係も同じ構造を辿るなら、委ねることが思考停止ではなく、人間が本当に注力すべき部分に集中するための手放しになる可能性もゼロではありません。ただ、その理想形に辿り着く前に、単なる思考の空洞化として広がってしまうリスクの方が、今のところ現実的には高そうです。

■ 昭和生まれとの断絶、そして統治への波及
こうして考えていくと、自分のような昭和生まれの人間とは、決定的に違う価値観や前提のもとで、社会的な決定や行動が決まっていくのだろうという気がしてきます。昭和生まれの世代は、家族・会社・国家といった「人格を持った他者」に委ねてきた蓄積があります。一方、ネットとAIの中で育つ世代にとっては、「顔のないアルゴリズム」に委ねることが、最初から自然な選択肢としてある。

この影響は、企業運営や統治にも及ぶはずです。これまでの経営判断は、経験と勘、社内政治、忖度といった「人間くさい摩擦」を経て決まっていました。AIが本格的に関与し始めると、意思決定の速度は上がる一方で、「なぜその判断に至ったか」を誰も説明できない、不透明な他力的意思決定が組織の中枢に据わることになりかねません。

実はこの構造転換は、すでに具体的な産業の陰りとしても表れています。2026年2月、電通グループは海外M&Aで買収した企業ののれんの減損などが響き、前年度の最終損益が過去最大の3200億円超の赤字となり、創業以来初の無配に至りました(直近の四半期では急回復していますが)。電通が体現してきたのは「マスメディアという限られたチャネルを押さえ、プロが作った広告で認知を作る」という、供給側が独占する評価形成モデルでした。その土台が、まさにこれから話す「いいね」やAI検索という、個人や中小組織でも直接アクセスできる評価軸に食われつつある——電通の苦境は、認知形成の主導権そのものが「委ねる先」を変えた結果の症状に見えます。

■ 「いいね」という、外部化された経験値
スマホを小さい頃から持っていた子供たちが社会の多数を占めたとき、SNSの「いいね」や再生数のような指標が、人や組織の評価軸の大きな柱になっていくのではないか——これは、RPGの経験値がそのまま社会評価の指標として外部化されたもの、と言えるかもしれません。

可視化された数値が努力の証明になる。バズる動画の作り方、伸びるアルゴリズムの読み方自体が「攻略法」として語られ、タイムラインが一種の攻略対象になる。そして「自分がどう思うか」より先に「どれだけ見られたか」という外部の数値に、自己評価そのものを委ねてしまう——これは他力的な評価委譲であり、判断の主体を自分の内側から、外部の(この場合はアルゴリズムという)大きな構造に明け渡す動きの一形態です。

■ 攻略可能な評価軸と、新しい階層化
厄介なのは、この評価軸がある程度「攻略可能」なものであることです。従来の階層(家柄、学歴、資産)は生まれや長期の蓄積に縛られ、個人の工夫だけでは覆せない部分が大きかった。ところが「いいね」や再生数はアルゴリズムを読み解けば、技術として再現・量産できてしまう。つまり入り口は開かれているように見える。

しかし実際には、アルゴリズムの読み方を知っている人間とそうでない人間の分断が生まれ、バズらせること自体が職能として確立し、中身を作る人より数値化のプロセスを操作する人の方が評価される、というねじれが進みます。プラットフォームのルール変更で階層が一夜にして崩れることもありますが、いち早く新しい攻略法を見つけられる「攻略慣れした層」が再び上位に居座りやすく、結局は固定化していく。「開かれているように見えて、攻略力という新しい資本によって階層化される」——これは、かつて「南無阿弥陀仏と称えれば誰でも救われる」とされながら、実際には教団の組織化・寺請制度を通じて制度的な階層に回収されていった一向宗の歴史とも、うっすら重なる気がします。

■ AI検索を攻略する産業——GEO/AIOの現在地
今、会社にはAIの検索に引っかかるようなアピールを指南する企業からの営業電話が盛んにかかってきます。これはGEO(Generative Engine Optimization)、あるいは日本ではAIOと呼ばれる、SEOの次の世代の産業です。

有効性については、正直「効果はあるが再現性に乏しく、ブラックボックス」というのが実態に近いようです。質問と回答がセットで構造化されたコンテンツやFAQ形式は引用されやすい傾向があるとされ、実際に構造化を施したことでAI検索からの引用率に差が出たという事例報告もある一方、複数の専門メディアが「生成AIがいつ・どのように自サイトの情報を引用するかという構造自体がブラックボックスで急速に変化しており、制作側からのコントロールが効きにくい」と共通して指摘しています。再現性のある必勝法はまだ確立されておらず、SEOの黎明期に近い、経験則が飛び交う段階です。

それでも市場としては急拡大しており、海外では既に1,000億円超の規模になっているとされ、日本のSEO市場の年成長率が約9%であるのに対し、AIO・GEO市場は54.6%という際立った速度で伸びているというデータもあります。背景には、2026年までに従来の検索エンジン経由のトラフィックが25%減少するというGartner社の予測や、ChatGPTの週間アクティブユーザーが8億人を突破し、ユーザーの行動が「調べる」から「AIに聞く」へ移行しつつあるという地殻変動があります。まさに攻略法がまだ確立していない新しいダンジョンに、先乗りの攻略パーティが群がっている状態、というのがこの産業の現在地という感じがします。

■ 政治という先行例、そして個人の商売化
「人間の評価をSNS的・AI検索的に上げていく」ことは、すでに政治の世界で先行して商売になり始めています。主要政党は選挙のたびにデジタルマーケティング担当者の採用を強化し、平時からの発信の積み重ねが偽情報対策にもなるという認識が広がっています。ネットセキュリティ企業が政党向けにAIを使ったSNSリスクの即時検知サービスを提供し始めているのも、生成AIによるフェイク動画・画像の拡散が政治活動に直接影響するようになったからです。

政治家は「有権者からの評価」を最大化するプレイヤーとして、この構造をいち早く受け入れざるを得ない立場にありました。しかしこれは政治家に限った話ではなく、転職活動でのパーソナルブランディング代行、経営者個人のパーソナルGEO、マッチングアプリのプロフィール最適化代行など、一般人にも横展開しやすい構造です。本体(実力・実績)を良くするより、可視化(見え方)を良くする方がコストパフォーマンスが良いという逆転——実力ではなく、実力に見えるものを作る技術が、実力そのものより評価される社会が、すぐそこまで来ています。

■ 電脳空間、あるいはノウアスフィアの実装
人間の性格や経歴などがより細かく情報化され、あらゆるところから検索可能になっていく。これは、世界が電子的な一つの脳のような、まさに電脳空間として本格的に機能し始めた、ということなのだと思います。

この発想には先駆けがあります。20世紀前半、フランスの司祭で古生物学者でもあったテイヤール・ド・シャルダンがノウアスフィア(精神圏)という概念を提唱していました。地球を覆う生物圏の上に、人類の思考や知性が織りなす新しい層が形成されていく、という考え方です。当時は神学的・思弁的な構想に過ぎなかったものが、インターネットとAIによって、文字通り地球規模の「思考の層」として実装されつつあるのが、今の状況なのだと思います。個人の性格や経歴が細かく情報化されるということは、「自分」という単位が、閉じた内面を持つ個体ではなく、電脳空間上でいつでも参照・再構成可能な「ノード」に変質していくということでもあります。

■ 見られたい自分への接近——バーチャルと身体の融合
見られたい自分を、ネットなどのバーチャル空間や美容医療によって近づけていく。そのことで、世界のお金や力、評価も偏っていく——これは、かつて「盛れる写真の撮り方」で完結していたものが、身体そのものを「見られたい自分」に近づける方向にまで踏み込んできた、ということです。バーチャルとリアルの境界が、自己編集という一つの行為の中で溶けてきています。

編集能力そのものが資本になります。写真加工の技術、美容医療にアクセスできる経済力、それを継続的に維持する時間とお金。「見られたい自分」に近づけるコストは決して平等ではなく、元々資本を持つ層がより有利にこのゲームを戦えます。そして可視化された魅力が実際の経済的機会に転換され、電脳空間という一つの脳の中で、それを最も上手く実装できたごく一部の人間に、注目・信用・お金が雪だるま式に集中していく。

これは、ある意味「他力」の完全な裏返しです。親鸞の他力は、自力の作為(自己を良く見せようとする努力)を手放すことで真実の救いに至るという思想でした。しかし電脳空間における「見られたい自分」への接近は、自力の作為を極限まで研ぎ澄ませることで、電脳空間という新しい神(集合的評価システム)からの「救い」——富と力——を得ようとする営みです。委ねる相手は同じでも、そこに至る作法が真逆になっている。

■ 評価・容貌・知性の複利化——偏在化する世界へ
評価、容貌、知性(AI利用など)によって、あらゆるものが偏在化していく。これは単なる格差の拡大というより、格差の「アルゴリズム化」だと思います。しかもこの三つは互いに独立しておらず、相互に増幅し合う設計になっているところが厄介です。

知性(AI利用)が容貌と評価の編集能力を底上げする。AIを使いこなせる人間は、美容医療の情報収集・SNS運用・パーソナルブランディングのすべてを効率化できる。容貌(可視化された魅力)は評価を先取りし、中身を精査される前に第一印象で信用や機会が配分されてしまう。そして評価(蓄積された信用)が、次のAI利用や美容医療への投資原資になる。これはまさに複利の構造で、一度差がつき始めると、三つの軸が互いを加速させながら開いていきます。従来の格差(資産の世襲など)が比較的単線的だったのに対し、この新しい偏在は「知性・容貌・評価」という本来バラバラに分布していたはずの資質までもが、一つの資本(自己編集力とそれに投資できる原資)に収斂して、同じ人間・同じ集団に積み上がっていく点が質的に違う気がします。

■ おわりに——一本の線
ここまで長々と辿ってきた道筋を、あらためて俯瞰してみます。

一向一揆の過激さが江戸の寺請制度に組み込まれ、「委ねれば救われる」という他力の型が日本人の国民性の底に沈殿した。その型は、戦後、RPGという物語コンテンツに乗り移り、「積み上げれば報われる」経験値の快感として、勉強や仕事、スタートアップのノリにまで浸透した。そして今、その委ねる先は、SNSの可視化評価、AI検索という電脳空間の入り口、さらには美容医療による身体編集にまで広がり、評価・容貌・知性が複利的に絡み合う新しい偏在——新しい階層社会——を生み出しつつある。

他力とは、本来「手放すことで平等に救われる」はずの思想でした。しかしテクノロジーと結びついた他力は、皮肉にも、最も先鋭的な格差拡大装置に転化しつつあるのかもしれません。

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